第13話 キヨの小さな咳
昭和四十四年も暮れようとしている、十二月の半ば。
木枯らしが吹き荒れ、神田家の古いすきま風だらけの木造家屋は、芯から冷え込む季節になっていた。
居間には電気こたつが置かれ、部屋の隅ではアラジン型の石油ストーブが青い炎を上げて、独特の灯油の匂いを漂わせている。
「なんだと! 結婚式場は赤坂のプリンスホテルがいいだと?」
どてらを着込んでこたつに入った正一が、大声で怒鳴った。
手には、春子がつけた熱燗の徳利が握られている。
「だって、お友達はみんなホテルでやってるもん! お父さんの時代みたいに、公民館や神社の集会所で地味にやる時代じゃないのよ!」
結婚情報誌を広げた純子も、負けじと声を張る。
浩との結婚を渋々認めた正一だったが、今度は結納や結婚式の準備のことで、毎晩のようにこうして親子喧嘩が繰り広げられていた。
「バカモノ! 結婚式なんてのはな、親族に顔見せができればそれで十分なんだ。西洋の真似事をして、ホテルでチャラチャラと……だいたい、そんな金がどこにある!」
「お父さん、声が大きすぎますよ。ご近所に聞こえちゃいます」
春子が、正一のお猪口にお酒を注ぎながら静かになだめる。
「うるさい! 俺は間違ったことは言っとらんぞ!」
その騒々しいやり取りを、少し離れた縁側の座椅子から目を細めて見守っていたキヨが、ふいに口元をハンカチで覆った。
「コン、コン……ケホッ」
小さな、しかし乾いた咳だった。
「お義母さん、大丈夫ですか? 縁側は冷えますから、こたつに入ってくださいな」
春子が振り返り、心配そうに声をかける。
「なんのこれしき。冬の乾燥した冷たい空気に、喉がビックリしただけさね。……コン」
キヨは気丈に笑ってみせたが、その咳はここ数日、しつこくキヨの小さな体を揺さぶっていた。
「とにかく!」
正一は、こたつの天板をドンと叩いて話を戻した。
「結婚式は百歩譲って純子の好きにさせるとしても、来月の『結納』の日は、あちらのご両親に絶対にナメられてはならん! うちの家格というものを見せつけてやるんだから、床の間の掛け軸も新しくて立派なものを買ってだな……」
「家格って何よ、うちはただの平屋のサラリーマンじゃない!」
「うるさい! 家長である俺が決めるんだ!」
正一の怒鳴り声に、春子がすかさず「そうですね、お父さん。でも……」と、絶妙なタイミングで助け舟を出す。
「あまり立派な掛け軸を飾って私たちが威張ってしまうと、あちらのご両親が気後れしてしまって、浩さんが肩身の狭い思いをするかもしれませんよ。お父さんの度量の広さを見せるためにも、ここはあえて普段通りの、質素で堅実な神田家の姿を見せたほうが、向こうも安心するんじゃないかしら」
「む……」
正一は腕を組み、しかめっ面で考え込んだ。
「そうか。浩のヤツに恥をかかせるのは本意ではないな。よし、掛け軸はいつものやつで許してやろう。俺の寛大さに感謝するんだな」
春子の見事な『家長のプライドを立てつつ誘導する』操縦術によって、正一はコトリと大人しくなった。
「はーっはっは」
その嫁の見事な手綱さばきを見て、キヨが声を上げて笑おうとした瞬間、再び激しい咳き込みが襲った。
「ケホッ、ゴホッ……ゴホッ!」
「お義母さん!」
「おばあちゃん、大丈夫!?」
正一と純子も慌ててこたつから立ち上がり、駆け寄る。
「……大丈夫さ。少し、横になるよ」
キヨは春子に背中をさすられながら、自分の部屋へ向かった。
その後ろ姿は、秋の頃に比べてひと回り小さく、ひどく頼りなく見えた。
翌日の午後。
正一は会社に行き、純子も仕事でいない、家の中がしんと静まり返った時間。
