第12話 純喫茶のナポリタン
「純子のやつ……まだ俺を避けてるな」
日曜日のお昼前。
正一はどてら姿でこたつに潜り込んだまま、深いため息をついた。
純子から「お父さんみたいな人とは絶対に結婚しない」と宣言されてから、まる一週間。
家の中には冷たいすきま風が吹き荒れていた。
純子は正一と口を利こうとせず、正一も家長としての意地があるため、自分から歩み寄ることができなかった。
普段なら『風呂!』『飯!』と威勢のいい声が響く神田家も、この一週間はまるでお通夜のように静かだった。
「お父さん」
ふすまが開き、よそ行きの千鳥格子のコートを着た春子が顔を出した。
片手には小さなハンドバッグを持っている。
「なんだ」
「少し、お出かけしましょうよ。お天気もいいですし」
「嫌だ。休みの日に人混みなんか歩きたくない。俺は寝る」
正一はこたつ布団を頭からかぶろうとしたが、春子にすかさず布団をめくられた。
「ダメですよ。おヒゲを剃って、背広を着てください。たまには夫婦水入らずで歩きたいんです」
春子の声は柔らかかったが、有無を言わせぬ響きがあった。
正一は渋々立ち上がり、洗面所へ向かった。
縁側では、キヨが猫のように丸まりながら「いってらっしゃい、お二人さん。お手並み拝見だねぇ」と小さく呟いていた。
すべては、嫁と姑の秘密の「関白プライド回復作戦」なのである。
二人がやってきたのは、浅草の仲見世通りを少し横道に逸れた場所にある、古びた純喫茶『ロマン』だった。
カランコロンとドアベルを鳴らして中に入ると、焙煎されたコーヒー豆の香ばしい匂いと、タバコの煙が混ざった独特の空気が漂ってくる。
えんじ色のビロード張りの深いソファに、ステンドグラスのランプシェード。
片隅に置かれたジュークボックスからは、いしだあゆみの『ブルー・ライト・ヨコハマ』がアンニュイなメロディを奏でていた。
「懐かしいわね。このお店、まだあったのね」
「……ああ。お前と見合いをした後、何度か来たな」
正一は少し気恥ずかしそうに店内を見渡し、店の奥のボックス席に腰を下ろした。
「いらっしゃいませ。ご注文は」
蝶ネクタイを締めた初老のマスターが、お冷と紙のおしぼりを持ってくる。
「ナポリタンを二つ。それから、私はメロンのクリームソーダ。この人はブレンドコーヒーをお願いします」
春子が迷いなく注文する。
「お前、ナポリタンなんかで腹が膨れるのか」
「たまにはこういうハイカラなものが食べたいんです。お父さんだって、昔はここでナポリタンを食べて、『洋食ってのはうまいもんだな』って笑ってたじゃないですか」
春子に指摘され、正一はバツが悪そうに紙のおしぼりで顔をゴシゴシと拭いた。
数分後、ジュージューと食欲をそそる音を立てて、鉄板に乗ったナポリタンが運ばれてきた。
ケチャップの真っ赤な色に、ピーマンの緑、そしてタコさんウィンナー。
鉄板の熱で底のほうの麺が少しカリッと焦げており、粉チーズとタバスコをお好みでかけて食べるのが昭和の純喫茶の定番である。
春子の前には、アイスクリームと真っ赤なサクランボが乗った鮮やかな緑色のクリームソーダが置かれた。
「いただきます」
正一はフォークに麺を巻きつけ、大きな口を開けて頬張った。
ケチャップの濃厚な酸味と甘味が、口いっぱいに広がる。
「……うまいな」
「でしょう? ここのナポリタンは特別ですもの」
春子も嬉しそうにフォークを動かす。
しばらく無言で麺をすすっていた正一だったが、不意にフォークを置き、窓の外を行き交う人波に目を向けた。
「……純子のやつ、俺のことを心の底から軽蔑しているみたいだな」
正一の声は、信じられないほど小さく、弱々しかった。
家では決して見せない、鎧を脱いだ素の男の顔だった。
「『お父さんみたいに威張る人とは絶対結婚しない』か。……俺は、ただあいつに幸せになってもらいたいだけなのに、なんであんな風にしか言えないんだろうな」
自分の不器用さを呪うような正一の背中を見つめ、春子はそっとフォークを置いた。
「純子はまだ子どもなのよ。表の顔しか見えてないんです」
「……」
「お父さんが、どれだけ外の社会で理不尽な思いをして、私たちのために泥水をすする思いで働いてくれているか。純子はまだ、本当の意味ではわかっていないんです」
春子のまっすぐな言葉に、正一は顔を上げた。
「私は、知っていますよ」
春子は、クリームソーダのグラスについた水滴を指で拭いながら、穏やかな声で続けた。
「あなたが家で威張るのは、外で家族を守るために、気を張って戦っている証拠だって。男の人が外で戦うのがどれだけ大変か、私には想像することしかできないけれど……でも、家に帰ってきた時くらい『俺が一番偉いんだぞ』って安心してふんぞり返れる場所がなきゃ、お父さんの背中は潰れてしまうでしょう?」
「春子……」
「私は、あなたがお茶が熱いと文句を言ったり、休みの日にこたつから出なかったりしても、一度も惨めだなんて思ったことはありません。むしろ、そんな不器用なお父さんを、とても頼もしいと思っているわ」
ジュークボックスの曲が、いつの間にかフランク永井の低音に変わっていた。
「浩さんは優しくていい青年だけど、お父さんほどの甲斐性と覚悟が備わるには、まだ少し時間がかかりますよ。だから純子は、いずれあなたのような『家族を体を張って守る男』の本当の凄さに気づくはずです。だって、私の娘ですもの」
春子はそう言って、クスッと笑った。
「……お前というやつは」
正一は、急に目の奥が熱くなるのを感じて、慌ててコーヒーのカップを手に取った。
ブラックのまま一口飲む。
「にがっ……」
思わず顔をしかめる正一の前に、春子がスッと銀色のシュガーポットとミルクピッチャーを差し出した。
「お父さん、コーヒーにはお砂糖三杯とミルクたっぷりでしょう? 昔からちっとも変わらないんだから」
見透かされたように笑う春子から逃れるように、正一は無言で砂糖を三杯すくってカップに入れ、カチャカチャとスプーンでかき混ぜた。
甘いコーヒーをすすると、強ばっていた胃の奥が、じんわりと温かくほどけていくのを感じた。
「……今日のことは、純子にもおふくろにも内緒だからな」
「ええ。わかっています。私たちだけの秘密のデートですね」
春子は、ストローでメロンソーダをすすりながら、サクランボのような可愛いい笑窪を見せた。
店を出ると、浅草の空はすっきりと晴れ渡っていた。
正一は、来るときよりも背筋をすっと伸ばし、春子の半歩前を堂々と歩いている。
その背中は、再び「家族を守る家長」としての確かな自信と誇りを取り戻していた。
「お父さん、歩くのが早いわよ。少し待ってちょうだい」
「お前がトロいんだ。ほら、早く来い」
口ではぶっきらぼうに言いながらも、正一は少しだけ歩幅を小さくして、春子が追いつくのを待った。
昭和四十四年。
純喫茶のナポリタンの甘酸っぱい匂いとともに、夫婦の心の距離は、またほんの少しだけ近づいていた。




