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第16話 ガックリと落ちた肩

 昭和四十五年、十二月。


 キヨの葬儀から、ひと月が過ぎようとしていた。

 四十九日の法要を終え、白木の位牌から本位牌へと変わり、真新しい仏壇に納められても、神田家を包む喪失感は少しも薄れることはなかった。


 冬の朝は暗く、そして底冷えがする。

 正一は、六時に目を覚まし、布団の中でしばらく天井の木目をぼんやりと見つめていた。

 以前なら、ガバッと勢いよく起き上がり、「春子! 飯だ! ストーブをつけろ!」と家中に響き渡る声で怒鳴っていた時間である。しかし今の正一は、抜け殻のようにのっそりと起き上がり、音を立てずにふすまを開けた。


 洗面所で顔を洗い、タオルで無造作に顔を拭く。

 そして、何かに引き寄せられるように、正一の足は縁側へと向かった。


「……おい、おふくろ。今日は一段と冷えるぞ。そんなところに座ってないで、こたつに……」

 無意識のうちに口をついて出た言葉は、空っぽの縁側に吸い込まれて消えた。

 そこには、冷たい冬の朝日に照らされた、主のいない古い藤椅子がポツンと置かれているだけだった。

 正一はハッとして口を閉ざし、足元に視線を落とした。

 ズシリと、見えない鉛のような重りが胸にのしかかってくる。

 わかっている。もうあそこに、おふくろはいない。

 頭では理解していても、四十五年間、常に自分を後ろから見守ってくれていた存在が消えたという現実に、体と心がどうしても追いつかない。


 居間に入ると、すでにちゃぶ台には朝食が並べられていた。

 焼き鮭、ほうれん草のお浸し、納豆、そして豆腐とわかめの味噌汁。

 正一は、どてらを羽織っていつもの上座にドカッと座る……のではなく、まるで他人の家にでも来たかのように、遠慮がちに腰を下ろした。


「お父さん、おはようございます。お味噌汁、温め直しますか?」

 台所から春子が声をかける。

「……いや、いい。このままでいい」


 正一はボソリと答え、箸を取った。

「なんだこのぬるい味噌汁は!」という、かつてのあの威勢のいい怒鳴り声は、すっかり鳴りを潜めていた。

 黙々と、ただ腹を満たすためだけに箸を動かす正一の背中は丸まり、いつもなら背広をビシッと着こなすためのあの広く厚い肩は、見る影もなくガックリと落ち込んでいた。


 朝の通勤ラッシュ。

 昭和の高度経済成長を支える猛烈社員たちが、殺気立った顔で満員電車にすし詰めになっている。

 いつもなら、正一は「痛えな! 押すな!」と肩をいからせ、自分のパーソナルスペースを強引に確保する「戦うサラリーマン」だった。

 しかし今日の正一は、押し寄せる人の波になすがままに流され、電車のドアの隅に小さく縮こまっていた。

 人に押されても、足を踏まれても、怒りすら湧いてこない。

 ただ、電車が揺れるたびに、ぼんやりと窓の外の灰色の空を眺めていた。


 会社に着いても、その様子は変わらなかった。

 書類の山が積まれたデスクに向かっても、正一の目は活字の上を滑るだけで、何一つ頭に入ってこない。


「あの、神田部長。この間の企画書の件なんですが……」

 部下の鈴木が、恐る恐る声をかけてきた。

 普段なら「こんな穴だらけの企画書で通るか! 書き直せ!」と灰皿を叩いて説教が始まるところだ。


「……ああ。鈴木か。……わかった。そこに置いておいてくれ。後で見ておく」

「えっ……あ、はい。よろしくお願いします」

 あまりの気の抜けように、鈴木は拍子抜けした顔でデスクを離れた。

 周囲の部下たちも、ヒソヒソと心配そうに正一を見ている。

「猛烈」を絵に描いたような神田部長から、完全に牙が抜け落ちてしまった。


 昼休み。

 正一は社員食堂には行かず、一人で会社近くの公園のベンチに座っていた。

 冷たい風が吹き抜け、枯れ葉が足元をカサカサと転がっていく。

 正一は、手の中で冷たくなった缶コーヒーを見つめながら、ため息をついた。

(……俺は、何のためにこんなに急いで走ってきたんだっけな)

