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第18話 背広と作業着

 昭和四十六年、三月三十一日。

 神田正一が、三十年余り勤め上げた商社に、正社員の「部長」として出勤する最後の日であった。


 朝六時。

 遠くで新聞配達の自転車のブレーキ音がキーッと鳴り、牛乳瓶がカチャカチャとぶつかる昭和の朝の音が聞こえる。

 正一が目を覚ますと、すでに隣の布団は綺麗に畳まれていた。

 ふすまを開けて居間に出ると、アイロンの焦げたような甘い匂いと、カツオ出汁の香りが混ざり合って漂っている。

 春子が、ちゃぶ台の横で、正一の一番上等な濃紺の背広に、最後のアイロンをかけていた。

 背中から袖口まで、一寸の狂いもない見事な折り目がつけられていく。


「おはようございます、お父さん」

 春子はアイロンを立てて置き、静かに微笑んだ。

「……ああ。そんなに念入りにしなくてもいい。どうせ今日で最後だ。誰が見るわけでもない」

「最後だからですよ。神田部長としての最後の一日、誰よりも立派な後ろ姿で歩いていただかなくちゃ」

 春子は背広をハンガーに掛け、愛おしそうに肩を払った。


 朝食の膳には、正一が好きなアジの開きと、熱い豆腐の味噌汁が並んでいた。

 正一は黙って箸を動かしたが、味噌汁の温かさが、今日はやけに胃の奥まで沁み渡るような気がした。

 食事が終わり、正一が玄関に向かうと、土間には黒い革靴が鏡のようにピカピカに磨き上げられて並んでいた。


「お父さん、靴、磨いといたからね」

 もうすぐ浩の元へ嫁ぐ準備で忙しいはずの純子が、洗面所から顔を出して言った。

 手には靴墨の黒い汚れが少しついている。

「……馬鹿野郎。靴なんて、駅前の靴磨きにやらせればいいんだ。手が汚れるだろうが」

「いいから。三十年間、私たちを養ってくれたお礼も込めて、特別サービスよ。気をつけて行ってらっしゃい」

 純子の屈託のない笑顔に、正一は言葉を詰まらせ、ただ「……行ってくる」とだけ短く答えて家を出た。

 春の朝のまだ少し冷たい空気が、磨き上げられた革靴と、糊のきいた背広をピリッと引き締める。

 家族の温かい見送りを受けて、正一は「猛烈社員」としての最後の花道を、胸を張って歩いていった。


 その日の夜。

 歓送迎会も終わり、正一は、記念品の置時計や花束の入った紙袋を両手に提げて、すっかり暗くなった見慣れた路地を歩いていた。

 近所の家の窓からは、テレビのバラエティ番組の笑い声や、夕飯の匂いが漏れ聞こえてくる。 

 いつもと変わらない平和な夜。

 だが、自分の内側では、大きな時代が一つ終わったのだという虚脱感があった。

 玄関の引き戸を開けると、台所からすき焼きの甘辛い、いい匂いが漂ってきた。


「ただいま」

 声を張ることもなく、静かな「ただいま」だった。

「お帰りなさい、お父さん。三十年間、本当にお疲れ様でした」

「お疲れ様! さあ、今日はお父さんの大好きなすき焼きよ!」

 春子と純子が、揃って玄関に出迎えてくれた。


 正一は居間に入り、長年身を包んできた背広をゆっくりと脱いだ。

 ハンガーに掛けるその手の動きは、どこか儀式のように厳かだった。

 これで、自分の「戦う男」としての分厚い鎧を、完全に脱ぎ捨てたのだ。


 ふと、部屋の隅に、見慣れない茶色い段ボール箱が置かれているのに気がついた。

「あれはなんだ?」

「ああ、お父さん。夕方、お父さんの次の出向先の会社から、荷物が届いてましたよ」

 春子が段ボールを開けると、中からビニール袋に入った、安っぽい青色の作業着ジャンパーが出てきた。

 明日から正一が通う系列の小さな子会社は、倉庫管理や雑務が主体の会社である。

