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第10話 大瓶ビールと男の対話

 平日の夕方。

 新橋駅の高架下にある、正一の行きつけの赤提灯。

 電車の轟音が頭上をひっきりなしに通過し、もつ焼きの脂が弾ける煙が容赦なく目に染みる、むさ苦しい空間である。

 丸椅子にどかと腰を下ろした正一は、目の前に立つ若者を値踏みするようにねめつけた。


「話があるならついてこいと言ったが、本当に来るとはな。こんな煙たいオヤジの溜まり場、君らのような若者には似合わんだろう」

 正一はわざと意地悪く、鼻で笑った。

「いえ。お時間をいただき、ありがとうございます。とても活気があって、いいお店ですね」

 浩は嫌な顔一つせず、深く一礼した。


 あれから一週間。

 約束通り、浩は耳まで隠れていた長髪をすっきりと短く切り揃え、地味だが清潔にアイロンがけされた紺色の背広を着て、正一の会社の前に立っていた。

 その律儀さに正一は内心少し驚いたものの、決して顔には出さず、「ここで逃げ出すようならそれまでの男だ」と、わざとこの騒がしい店を選んだのだった。


「大将! キリンの大瓶、二本だ!」

 正一の怒鳴り声に、浩は姿勢良くパイプ椅子に座り、正一のおしぼりを広げて手渡すという気の利きようを見せた。


 ドン、と置かれた琥珀色のキリン大瓶。

「飲めるのか」

「はい。少しなら」

「男が少しなんてみみっちいことを言うな。俺が注いだ酒は全部飲め。残すことは許さんぞ」


 正一は浩のグラスに、なみなみとビールを注いだ。

 浩がグラスを空けると、すかさず次を注ぐ。

 酔い潰して醜態を晒させ、純子に「あんな酒癖の悪い男はやめておけ」と愛想を尽かさせる作戦だった。


「いいか。君たちみたいな今時の若い衆は、自由だの個性だのと口を開けば言うがな。家族を養うっていうのは、そんな甘いもんじゃないんだ」

 正一は自分のグラスを煽りながら、もつ焼きの串を片手に、昭和の猛烈社員としての説教を始めた。


「俺たちは焼け野原から、汗水垂らして泥水をすする思いでこの国を作ってきた。雨の日も風の日も、会社でペコペコ頭を下げて、屈辱に耐えながら家族に飯を食わせてきたんだ。男ってのはな、自分の我慢の上に家族の生活を成り立たせるもんだ。君みたいな、絵を描いてチャラチャラ遊んでいるような男に、うちの大事な娘の人生を背負う覚悟があるのか!」


 会社の部下である鈴木なら、「出たよ、精神論」「今はそういう時代じゃないんですよ」と鼻で笑ってそっぽを向く場面だ。

 正一は、浩も口答えをしてくるか、あるいは辟易して逃げ出すのを待っていた。

 しかし、浩の反応は違った。


「はい。お父様の仰る通りです」

 浩は姿勢を崩さず、真っ直ぐに正一の目を見て、静かに深く頷いたのだ。

「な……」

「私の仕事は、お父様から見れば地に足のついていない、遊びのようなものに見えるかもしれません。ですが、どんな仕事であれ、家族を背負う責任の重さは同じだと心得ております。私は自分の仕事に誇りを持っていますし、純子さんに決してひもじい思いはさせない覚悟です」


 浩は注がれたビールをグイッと飲み干し、自ら正一の空のグラスにビールを注ぎ返した。

 その手つきは堂に入っており、目上の者に対する深い敬意がこもっていた。


 大瓶が四本空いた。

 正一の作戦とは裏腹に、浩は顔こそ少し赤くなっているものの、目はしっかりと澄んでいた。

 逆に、ペースを上げて煽るように飲んだ正一の方が、少し呂律が怪しくなってきている。


「……なんで、純子なんだ」

 正一は、焼き鳥の串を灰皿に放り投げ、少しだけトーンを落として聞いた。

「純子じゃなくても、君みたいに若くて、そんだけ腹が据わってるなら、もっと他にいい女が……従順でおとなしい女がいるだろう」


「純子さんが、好きだからです」

 浩が、なんの衒いもなく真っ直ぐに答えた。

「純子さんは、よくご家族の話をしてくれます。熱すぎるお茶を文句言いながら飲むお父様の話。お肉の代わりにこんにゃくでカサ増しして誤魔化すお母様の話。カラーテレビのチャンネルを、おばあ様と一緒に奪い取った話」

「なっ……あいつ、外でそんな恥ずかしい話を!」

 正一が顔を真っ赤にして身を乗り出した。


「恥ずかしくなんてありません」

 浩がふわりと、心底愛おしそうに笑った。

「純子さんは、いつも本当に楽しそうに、誇らしげに笑いながら話すんです。『うちのお父さん、家ではすぐ威張るんだけど、本当は家族のために外で誰より頑張ってる、一番の働き者なんだ』って」

「……」

「私は親戚付き合いの薄い、静かな家庭で育ちました。だから、純子さんの話に出てくる、いつも賑やかで、本気でぶつかり合って、それでも深い愛情で結ばれている神田家の食卓が、本当に羨ましかったんです」


 電車の轟音が、再び頭上を通り過ぎていった。

 正一は、言葉を失っていた。


(純子のやつ……俺のことを、ただ煙たがってるだけじゃなかったのか)

 家では「お父さんキモい」「威張りすぎ」と文句ばかり言っている娘が、外では自分のことを誇らしげに語っている。

 そして目の前の若者は、自分が人生をかけて不器用に築き上げてきた『神田家という家族』を、心から尊敬の目で見つめている。


 正一は、急に目の奥がツンと熱くなるのを感じた。

 いかん。

 煙たさのせいだ。

 もつ焼きの煙が目に入ったせいだ。

 そう自分に言い訳をして、正一は顔を背け、手酌でグラスを満たそうとした。

 しかし、大瓶の底には、もうほんの少ししかビールが残っていなかった。


 正一はため息をつき、その残りのビールを、浩のグラスに注いだ。

 先ほどまでの、酔い潰してやろうという敵意をむき出しにした注ぎ方ではない。

 静かな、しかし父親としての確かな重みを持った注ぎ方だった。


「……調子に乗るなよ」

 正一が、ぽつりと言う。

「え?」

「俺はまだ、お前たちを認めたわけじゃないからな。今日はただ、酒を飲んだだけだ」

「はい。わかっております」

 浩はグラスを両手で持ち、大事そうに最後のビールを飲み干した。


「ごちそうさまでした、お父様」

「だから、お父様と呼ぶな!」


 店を出て、新橋の駅の改札で浩と別れた後。

 正一は、少し千鳥足になりながら、一人で夜道を歩いていた。

 秋の冷たい風が、酔った火照りを心地よく冷ましてくれる。


「……芯が強くて腹が据わっている、か」

 先日の、縁側でのキヨの言葉を思い出す。


 悔しいが、女たちの見る目は確かだった。

 あの若者は、自分がいくら凄んで脅しても、少しもブレなかった。

 逃げ出さなかった。


 正一の心の中には、大事な娘を奪われる「父親としての寂しさと敗北感」と、娘が立派な男を連れてきたという「父親としての静かな誇り」が、複雑に混ざり合っていた。


「家に帰ったら、春子に何て言ってごまかすか……」

 正一は夜空を見上げながら、照れ隠しのように鼻の頭を掻いた。

 その顔には、彼自身も気づいていない、微かな微笑みが浮かんでいた。

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