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第14話 黒ネコのタンゴと結納

 昭和四十五年、一月。

 新年を迎え、少し寒さが和らいだ日曜日の朝。

 神田家は、朝から戦場のような慌ただしさに包まれていた。


 今日は、純子と浩の「結納」の日である。

 畳の目は隅々まで拭き清められ、床の間には春子がいけた見事な松竹梅の生け花が飾られている。

 掛け軸は、正一の「家格を見せつける!」という主張を春子が宥めた結果、昔からある質素だが品のいい水墨画が掛けられていた。


「おい、春子! 俺の礼服のネクタイが曲がってないか!」

 居間で、真新しい黒のダブルの礼服に身を包んだ正一が、落ち着きなくウロウロと歩き回っている。

「大丈夫ですよ、お父さん。ビシッとして、とても立派です」

 割烹着姿で立ち働いていた春子が、笑顔でネクタイの結び目を直す。


「いいか。相手の親がどんな人間かは知らんが、こちらは大事な一人娘をくれてやる立場なんだ。あちらから三つ指をついて『どうか純子さんを』と頭を下げるまでは、絶対にこっちからペコペコしないからな! 家長としての威厳というものを見せつけてやる」

「はいはい。お父さんは上座で、どっしりと座っていてくださいね」

「うむ!」

 正一が腕を組んでふんぞり返った時、奥の部屋のふすまが開いた。

「お父さん、お母さん。どうかな」


 真っ赤な地に、華やかな牡丹と鶴が描かれた総絞りの振袖。

 美しく着付けられた純子が、少し照れくさそうに立っていた。

 いつもはミニスカートで生意気な口を利く娘が、見違えるような大人の女性の顔になっている。

 正一は一瞬息を呑み、そして急にソワソワと視線を泳がせた。

「……ま、まあ。馬子にも衣装だな」

「もう、素直じゃないんだから」

 純子が少し唇を尖らせる。

 その時、開け放した窓の向こう、近所のどこかの家のラジオから、皆川おさむの『黒ネコのタンゴ』の陽気でリズミカルな歌声が流れてきた。

 のどかで、平和な昭和の休日だった。


「車が着いたみたいだよ」

 別室で休んでいたキヨが、ゆっくりと顔を出した。

 正一は「よし!」と大きく深呼吸をし、眉間にシワを寄せて、戦に赴くような厳しい表情を作った。


「ごめんくださいませ」

 玄関を開けた正一は、いきなり出鼻をくじかれた。

 浩の背後に立っていた両親の姿が、予想を遥かに超えて「立派」だった。

 父親は、仕立ての良さが一目でわかる上質なスリーピースのスーツを着こなし、ロマンスグレーの髪を綺麗に撫で付けている。

 母親も、控えめながらも最高級の訪問着を身にまとっている。

 そして何より、浩の両親の後ろから屈強な運転手が運び込んできたのは、白木しらきの立派な台に乗った、目も眩むような「九品目の結納品」と、大きな角樽つのだるだった。


「初めまして。浩の父の、高橋でございます。本日はお日柄もよく……」

 浩の父親が、落ち着いた、しかし威厳のあるバリトンボイスで挨拶を始めた。

「こ、これはご丁寧に! 神田でございます!」


 正一の体が、勝手に動いた。

 長年のサラリーマン生活で骨の髄まで染み付いた「自分より目上で、金と権力を持っていそうな相手」に対する反射神経だった。

 正一は、先ほどまでの「絶対にペコペコしない」という誓いを一瞬で忘れ去り、腰を九十度に曲げて、もみ手をするような勢いで頭を下げてしまった。

「どうぞどうぞ、むさ苦しいところですが、お上がりください! さあさあ!」

 正一のあまりの愛想の良さに、後ろに控えていた純子が「ちょっと、お父さん!」と小声で袖を引っ張るが、正一の耳には入っていない。

 一行が居間に通され、座布団に座った後、名刺交換が行われた。


「私、現在、東都銀行の常務取締役を務めておりまして……」

「じょ、じょ、常務様でいらっしゃいますか!」

 浩の父親の肩書きを見た瞬間、正一は完全に「平社員」の顔になってしまった。

 中堅商社の営業部長である正一にとって、メガバンクの常務といえば、雲の上のさらに上の存在である。

 逆立ちしても勝てる相手ではない。


「いやあ、浩くんのような素晴らしい好青年をお育てになられたご両親は、さぞ立派な方だろうと思っておりました! うちの純子のようなじゃじゃ馬には、もったいないお話で!」

