第19話 バージンロードは歩かない
昭和四十六年、五月。
風薫る、という言葉がふさわしい、見事な日本晴れの朝だった。
神田家の庭に植えられたツツジが満開に咲き誇り、開け放たれた縁側のガラス戸から、初夏の眩しい陽光が真っ直ぐに畳の上に差し込んでいる。
「……おい、春子。このネクタイ、どうも首が締まって苦しいんだが」
居間の鏡台の前で、正一が貸衣装のモーニングコートの襟元をいじりながら不機嫌そうに呟いた。
「お父さん最近、少し太ったんじゃない? じっとしてて」
黒留袖をビシッと着こなした春子が、正一の前に立ってネクタイの結び目を直す。
定年退職をしてからというもの、あの安っぽい青色の作業着でのんびりと倉庫番をしている正一は、現役時代のヒリヒリとした緊張感が抜けたせいか、顔つきも体つきもすっかり丸くなっていた。
「苦しいのは気のせいよ。ほら、とても立派なお父様です」
春子が肩を払いながら、目を細めて微笑む。
正一は「ふん」と鼻を鳴らしてそっぽを向いたが、その手は微かに震えていた。
今日。
一人娘の純子が、浩の元へ嫁ぐ日。
純子は、早朝から美容室へ行き、すでに式場である赤坂のホテルへ向かっている。
家の中には、正一と春子の二人きりだった。
いつもなら「お父さん、またテレビ見ながら寝てる!」と甲高い声で怒る娘の姿も、バタバタと階段を駆け下りる足音もない。
この静寂こそが、これからの神田家の「日常」になるのだと、正一は実感せざるを得なかった。
正一は、居間から仏間へと歩を進めた。
真新しい黒檀の仏壇の中に、キヨの位牌が静かに鎮座している。
正一は線香に火をつけ、チリンと鈴を鳴らした。
(……おふくろ。とうとう、あのお転婆娘が今日、家を出ていくぞ。おふくろも、そっちから見ていてやってくれ)
目を閉じると、純子が生まれた日のことが鮮明に蘇ってきた。
まだ戦後の物のない時代。
小さな産院で、猿のように真っ赤な顔をして泣き叫んでいた赤ん坊。
初めてこの太いゴツゴツとした指を、小さな五本の指でギュッと握り返してくれた時の、あの雷に打たれたような感動。
熱を出せば徹夜で看病し、運動会では誰よりも大きな声で声援を送り、反抗期には取っ組み合いの喧嘩もした。
そのすべての時間が、砂時計の最後のひと粒が落ちるように、今日、終わりを告げる。
「……行くか」
正一は、短くそれだけを言い、春子とともに家を出た。
振り返ると、昭和の時代を家族三人(そして母と四人)で身を寄せ合って生きてきた、古い木造平屋の家が、春の陽光の中で静かに二人を見送っていた。
赤坂の豪奢なホテルの控室。
重厚な絨毯が敷き詰められ、かすかに百合の花の香りが漂う空間に、親族たちが集まっていた。
いつもなら、こういう場では「私が新婦の父の、神田でございます!」と誰よりも大声で威張り散らすはずの正一だったが、今日ばかりは借りてきた猫のように、部屋の隅のソファで腕を組んで押し黙っていた。
「お父様、お母様。新婦の準備が整いました。美容室の方へお願いいたします」
黒服のホテルマンに声をかけられ、正一の肩がビクッと跳ねた。
春子に促されるように立ち上がり、長い廊下を歩く。
一歩進むごとに、心臓の鼓動が早鐘のように打ち鳴らされるのがわかった。
美容室の重たい木製のドアが、ゆっくりと開かれる。
「お父さん、お母さん」
そこに立っていたのは、見知らぬ、美しい大人の女性だった。
純白の、裾が長く尾を引くウェディングドレス。
繊細なレースのベールに包まれたその顔は、プロの化粧によって、正一の知っている「生意気な純子」ではなく、ひとつの家庭を築き上げる「気高い花嫁」の顔になっていた。
「純子……。なんて綺麗なの……」
春子が、顔を両手で覆い、ポロポロと涙をこぼした。
正一は、言葉が出なかった。
口を半開きにしたまま、ただ呆然と娘の姿を見つめていた。
純子が、少し照れくさそうに笑って、正一の前に一歩進み出た。
「お父さん。どうかな? 変じゃない?」
純子の声は、少しだけ震えていた。
正一は、必死に喉の奥に込み上げてくる熱い塊を飲み込み、いつも通りの「威張った父親」の顔を作ろうとした。
「……まあ、馬子にも衣装だな。転ばないように、裾を踏むんじゃないぞ」
「もう、相変わらず素直じゃないんだから」
純子はクスッと笑ったが、その目にも光るものがあった。
「お父さん。今日まで、わがままばかり言ってごめんなさい。……大事に育ててくれて、本当にありがとう」
純子が、深く、深く頭を下げた。
ウェディングドレスの純白の裾が、床に美しく広がる。
正一は、無意識のうちに純子の肩を抱き起こそうと手を伸ばしかけ、そして、自分の手がもう、娘を「庇護する手」ではないことに気づき、その手を力なく下ろした。
「……行くぞ。時間が来る」
正一は背中を向け、必死に涙を堪えながら廊下へ出た。
結婚式は、純子の強い希望で、ホテル内の小さなチャペルで行われることになっていた。
昭和四十六年当時、まだ神前式が主流であったが、若い女性の間では映画のようなキリスト教式の「教会式」への憧れが急速に高まっていた時期である。
挙式のリハーサルのため、正一と純子はチャペルの重厚な扉の前に立っていた。
扉の向こうからは、パイプオルガンの荘厳な音色が漏れ聞こえてくる。
