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第11話 お前みたいな男には

 昭和四十四年、十一月。

 木造平屋の神田家にも、底冷えのする季節がやってきた。

 居間の中心には、真っ赤な格子柄のカバーが掛けられた四角い電気こたつが鎮座している。

 ちゃぶ台の代わりに置かれたこたつの天板には、みかんの乗ったザルと急須が置かれていた。


「おい、純子」

 日曜日の午後。

 こたつにすっぽりと入り、報知新聞の野球面を広げていた正一が、不機嫌そうに口を開いた。

「浩とかいう男だがな。今週の日曜日にまた来ると言ってきたぞ」

「本当!? お父さん、会ってくれるのね!」

 みかんの筋を取っていた純子が、パッと顔を輝かせた。


「勘違いするな。挨拶に来るというのを無碍に追い返すのは家長としての度量が知れるから、家に上げるのを許可しただけだ。俺はまだ、あいつを認めたわけじゃないからな」

「ええっ、なんで? こないだ飲みに行って、結構盛り上がってたじゃない」

「馬鹿者。ちょっと酒を飲んだくらいで、大事な娘をホイホイくれてやる父親がどこにいる。あいつはまだ若造だ。本当に家族を養っていけるのか、俺がビシバシと厳しい面接をしてやるんだ」


 正一は新聞から目を逸らし、わざと尊大にふんぞり返った。

 浩の腹の据わった態度は、内心ではすっかり気に入っているのだ。

 しかし、「娘を取られる悔しさ」と「昭和の父親としてのメンツ」が邪魔をして、素直に首を縦に振ることがどうしてもできないのである。


「もう、なによそれ。お父さんの意地っ張り!」

 純子が、みかんを天板に叩きつけるように置いた。

「意地っ張りとはなんだ! 俺は親として当然の義務を果たそうと……」

「浩さんはね、お父さんみたいにすぐ怒鳴ったりしないの! 私の話をちゃんと聞いてくれるし、威張ったりもしない。優しい人なのよ!」

「男に本当に必要なのは、甘い言葉じゃない。黙って家族に飯を食わせる甲斐性だ。俺のようにだ!」

 正一が声を荒らげる。

 純子も負けじと立ち上がった。


「お母さんを見てよ! 毎日毎日、お父さんの顔色を窺って、熱いお茶だの、ぬるい味噌汁だのって、ご機嫌取りばっかりさせられてるじゃない!」

 台所で洗い物をしていた春子の背中が、ピクッと止まった。

「純子。およしなさい」

 春子が静かな声で制止するが、純子の口から飛び出した怒りは止まらなかった。


「私はね、お母さんみたいな惨めな結婚は絶対にしたくないの! 家の中でふんぞり返って『風呂!飯!』しか言わないような、お父さんみたいに威張る人とは、絶対に結婚しないんだから!」

 ピシャーン!

 純子は激しい勢いでふすまを閉め、自分の部屋に閉じこもってしまった。


 シンと静まり返った居間。

 純子の放った「お父さんみたいな人とは絶対に結婚しない」という言葉は、見えない鋭い刃となって、正一の胸に深く突き刺さっていた。

 正一はこたつに入ったまま、新聞を握りしめた両手を微かに震わせ、俯いていた。

 何も言えない。

 ただ、自分の不器用さがもどかしく、そして娘からの決定的な拒絶に、初老の男の心はひどく傷ついていた。


「……お父さん」

 春子がそっとこたつの向かいに座り、新しいお茶を差し出した。

 しかし正一は、何も言わずに立ち上がると、「……俺は、少し横になる」とだけ言い残し、逃げるように寝室へ向かってしまった。


 その日の夜。

 正一は夕飯もそこそこに、さっさと布団をかぶって寝てしまった。

 居間では、春子とキヨがこたつに向かい合い、のんびりとみかんを剥いていた。

 部屋の隅に置かれたナショナル製のトランジスタラジオからは、深夜放送から流れる皆川おさむの『黒ネコのタンゴ』の陽気なリズムが、小さな音で流れている。


「……可哀想に。お父さん、すっかり落ち込んでましたね」

 春子が、みかんの皮を剥きながらクスクスと笑った。

「自業自得さね。素直に『浩くんはいい男だ』って言えばいいものを、余計な虚勢を張るからあんな風に噛みつかれるんだ」

 キヨも、熱いほうじ茶をすすりながらカラカラと笑う。

 正一の落ち込みようは哀れだったが、神田家の女たちにとって、それは「不器用な男の愛嬌」のようなものであった。


「でも、純子にあんな風に言われると、私まで少し反省してしまいますわ。純子の目には、私が虐げられている哀れな妻に見えていたんですね」

「純子はまだ若いからねぇ。夫婦というものの、本当の機微がわかっちゃいないのさ」

 キヨは、みかんを一口放り込み、細い目をさらに細めた。


「あのね、春子さん。男ってのは、外の社会じゃ毎日泥水をすする思いで戦ってるんだ。理不尽な上司に頭を下げ、嫌な客に愛想笑いをしてね。そうやってボロボロになった男が、唯一『自分が偉いんだ』って錯覚して安心できるのが、この家という城なのさ」

「ええ。わかっています」

 春子が静かに頷く。


「亭主関白なんてのはね、私ら女が、外で戦う男のために用意してやった『玉座』みたいなもんさ。あの子にふんぞり返らせておくことで、また明日戦いに行く気力を養わせてる。それこそが、家を守る女の本当の強さってもんさ」

「本当ですね。……あの人が『俺が一番だ』って気持ちよく威張ってくれているのを見るの、私、結構好きなんです」

「だろう? あの子は単純だから、機嫌よく威張らせておけば、給料袋を丸ごと渡してくれて、私たちを一生懸命守ろうとしてくれる。こんなに操縦しやすくて、可愛い生き物は他にいないよ」

 嫁と姑は顔を見合わせ、夜更けの居間で声を忍ばせて笑い合った。


 純子にはまだわからない。

 表向きは夫が支配しているように見えるこの家が、実は春子とキヨの「見えざる手」によって完璧にコントロールされているということを。

 そして、「虐げられている」はずの春子が、実は誰よりも正一を深く理解し、その不器用な愛情に包まれて、確かな幸福を感じているということを。


「純子も、いずれわかる時が来るさ。あの長髪の浩さんと夫婦になって、一緒に白髪になるまで連れ添えばね」

 キヨが、みかんの皮を綺麗に丸めながら言った。

「そうですね。……でもお義母さん、日曜日の浩さんのご挨拶、どうしましょうか。お父さん、また意地を張って怒鳴るんじゃありませんか?」

「心配いらないよ。春子さん、お前さんの出番さ。昔話をもう一つ二つ、純子の前で暴露してやれば、正一のやつ、一発で大人しくなるからね」

「ふふっ。そうですね。とっておきの、一番恥ずかしい話を準備しておきます」


 冷たい秋風が、木造平屋の雨戸をガタガタと揺らしている。

 しかし、こたつを囲む女たちの周りだけは、ポカポカと温かい空気に包まれていた。

 不器用な昭和の男は、今夜も女たちの深い手のひらの上で、そうとは知らずにイビキをかいて眠っている。

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