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第20話 おばあちゃんへの報告

 昭和四十六年、六月。


 純子と浩の結婚式が無事に終わり、新婚旅行から戻って数日が過ぎた週末のこと。

 二人は、東京のはずれにある小高い丘の上の霊園を訪れていた。

 梅雨の晴れ間の青空の下、霊園のあちこちには薄紫や水色の紫陽花が静かに咲き誇り、吹き抜ける初夏の風が、木々の鮮やかな青葉を心地よく揺らしている。

 遠くの木立からは、今年初めての蝉の鳴き声が、かすかに聞こえていた。


 純子の手には、白い菊の花束と、キヨが生前大好きだった地元の和菓子屋の最中が握られていた。

 玉砂利を踏む二人の足音が、静寂の霊園にサクサクと響く。


「……ここよ」

 純子が足を止めたのは、「神田家先祖代々之墓」と彫られた、まだ真新しい墓石の前だった。

 浩は黙って頷き、手桶から柄杓で水をすくい、日差しを浴びて熱を持った墓石に、丁寧に、そして優しく水をかけた。

 純子が古い花を片付け、新しい菊の束を花立てに飾る。

 そして、キヨが好きだった最中を半紙に乗せて供えた。


 束ねた線香に火をつけ、香炉に寝かせる。

 スッと立ち上る一筋の白い煙と、あの独特のツンとした懐かしい匂いが、純子の胸の奥をキュッと締め付けた。

 純子は、玉砂利の上に膝をつき、墓石の前に静かにひざまずいた。

 浩も、その隣で深く頭を垂れ、静かに手を合わせる。


「……おばあちゃん。遅くなってごめんなさい。純子です」

 純子は目を閉じ、心の中で、あの縁側の藤椅子に座って目を細めているキヨの顔を思い浮かべながら、ゆっくりと語りかけた。

「無事に、結婚式が終わったよ。新婚旅行の熱海から、昨日帰ってきたところ」

 目を閉じると、式当日のチャペルの扉の前での出来事が、色鮮やかに蘇ってくる。


「聞いてよ、おばあちゃん。お父さんね、チャペルの扉の前で急にしゃがみ込んで、『娘を他人の男に渡すなんて残酷なことはできない!』って、子どものように大声でわんわん泣き出しちゃったんだよ。あの威張り腐ってたお父さんが、モーニングコートの胸を握りしめて、顔をくしゃくしゃにしてね」


 純子は、ふふっと小さく笑いながら、でも目尻からはツツーッと涙がこぼれ落ちた。

「おばあちゃんが見てたら、きっと『正一、みっともないねぇ。しっかりおし!』って、お腹を抱えて大笑いしたと思う。……でもね、浩さんが、バージンロードを逆行して迎えに来てくれたの。『私が、お父様に代わって純子さんを守ります』って」

 隣で静かに手を合わせている浩の、広くて頼もしい背中を、純子はそっと見上げた。


「お父さん、泣きながら私の手を、浩さんの手に重ねてくれたよ。不器用だけど、すごく温かくて、大きくて……少し震えてる手だった。私、あの時のお父さんの手の感触、一生忘れないと思う」

 純子は、墓石の冷たい、けれど太陽の光を浴びて少し温かくなっている石肌にそっと触れた。

 その感触は、晩年のキヨの、しわくちゃで柔らかい手のひらに似ているような気がした。


「……おばあちゃん」

 純子の声が、小さく震え始める。

「私ね、最近になってようやく、おばあちゃんとお母さんが、ずっとこの神田家で何をしていたのかが、わかったような気がするの」


 純子がまだ高校生で、父親の横暴さに反発してばかりいた頃。

 口答えをして正一に怒鳴られ、ふてくされて泣いていると、キヨはいつも縁側に純子を呼び寄せた。

 そして、戸棚からこっそり出した最中を半分こしてくれた。

 口いっぱいに広がる甘い餡子の味は、おばあちゃんと孫娘だけの秘密の同盟の味だった。


『純子。あんなに威張ってるけどね、お前の父親は、本当は怖がりで不器用な、ただの意気地のない男の子なんだよ』

 キヨは、純子の頭を優しく撫でながらよくそう言っていた。

『外の理不尽な世界から、お前たちを守るために、必死で背伸びをして、大声を張り上げて、強い家長を演じているんだ。お前のお母さんは、それがわかっているから、あの人の不器用な愛情を受け止めて、黙ってあの人に玉座を明け渡しているのさ。あれが、あの夫婦の、一番深い愛情の形なんだよ』