「いえいえ。浩はああしてフラフラとデザインなどという絵空事の仕事をしておりまして、私どもも心配していたのですが……神田さんのような、堅実で温かいご家庭のお嬢さんと一緒になれると聞いて、本当に安心したのですよ」

「とんでもございません! うちのようなボロ屋に……あ、春子、早く極上のお茶をお出ししろ!」


 正一は、自分の座布団の端にちょこんと正座し、浩の父親の湯呑みが少しでも空けば、両手で恭しく急須を持ち上げてお茶を注ぐ。まるで、会社の接待の席のようだ。

 純子はあまりのみっともなさに顔を真っ赤にして俯き、隣の部屋のふすまの隙間から覗いていたキヨは、声を殺してクスクスと笑い転げていた。

 ただ一人、春子だけが涼しい顔で、見事なフォローを見せていた。


「高橋様。主人は会社でも、こうして常に周りに気を配る、とても働き者なんです。家では『俺に任せておけ』とドッシリ構えてくれているので、私たちも安心して生活できているんですよ」

「ほう。素晴らしいお父様ですね。浩、お前も神田さんのような、家をしっかり守れる男になりなさいよ」

「はい、父さん」

 春子の魔法のような一言で、正一のペコペコした態度は「家族のために外で気を配る立派な家長」という美談にすり替わってしまった。

 正一は「は、ははは! それほどでも!」と、引きつった笑顔で額の汗を拭った。


 夕方。

 高橋家の一行が、黒塗りのハイヤーで帰っていった。


「……あー、疲れた」

 正一は、居間のこたつにドップリと崩れ落ち、大の字になった。

「もみ手をしすぎて、手のひらがつりそうだよ。お前、浩の親父さんが銀行の常務だなんて、一言も言ってなかったじゃないか!」

「ちゃんと言ったよ。でも、お父さんが『どこの馬の骨の親だ!』って怒鳴って、私の話を全然聞かなかったんじゃない」

 純子が、振袖から普段着に着替えながら呆れたように言った。


「でも、無事に結納の品も納まって、本当によかったですね。お父さんのおかげで、あちらもすっかり安心されたみたいですし」

 春子が、角樽の飾りを片付けながら優しく微笑んだ。

 正一は「まあな」と力なく返事をし、そのままこたつで高いイビキをかき始めた。

 極度の緊張から解放されたのだった。


 夜も更けた頃。

 春子は、温かい葛湯を持ったお盆を持ち、キヨの部屋のふすまを開けた。

「お義母さん。起きてらっしゃいますか」

 キヨは、布団の中で静かに目を覚ました。

「ああ、春子さん。今日は、大仕事だったねぇ」

「ええ。でも、お父さんのあんなに慌てたおかしな顔、久しぶりに見ました」

 春子が笑うと、キヨも「ケホッ」と小さく咳き込みながら、嬉しそうに目を細めた。


「相手が偉い人だとわかった途端、直立不動になるんだからねぇ。本当に、正一はしょうがない男だよ。……でも、これで純子も安心だね。本当に、いい日だった」

「ええ。純子の振袖姿、とても綺麗でしたね」

「ああ……綺麗だった。春子さん、ごくろうさま」


 キヨは葛湯を一口だけ口に含むと、疲れたように目を閉じた。

 その顔は、すべての肩の荷を下ろしたような、とても穏やかで、満ち足りた表情だった。

「お義母さん、ゆっくりお休みになってくださいね」

 春子が布団を掛け直すと、キヨは「うん……」と小さく頷き、静かで規則正しい寝息を立て始めた。


 ラジオからは、昼間と同じように『黒ネコのタンゴ』が流れていた。

 昭和四十五年の冬の夜。

 神田家にとって一番おめでたくて、一番賑やかだった結納の日は、こうして静かに幕を下ろした。

 キヨの寝顔は、まるで仏様のように優しく、安らかだった。

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