 ふと、視線の先で、ハトに餌をやっている腰の曲がった老婆が目に入った。

 その瞬間、正一の脳裏に、鮮烈な記憶がフラッシュバックした。


 まだ正一が中学生の頃。

 雨の日の夕方。

 傘を持たずに学校へ行った正一を迎えに来て、駅前のロータリーでずっと立って待っていたキヨの姿だった。

 自分の肩を濡らしながら、正一に大きなこうもり傘を差し出して「風邪を引くよ」と笑った母の顔。

 父親が死んでから、二人で必死に生きてきた。

 「俺がおふくろに楽をさせてやるんだ。俺が立派な男になって、この家を守るんだ」

 その一心で、歯を食いしばり、他人に頭を下げ、泥水をすする思いで出世街道を這い上がってきた。

 家族のために、そして何より、苦労をかけた母を安心させるために、「俺は偉いんだぞ」「俺についてくれば大丈夫だぞ」と威張り続けてきた。


 だが、その最大の原動力が、不意に消え去ってしまった。

 張り詰めていた心の糸が、プツリと切れたまま、結び直すことができない。

 正一は、ベンチに深く身を沈め、冷たい両手で顔を覆った。


 夜。

 正一が家に帰ってきた。

「おい、帰ったぞ! 風呂だ!」といういつもの号砲はない。

 ガラガラと玄関を開け、靴を揃えると、コートを着たまま真っ直ぐに仏間へ向かった。


 真新しい黒檀こくたんの仏壇。

 正一は正座をし、線香に火をつけた。

 チリン、とりんを一度だけ鳴らし、深く目を閉じて手を合わせる。

 立ち上る線香の煙の匂い。

 かつてはただの仏間の匂いだったそれが、今は痛いほどに「おふくろの匂い」として正一の鼻腔を突く。


(……おふくろ。俺はもう、疲れたよ)

 心の中で、正一はポツリとこぼした。

(おふくろが安心するように、一生懸命、偉そうに威張ってきたけどな。……もう、誰に向かって威張ったらいいのか、わからなくなっちまったよ。俺は本当は、ただの臆病で意気地のない、十歳のガキのままなんだ)

 肩が、小刻みに震える。

 線香の灰が、ポトリと香炉に落ちた。


「お父さん」

 ふすまが開き、春子が静かに声をかけた。

「ご飯の支度、できていますよ。純子も待っています」

「……ああ。今行く」

 正一は目元を乱暴に手で拭い、ゆっくりと立ち上がった。


 居間では、純子が心配そうな顔で正一を待っていた。

 夕食が始まっても、正一はほとんど箸を進めない。

 茶碗のご飯を少しつつき、ため息をつくだけだ。


「お父さん、少しはおかず食べなよ。どんどん痩せちゃうよ」

 純子がたまらずに声をかける。

「ああ……すまん。腹があまり減ってなくてな」

「……お父さん」


 純子は泣きそうになるのをこらえ、うつむいた。

 あの「風呂!飯!」と怒鳴り散らしていた、うるさくて面倒くさいお父さんが、すっかり小さなお爺ちゃんのようになってしまったことが、純子にはどうしようもなく悲しかった。


「純子。無理に食べさせなくてもいいのよ」

 春子が、純子を優しく制した。

「男の人の心ってね、私たちが思っているよりもずっと繊細で、壊れやすいの。心の中にあった一番太い大黒柱がなくなっちゃったんだから、元に戻るには、少し時間がかかるのよ」

「お母さん……」


 春子は静かに立ち上がり、やかんを持って正一の席の隣に座った。

 そして、正一の湯呑みに、新しく淹れた熱い緑茶をたっぷりと注いだ。

 湯気が、モウモウと立ち上っている。

「はい、お父さん。お茶が入りましたよ」

 正一は何気なく湯呑みを手に取り、口に運んだ。

 ズズッ。

「あちちっ!」

 正一は思わず湯呑みをちゃぶ台に置き、舌を出した。

「お、おい春子! なんだこのお茶は! 熱すぎて舌が火傷するかと思ったじゃないか!」

 一ヶ月ぶりに響き渡った、正一の大きな怒鳴り声だった。

 純子がハッとして顔を上げる。


 春子は、怒鳴る正一の顔を見て、クスッとイタズラっぽく笑った。

「あら、ごめんなさい。つい、うっかり熱く入れすぎちゃいました。……明日は、ちゃんとお父さんの好きな、ぬるいお茶にしておきますね」

 その春子の顔を見た瞬間、正一はすべてを悟った。

 わざとだ。

 春子はわざと熱いお茶を出し、自分を怒鳴らせたのだ。

 キヨから受け継いだ「正一の味噌汁の温度は、すべてお前さんに任せたよ」という遺言。

 それを、春子は自分のやり方で実践し、完全に牙を抜かれて落ち込んでいた正一の心に、小さな火を灯そうとしてくれたのだった。


「……たく。お前というやつは、何年主婦をやってるんだ。淹れ直せ」

 正一の声は、先ほどまでの覇気のないボソボソ声ではなく、少しだけ本来の「家長」の芯が通った声になっていた。

「はいはい。申し訳ありませんでしたね」


 春子が嬉しそうに湯呑みを持って台所へ向かう。

 正一は、再び仏間の方へ視線を向けた。

 おふくろは、もういない。

 だが、自分の前には、自分の不器用な威張りを「玉座」として用意し、温かく見守ってくれる妻がいる。

 そして、春には嫁に行き、新しい家族を作る娘がいる。


(……俺はまだ、倒れるわけにはいかんのか)

 正一のガックリと落ちていた広い肩に、ほんの少しだけ、見えない力が戻ってきた。

 冷え切っていた神田家の居間に、久々に、少しだけ温かい温度が戻った冬の夜だった。

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