 当時は、その言葉の本当の意味がわからなかった。

「お母さんはお父さんの言いなりで可哀想だ」としか思えなかった。

 だが、自分が浩という一人の男と家庭を築き、これからの長い人生を共に生きていく覚悟を決めた今、その言葉の重みが、痛いほどによくわかる。

「私……浩さんとは、お父さんとお母さんみたいに、亭主関白にはならないと思う。時代も違うしね。でもね」

 純子は、涙を拭って、真っ直ぐに墓石を見つめた。


「相手の不器用なところや、弱いところを全部わかった上で、それを一番安心できる形で包み込んであげる……そんな、お母さんとおばあちゃんが作ってきたみたいな、温かくて、深い絆のある家族になりたい。浩さんと二人で、絶対にそういう家庭を築いていくからね。おばあちゃんが教えてくれたこと、絶対に忘れないから」

 純子の言葉が終わると、隣で手を合わせていた浩が、さらに深く頭を下げた。


「キヨおばあちゃん。浩です」

 浩の静かで、誠実な声が響く。

「生前は、長髪で生意気な格好でお邪魔して、大変失礼いたしました。あの時、お父様に怒鳴られながらも、おばあちゃんが私をしっかり見て下さり、『爪が短く切りそろえてある。立派なお母さんに育てられたね』と笑ってくださったこと、一生忘れません。あの言葉に、私はどれほど救われたか知れません」


 浩は、玉砂利の上に手をついた。

「純子さんは、私が必ず幸せにします。お父様が二十四年間、泥水をすする思いで守り抜いてきた大切な人を、今度は私が、命に代えて守り抜きます。どうか、空の上から、私たちの新しい門出を見守っていてください」


 二人の祈りが終わると、初夏の爽やかな風が、サァーッと霊園の木々を揺らして通り過ぎていった。

 揺れる紫陽花の葉の音が、まるでキヨが「よく言ったねぇ。二人とも、幸せにおなりよ」と笑いながら、拍手をしてくれているかのように聞こえた。


「……あ、そうそう。おばあちゃん」

 立ち上がり、膝の砂を払いながら、純子が思い出したように言った。

「お父さんとお母さんは、とても元気だよ。私が家を出て、二人きりになっちゃったから、家の中はすごく静かで、気が抜けちゃったみたいだけどね」

 純子は、優しく微笑んだ。


「お父さん、定年退職して、今は青い作業着を着て小さな会社に通ってるの。あの『神田部長』の威厳はどこへやら、すっかり丸くなっちゃって。でも、お母さんが淹れてくれるお茶を飲みながら、縁側で二人で並んでビールを飲んでる姿は、なんだか昔よりずっと、肩の力が抜けて幸せそうに見えたよ」

 純子は、墓石に供えた最中の包み紙を少し直した。


「お父さんもお母さんも、そして私も……おばあちゃんのことを思い出さない日は、一日だってないよ。私たちの心の中には、ずっと、いつだって、あの縁側で笑ってるおばあちゃんがいるからね」

 線香の白い煙が、青い空へと吸い込まれていく。

 純子は、浩と顔を見合わせて微笑み合い、そして浩の大きな右手に、自分の左手をそっと重ねた。


「じゃあね、おばあちゃん。また来るね」

 初夏の陽光に包まれた霊園の坂道を、新しい家族となった二人が、しっかりと手を繋いで歩き出す。

 その後ろ姿を、キヨの魂は、いつまでもいつまでも、優しく目を細めて見守っていた。

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