第17話 五十五歳の辞令
昭和四十六年、三月。
固く閉じていた桜のつぼみが少しずつ膨らみ始め、東京の街に春の気配が漂い始めた頃。
神田正一は、長年勤め上げた中堅商社の重役室に呼び出されていた。
「神田くん。長い間、本当にお疲れ様だったね」
革張りのソファに深く腰掛けた専務が、一枚の辞令をテーブルの上に滑らせた。
『定年退職ならびに出向を命ず』
和紙に毛筆で書かれたその文字が、正一の目に冷たく突き刺さる。
昭和のこの時代、サラリーマンの定年は「五十五歳」が一般的であった。
もちろん、頭ではわかっていたことだ。
いつかこの日が来ることは、カレンダーをめくるたびに意識の片隅にあった。
会社からは、系列の小さな下請け会社での顧問という名ばかりの天下り先が用意されていたが、給料はこれまでの半分以下になるし、何より第一線で部下を怒鳴り散らしながら数字を追いかける「戦う男」としての居場所は、今日で完全に失われた。
「……はい。つつがなく勤め上げることができたのも、会社のおかげでございます。ありがとうございました」
正一は、自分の声がひどく遠くから聞こえるような気がしながら、深く頭を下げた。
重役室を出て自分のデスクに戻ると、すでに総務部が荷物をまとめるための段ボール箱を用意していた。
三十年間、雨の日も風の日も、這いつくばるようにしてしがみついてきた自分の城が、あっという間に片付けられていく。
「神田部長……これまで、本当にありがとうございました。部長の背中から、たくさんのことを学ばせていただきました」
いつも正一に怒鳴られてばかりだった部下の鈴木が、目を赤くして花束を差し出した。
「馬鹿野郎。男が人前で泣くな。これからはお前たちが会社を引っ張っていくんだぞ」
正一はわざと大きな声で言い、鈴木の肩をバンと叩いた。
だが、その声はどこか空虚に響き、自分の手の方が痛く感じられた。
花束と、長年愛用してきた湯呑み、そして家族の写真が入った紙袋。
たったそれだけの荷物を抱えて、正一は逃げるように会社を後にした。
夕方の五時。
いつもなら、これから赤提灯に寄って焼き鳥と大瓶のビールで仕事の愚痴をこぼすか、あるいは足早に帰宅して「風呂!飯!」と威張る時間。
しかし、今日の正一は、すぐに家に帰る気にはどうしてもなれなかった。
背広姿のまま、正一はふらふらと歩き続け、自宅から少し離れた小さな神社の境内にたどり着いた。
木製の古いベンチに腰を下ろす。
紙袋と花束を隣に置き、正一は自分の両手を見つめた。
ペンダコができ、関節が太くゴツゴツとした手。
家族を養うために、誰にでも頭を下げ、理不尽な要求にも耐え、プライドをすり減らして戦ってきた手。
その手のひらから、今日、「部長」という肩書きが滑り落ちた。
「会社」という、自分が身にまとっていた一番分厚くて強固な鎧が、無惨にも剥がれ落ちた。
(……俺から会社を取ったら、いったい何が残るっていうんだ)
薄暗くなっていく境内で、正一は深くため息をついた。
家では「俺が一番偉いんだ、俺が食わせてやっているんだ」とふんぞり返っていた。
亭主関白という玉座に座っていられたのは、毎月分厚い給料袋を居間のちゃぶ台に叩きつけることができたからだ。
その給料が半分になり、ただの「窓際のお爺ちゃん」になってしまったら。
純子は、春子は、はたして今までのように自分の言うことを聞いてくれるだろうか。
馬鹿にして、見下すのではないか。
そんな惨めな想像が、正一の胸をギリギリと締め付ける。
冷たい春先の風が吹き抜け、境内の大きなイチョウの枝を揺らした。
サワサワという葉の音が、ふと、亡き母・キヨの優しい声に聞こえた。
(……正一。お前はもう、十分に頑張ったじゃないか)
正一は、ゆっくりと目を閉じた。
暗闇の中で、鮮やかな記憶が蘇る。
あれは、正一が初めて就職し、初めての給料袋を手にした日のこと。
戦後のまだ貧しかった時代。
正一は初任給を握りしめ、浅草の小さな小間物屋で、べっ甲柄の安い櫛を買って帰った。
ぼろぼろのアパートの四畳半。
夜なべをして内職をしていたキヨの前に、その櫛を差し出した。
『おふくろ。これからは俺が稼ぐから。もう無理しなくていいからな』
そう言って胸を張った十代の正一に、キヨは櫛を両手で大事そうに抱きしめ、ボロボロと涙を流した。
『ありがとうねぇ、正一。立派な男になったねぇ。でも、あんまり無理をして、自分をすり減らすんじゃないよ』
その日から、正一はずっと走り続けてきた。
母に楽をさせたくて。
春子に苦労をかけたくなくて。
純子にひもじい思いをさせたくなくて。
「無理をするな」という母の言葉に背を向けるように、わざと大声で威張り、弱い自分を鼓舞しながら、四十五年間、重たい荷物を背負って走り続けてきた。
(……おふくろ。俺の仕事は、これで終わったのか?)