春子は、おろした生姜と砂糖でとろみをつけた熱い葛湯を入れたお椀を盆に乗せ、キヨの部屋のふすまを静かに開けた。
部屋には、古い畳の匂いと、微かに防虫剤の樟脳の匂いが漂っていた。
冬の薄暗い日差しが、障子越しに差し込んでいる。
「お義母さん、起きてらっしゃいますか。葛湯をお持ちしました」
「……ああ、春子さん。すまないねぇ」
キヨは分厚い布団に横たわったまま、弱々しく微笑んだ。
春子は枕元に座り、キヨの背中をそっと支え起こして葛湯を飲ませる。
「温まるねぇ……春子さんの作る葛湯は、本当に美味しい」
「少し、咳が落ち着きましたね。明日、念のためにお医者様に診てもらいましょうね」
「大げさだよ。ただの年寄りの風邪さ」
キヨは葛湯を飲み終えると、布団の上に春子の手を取り、しわくちゃの冷たい手で優しく包み込んだ。
「……春子さん。お前さんには、本当に感謝しているんだよ」
「急にどうされたんですか、お義母さん。改まって」
「正一も、純子も、お前さんの大きくて温かい手のひらの上で、本当に気持ちよさそうに泳いでる。お前さんがこの家に嫁に来てくれて、私は本当に安心したんだ」
キヨは、天井の木目を、遠くを見るような目で見つめた。
「正一はね、あんな風に大声で威張っているけれど、本当はすごく怖がりで小心者なんだよ。……あの人が十歳の時に、夫が死んでね。それからあの子は、小さな体で新聞配達なんかをして私を助けてくれた。長男として、自分が母親を守らなきゃって、無理に肩を怒らせて、背伸びして『強い男』を演じてきたんだ」
「お父さんが……」
「そうさ。自分の弱さを見せたら、家族が不安になる。だから、わざと大声を出して『俺が家長だ』って威張ることで、自分を奮い立たせてるんだよ。それが、あの子なりの、不器用で必死な家族への愛情表現なのさ」
春子の目に、思わず涙が滲んだ。
正一の横暴にも見える亭主関白の裏に、そんな生い立ちと悲壮な覚悟が隠されていたことを、春子は初めて知った。
「だからね、春子さん。あの子が外の社会でボロボロになって帰ってきた時は、家で思い切り威張らせてやっておくれ。『お前が一番偉いんだぞ』って、安心できる玉座に座らせてやっておくれ。あの子の弱さを、その笑顔で包み込んでやっておくれ」
「はい……はいっ。わかっています。私、お父さんのこと、誰よりも尊敬していますから」
春子はポロポロと涙をこぼしながら頷き、キヨの細い手を力強く握り返した。
「……安心したよ」
キヨは、憑き物が落ちたような、とても穏やかで美しい笑顔を浮かべた。
「私がいなくなっても、これからは一人で、あの子を上手く転がしておやり」
「お義母さん、そんな縁起でもないこと言わないでください。純子の花嫁姿も、ひ孫の顔も見るって約束したじゃないですか」
「わかってるさ。ただの独り言だよ」
キヨは小さく咳払いをして、春子の目を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、かつて「妻」として、「母」として神田家を一人で守り抜いてきた女の、静かな凄みが宿っていた。
「春子さん。正一の味噌汁の温度は、もう、すべてお前さんに任せたよ」
それは、ただの料理の引き継ぎではなかった。
「神田正一という不器用な男のすべてを、そしてこの神田家という城を、あなたに託す」という、姑から嫁への、絶対的な信頼と確かなバトンの受け渡しだった。
「……はい。お任せください、お義母さん」
春子は畳に手をつき、深く、深く頭を下げた。
すきま風がガタガタと障子を揺らしている。
本格的な冬の足音とともに、神田家に少しずつ、しかし確実に「別れ」の気配が近づいていた。