 肩書きこそ「顧問」だが、実態はただの天下りの事務員だ。

 これからは、あの仕立てのいい背広ではなく、この作業着を着て、若い社員たちに混ざって伝票を整理したり、荷物を運んだりすることになる。


 正一は、その青い作業着を手にとった。

 ペラペラで軽く、何の威厳もない服だった。

 これを着た自分を想像すると、ひどく惨めで、ただの老いぼれた小さなお爺ちゃんになってしまうような気がした。

「……こんなもん、着られるか」

 正一が自嘲気味に呟いた時だった。

「ちょっと着てみてよ、お父さん」

 純子が、正一の背中を押した。

「よせ、恥ずかしい」と抵抗する正一に、純子は半ば強引に青い作業着の袖を通させた。

「……ほら、似合わないだろう。ただの町工場の老いぼれだ」


 正一が肩を落として言うと、純子は少し首を傾げ、それから満面の笑みを浮かべた。

「ううん。なんだか、すごく親しみやすくていいよ! 背広を着て『俺が部長だ!』っていつも眉間にシワを寄せて威張ってたお父さんより、ずっと優しそうに見える」

「そうですね。威圧感がなくて、とても素敵。なんだか、新婚の頃の若いお父さんに戻ったみたい」

 春子も、目を細めて頷いた。

 正一は、キョトンとして二人を見た。

 背広を脱ぎ、肩書きを失い、こんな安っぽい作業着を着た惨めな自分を、妻と娘は少しも馬鹿にしていない。

 むしろ、「こっちの方がいい」と心から笑って受け入れてくれている。


「……お前たち、俺を慰めようとしているんだろう」

「違いますよ。ただ、ようやく肩の力が抜けたお父さんを見るのが、私たちは嬉しいだけ」

 春子が、すき焼きの鍋にマッチで火をつけながら言った。

「さあ、お父さん。早く座って。せっかくのお肉が煮えすぎちゃいますよ」


 ジュージューと肉の焼ける音と、醤油と砂糖の甘い匂いが居間に満ちる。

 かつて、カラーテレビが我が家にやってきた日に、亡き母・キヨも一緒に囲んだあの賑やかなすき焼きの夜を、正一は思い出していた。


(おふくろ。俺は今日で、背広を脱いだぞ。明日からは、この安っぽい作業着だ)

 心の中で、仏間のキヨに語りかける。

 もう、大声で威張る必要はない。

「俺が食わせてやっているんだ」と虚勢を張る必要もない。

 会社という鎧を失って残ったのは、ただの一人の不器用な初老の男と、その男を心から愛し、労ってくれる、かけがえのない家族の温もりだけだった。


「お父さん、ビール注ぐね」

 純子が、正一のグラスにビールを注いでくれる。

 もうすぐこの家を出ていく娘の、優しい手つきだった。

「ああ……すまん」

「お肉も、お父さんが一番に食べてくださいね。今日は特別に、本物の牛肉ですからね。こんにゃくでカサ増ししてませんよ」

 春子がイタズラっぽく笑いながら、正一の小鉢にたっぷりと肉を取り分けた。

 正一は、作業着のままちゃぶ台に向かい、溶き卵に肉を絡めて口に運んだ。

 肉の旨味と一緒に、言いようのない安堵感が、胸の奥深くまで染み渡っていく。


「……うまいな」

「でしょう? 奮発したんですから」

 正一は、グラスのビールをゴクリと飲み干した。

 三十年間、重い重い荷物を背負い続けてきた肩は、もうガックリとは落ちていなかった。

 青い作業着姿の正一の背中は、春子と純子に見守られながら、穏やかな春の夜の空気に溶け込むように、ただただ静かに、そして幸せそうに丸みを帯びていた。


 昭和四十六年。

 戦後を駆け抜けた猛烈社員の時間は終わり、神田家には、肩書きのない家族だけのゆっくりとした、新しい時間が流れ始めていた。

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