正一は、誰に問いかけるともなく、心の中で呟いた。
(もう、無理して走らなくても、いいのか?)
その問いに対する答えは、風の音にかき消されて聞こえない。
だが、正一の目からは、ふいにツーッと熱いものがこぼれ落ちた。
キヨが亡くなった日のような、子どものような激しい号泣ではなかった。
静かに、音もなく、これまでの四十五年間の澱のような疲れと、張り詰めていた緊張感が、涙となって溢れ出た。
「……終わったんだな。俺の戦いは」
ベンチに座ったまま、正一は両手で顔を覆い、静かに、ただ静かに泣いた。
夕闇が境内の木々を包み込み、街灯がポツリと温かいオレンジ色の光を灯すまで、正一は思い出の中に深く浸るように、いつまでも涙を流し続けていた。
すっかり夜になってから、正一は神田家の玄関の引き戸を開けた。
「ただいま」の声は、小さく、ひどく掠れていた。
「お父さん、お帰りなさい。遅かったですね」
割烹着姿の春子が、小走りで玄関に出てきた。
居間の方からは、純子が浩と一緒に結婚式の招待状の宛名書きをしている楽しげな声が聞こえてくる。
春の風に乗って、新しい家族が旅立とうとしている希望の匂いがする。
その華やかな空気に対して、紙袋と花束を抱えて立ち尽くす自分の姿が、ひどく惨めで場違いに感じられた。
「……春子」
「はい」
「今日で、定年だ。明日からはもう、部長じゃない。給料も半分になる」
正一は、俯いたまま、絞り出すように言った。
春子に愛想を尽かされるかもしれない。
そう思うと、顔を上げることができなかった。
だが、春子は驚く様子も、落胆する様子も全く見せなかった。
ただ静かに正一に近づき、正一が抱えていた紙袋と花束を、優しく両手で受け取った。
「長い間、本当にお疲れ様でした。お父さん」
春子の声は、春の陽だまりのように温かく、そして深い慈愛に満ちていた。
「雨の日も、風の日も、理不尽なことばかりの社会で、私たちのためにずっと戦い続けてくれて。本当に、本当にありがとうございました。私、お父さんのお嫁さんになれて、世界一幸せでしたよ」
春子はそう言って、深々と、三つ指をつくように美しく頭を下げた。
正一は、言葉を失った。
会社という鎧を失い、肩書きを失い、ただの初老の男になってしまった自分を、春子は「世界一の夫」だと言ってくれた。
張り詰めていた正一の肩の力が、今度こそ完全に抜けた。
ガックリと落ちていたはずの肩が、不思議と少しだけ軽く感じられる。
「……馬鹿なことを言うな。飯にするぞ」
正一は、照れ隠しのように顔を背け、居間へと向かった。
その背中は、以前のように大きく威張ったものではなかったが、長年の重荷を下ろしたばかりの、穏やかで静かな男の背中だった。
昭和四十六年。
猛烈社員として昭和の高度経済成長を駆け抜けた一人の男が、人生の第一線を、静かに降りた夜だった。