「では、お父様。扉が開きましたら、新婦様と腕を組んで、あの赤い絨毯……バージンロードをゆっくりと進んでいただきます」
ウェディングプランナーの女性が、丁寧に段取りを説明する。
「祭壇の前には、新郎の浩様がお待ちです。お父様は、浩様の前まで進み、新婦様の手を、浩様の手へと引き渡していただきます。それが、『これまで大切に育ててきた娘を、あなたに託します』という承認の儀式となります」
「……」
「お父様?」
「……歩かん」
正一は、低い、地を這うような声で言った。
「えっ?」
「俺は、歩かん。あの道は、歩かんぞ」
正一は、扉の隙間から見える、長く赤い絨毯を見つめたまま、一歩後ずさった。
額には脂汗が浮かび、呼吸が荒くなっている。
「お父さん、何言ってるの? もうすぐ本番よ」
純子が焦って正一の腕を引くが、正一はその腕を振り払った。
「嫌だ! 俺は絶対に歩かん!」
チャペルの前に、正一の怒鳴り声が響き渡った。
親族席で待機していた春子や、祭壇の前で待っていた浩も、何事かと驚いて扉の方へ駆け寄ってきた。
「お父さん、どうしたんですか。急に」
春子が心配そうに顔を覗き込む。
「春子……俺は、できん。あんな残酷なこと、俺にはできんのだ」
正一の大きな目から、ついに大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。
モーニングコートの胸ぐらを自分で強く握りしめ、正一は子どものように首を横に振った。
「あそこを歩いて、純子の手を、あの若造の手に渡すだと? ……そんなことをしたら、俺は自分で、純子を捨ててしまうことになるじゃないか!」
「お父さん……」
「俺は二十四年間、この手で純子を守ってきたんだ。雨の日も風の日も、泥水をすする思いで働いて、この子を大事に大事に育ててきたんだ! それを、『はいそうですか』と他人の男の手に渡して、ハイさようならだと? そんな惨めなマネが、できるわけがなかろうが!」
それは、これまで「亭主関白」という分厚い鎧で隠し続けてきた、正一の最も脆くて、最も純粋な本音だった。
「家長」としての体面も、世間体もかなぐり捨てた、ただただ「娘を失いたくない」という父親の悲痛な叫びだった。
正一はその場にしゃがみ込み、両手で顔を覆って号泣し始めた。
チャペルの前に、沈黙が落ちた。
プランナーもホテルマンも、あまりのことに言葉を失っている。
純子は、自分のために子どものように泣きじゃくる父親の背中を見て、ウェディングドレスの胸元を握りしめ、声を出さずに泣き崩れた。
その時だった。
コツ、コツ、コツ。
祭壇の前で待っていたはずの浩が、ゆっくりとした足取りで、長いバージンロードを逆行して歩いてきた。
純白のタキシードに身を包んだ浩は、しゃがみ込む正一の前まで来ると、そこでピタリと足を止め、深く、深く頭を下げた。
「……お父様」
浩の声は、あの赤提灯の夜と同じように、静かで、しかし揺るぎない芯が通っていた。
「お父様が、歩く必要はありません」
「……なんだと」
正一が、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げる。
「大事な娘さんを、手放す必要はありません。お父様は、そこにいてください」
浩は、正一の目を真っ直ぐに見つめた。
「私が、迎えに行きます」
「浩くん……」
「お父様が二十四年間、命懸けで守り抜いてきた純子さんを、私が、お父様の元へ迎えに行きます。そして今日からは、私が、お父様に代わって、命に代えて純子さんを守り抜きます。……どうか、私に迎えに行かせてください」
浩は、もう一度、床に届くほど深く頭を下げた。
パイプオルガンの音が、静かに、優しく鳴り響いている。
正一は、目の前で頭を下げる若者の広い肩を見た。
あの生意気だった長髪の若者は、今、自分から「家族を守る」という重い重い責任のバトンを、その両手でしっかりと受け取ろうとしている。
自分と同じように、これからの何十年という歳月を、理不尽な社会の風から妻を守る防波堤として生きる覚悟を決めた、一人の「男」の姿がそこにあった。
「……負けたよ」
正一は、ポツリと呟き、ゆっくりと立ち上がった。
そして、純子の手を取った。
白い手袋に包まれた、小さくて温かい手。
正一は、その純子の手を、浩の大きな手の上に、そっと重ねた。
「……このじゃじゃ馬を、頼んだぞ。もし泣かせるようなことがあったら、俺が飛んでいって、お前をぶん殴るからな」
「はい。覚悟しております」
浩が、純子の手をしっかりと握り返す。
「お父さん……ありがとう」
純子が、涙で濡れた顔で、世界で一番美しい笑顔を見せた。
「さあ、お父さん。私たちは席へ戻りましょう」
春子が、そっと正一の腕に手を添えた。
正一は、大きく深呼吸をし、乱れたモーニングの襟を正して、春子とともに親族席へと向かった。
重厚なチャペルの扉が、ゆっくりと閉まり、そして再び、本番のために大きく開け放たれる。
まばゆい光の中、バージンロードを二人で歩み始める新郎新婦の背中を、正一は親族席の最前列から見守っていた。
その目にはまだ涙が光っていたが、もう「ガックリと落ちた肩」ではなかった。
大仕事を終え、愛する妻とともに新しい世代の旅立ちを見届ける、誇り高き「昭和の父親」の、威厳に満ちた背中だった。




