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第15話 秋風と縁側の空席

 昭和四十五年、十一月。


 純子の結納から十ヶ月が過ぎ、神田家の庭の柿の木がすっかり葉を落とし、寒々しい枝を晒す季節になっていた。

 純子の結婚式を翌年の春に控え、家の中が少しずつ慌ただしさを増していく中で、その「別れ」は、足音を立てずに静かにやってきた。


「……お父さん。お義母さんが」


 ある晩秋の冷え込んだ朝。

 春子の震える声で目を覚ました正一が、急いでキヨの部屋へ駆けつけると、キヨはいつもと同じように、穏やかな顔で布団の中に横たわっていた。

 まるで、今にも「おはよう、正一。朝からまた大声を出して」と笑いかけてきそうだったが、その小さな胸はもう、微かな上下運動すらしていなかった。


「おい、おふくろ。起きろ。朝飯の時間だぞ」


 正一は信じられない思いで、キヨの肩を軽くゆすった。

 しかし、返事はない。

 慌てて往診に駆けつけたかかりつけの医者は、キヨの冷たくなった手首に指を当て、静かに首を横に振った。

 見立ては「老衰」だった。

 苦しんだ様子は全くなく、本当に眠るように、寿命の蝋燭がふっと燃え尽きたのだという。


「……そうか。眠るようにか。……まだ、温かいじゃないか」


 正一は、キヨの額にそっと触れ、ポツリと呟いた。

 春子はキヨの細い手を両手で包み込み、声を出さずにポロポロと涙を流している。

 純子も部屋の隅で、タオルを顔に押し当てて泣きじゃくっていた。

 正一だけが、現実を受け止めきれないような、ぽっかりと穴の空いた無表情のまま、ただキヨの穏やかな寝顔をじっと見下ろしていた。


 しかし、その呆然とした空白の時間は、長くは続かなかった。

 親戚への連絡、町内会への挨拶、葬儀社との打ち合わせ。

 家の中が人が出入りする戦場に変わった瞬間、正一は突然スイッチが入ったように、いつもの「家長」の重たい鎧をガシャンと身にまとったのだ。


「おい、祭壇は一番立派なやつにしろ! 白木じゃなくて、彫刻が入ったやつだ! 花もケチるな、最高級の白菊を並べるんだ!」

「お父さん、そんなに見栄を張らなくても、お義母さんは身内で静かに送ってほしいと……」

「うるさい! 俺は長男で、この神田家の喪主だ! おふくろにはこれまで散々苦労をかけたんだ。女手一つで俺を育ててくれたんだぞ。最後くらい、町内の誰よりも立派に見送ってやらないでどうする! 俺の言う通りにしろ!」


 通夜と告別式の準備が進む中、正一は異常なまでのハイテンションで、誰彼構わずに怒鳴り散らし、矢継ぎ早に指示を飛ばした。

 少しでも段取りが遅れれば葬儀社の人間に噛みつき、弔問客への挨拶では「私が家長として、母を最後までしっかり面倒見ましたので! 母も幸せだったと思います!」と、聞かれてもいないのに大声で演説をぶった。

 春子は、正一の影に隠れて「申し訳ありません」「主人が気が立っておりまして」と、葬儀社や親戚たちにこっそりと頭を下げて回っていた。


「お父さん、ちょっとおかしいよ。あんなに空回りして、怒鳴ってばっかり……おばあちゃんのお葬式なのに」

 純子が、台所で立ち働く春子に小声でこぼした。

「いいのよ、純子。言わせておいてあげなさい」

 春子は、弔問客に出すお茶の急須にお湯を注ぎながら、静かに首を振った。

「お父さんはね、あんな風に大声を出して威張っていないと、立っていられないの。悲しくて、寂しくて、どうしようもない自分の心を守るために、必死で家長の鎧を着て戦っているのよ。だから、私たちがしっかり裏で支えてあげなきゃいけないの」

 春子の言葉に、純子はハッとして正一の背中を見た。

 弔問客の前で胸を張って大声で笑っている正一の背中は、いつもよりずっと小さく、そして痛々しいほどに限界まで強張っていた。


 慌ただしい通夜と告別式が終わり、親戚たちもそれぞれの家へ帰っていった。

 火葬場から白い骨壺に入れられて帰ってきたキヨは、居間に設けられた後飾り祭壇あとかざりさいだんの上にちょこんと乗っていた。

 お線香のツンとした匂いだけが、部屋に漂っている。


 すべてが終わった、翌日の午後。

 あれほど人の出入りで騒がしかった神田家は、耳鳴りがするほど、嘘のようにしんと静まり返っていた。

 純子は溜まった仕事を片付けるために会社へ行き、家の中には正一と春子だけが残されていた。


 正一は、黒いネクタイを緩めた背広姿のまま、居間のちゃぶ台の前に力なく座っていた。

 目の前には、春子が淹れた熱いお茶が置かれている。

 いつもなら「ぬるい!」だの「渋い!」だのと文句をつけるところだが、今の正一は、お茶に口をつけることすら忘れていた。


 正一の視線の先には、縁側があった。

 晩秋の冷たい風が、開け放たれた障子の隙間から入り込み、庭の落ち葉をカサカサと鳴らして通り過ぎていく。

 縁側の特等席には、キヨがいつも座っていた古い藤椅子が、ポツンと空席のまま置かれている。


(……正一。そんなに歩き回ったら、畳がすり減っちまうよ)

(……正一の味噌汁の温度は、春子さんに任せたよ)


 耳の奥で、キヨのあの、少ししゃがれた穏やかな笑い声が蘇る。


 正一は、十歳の時に父親を亡くし、それからずっと「自分が母を守らなければ」と気を張って生きてきた。

 大声で怒鳴り、家長として振る舞うことで、弱い自分を奮い立たせ、キヨを安心させようとしてきた。

 俺が立派な男になれば、おふくろは安心するはずだと信じてきた。

 だが、その守るべき母は、もうどこにもいない。

 自分が威張って見せる相手は、安心させてやりたい相手は、もうあの藤椅子には座っていない。


「……ああっ」

 突然、正一の口から、獣のうめき声のような音が漏れた。

「ああっ……おふくろっ……」

 ピンと張り詰めていた緊張の糸が、プツリと切れた瞬間だった。

 正一は、ちゃぶ台に両手をつき、ポロポロと大粒の涙をこぼし始めた。

 それはすぐに、激しい嗚咽へと変わった。

「ううっ……うわあぁぁぁっ!」

 五十五歳の、白髪交じりの会社の営業部長が、まるで迷子になった十歳の子どものように、大声を上げて泣きじゃくった。

 鼻水を垂らし、肩を激しく震わせ、「おふくろぉ……おふくろぉ……」と何度も何度も繰り返し叫んだ。

 これまで必死に着込んでいた「亭主関白」という重たい鎧が、音を立てて完全に崩れ落ちた。

 残されたのは、ただ一人の、無力で悲しい「息子」の姿だった。


 台所で洗い物をしていた春子は、その泣き声を聞いて、静かに手を止めた。

 布巾で手を拭き、足音を忍ばせて居間へ入った。


 春子は、床に突っ伏して泣き崩れる正一の隣に座った。

 慰めの言葉は、何も言わなかった。

「元気を出して」とも、「泣かないで」とも言わなかった。

 ただ無言のまま、正一の広く、激しく震える背中にそっと両手を置いた。

 そして、キヨがいつも正一を安心させるようにしていたのと同じリズムで、ゆっくりと、ゆっくりと、正一の背中をさすり続けた。


 冷たい秋風が、縁側の藤椅子を通り抜け、居間に吹き込んでくる。

 しかし、春子の手のひらの温もりだけが、正一の凍えるような深い悲しみを、静かに、そして確かに包み込んでいた。

 神田家から、一つの時代が、永遠に失われた日だった。

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