第21話 夫婦水入らずの夜
昭和四十六年、六月。
純子の結婚式から一ヶ月が過ぎ、東京はシトシトと長雨が続く梅雨の季節に入っていた。
夕方の六時。
正一は、出向先の会社から青い作業着のまま、バスに揺られて帰宅した。
傘をたたんで玄関の引き戸を開ける。
「……ただいま」
声を張ることもなく、静かに靴を脱ぐ。
家の中は、耳鳴りがするほどしんと静まり返っていた。
以前なら、この時間には純子が二階の部屋でレコードを大きな音でかけていたり、縁側でキヨが「正一、お帰り」としゃがれた声で出迎えてくれたりしたものだ。
だが今、この古い木造平屋に響いているのは、居間の壁に掛かった柱時計の「カチ、コチ」という規則正しい音と、屋根を打つ雨だれのかすかな音だけだった。
「お帰りなさい、お父さん」
割烹着姿の春子が、台所から顔を出してふわりと微笑んだ。
その笑顔を見ると、正一の肩からスッと力が抜けた。
正一は居間に入り、作業着を脱いでハンガーに掛けた。
いつもなら「風呂! 飯!」と大声で号砲を鳴らすところだが、今はそんな気力は湧いてこない。
というより、威張る必要がなくなってしまった。
キヨが亡くなり、長男としての「母を守る」という大役を終えた。
会社を定年退職し、「家族を養う猛烈社員」という重たい鎧を脱いだ。
そして先月、純子が嫁ぎ、「父親」としての最後の、そして最大の責任を果たし終えた。
正一の人生に課せられていた大仕事は、すべて終わった。
ちゃぶ台の前に座布団を敷いて座ると、まるで風船からゆっくりと空気が抜けていくような、深い虚脱感と、それに反比例するような静かな安堵感が、正一の体を包み込んだ。
「さあ、ご飯にしましょう」
春子が、お盆に乗せた夕食を運んできた。
アジの南蛮漬けに、冷奴、ほうれん草の胡麻和え。
そして、豆腐とわかめの味噌汁。
四人で囲んでいた大きなちゃぶ台は、二人には広すぎた。
純子とキヨが座っていた場所には何もなく、ぽっかりと空いていた。
「……静かなもんだな」
正一が、箸を取る前にポツリとこぼした。
「そうですね。純子がいた頃は、毎日お父さんとお小言の言い合いをして、家の中がひっくり返りそうに賑やかだったのに」
春子も、向かいに座って少し寂しそうに笑った。
「あいつ、浩のところでちゃんとやってるのかね。掃除も料理も、お前任せでろくにやらなかったくせに」
「大丈夫ですよ。この間電話がありましたけど、『浩さんが手伝ってくれるからなんとかなってる』って言ってました。相変わらず浩さんを尻に敷いてるみたいですよ」
「たく……浩くんも苦労するな」
正一は苦笑しながら、味噌汁のお椀を手にとった。
ズズッ、と一口すする。
「……」
絶妙な温度だった。
かつて正一が威張り散らすための口実として、春子がわざと「ぬるく」したり「熱く」したりしていた味噌汁。
しかし今日の味噌汁は、熱すぎず、ぬるすぎず、正一の猫舌にぴったりの、一番美味しく飲める「適温」だった。
もう、春子もわざと味噌汁の温度を変える必要はない。
正一が威張って自分を奮い立たせるための「玉座」は、もういらなくなったのだから。
正一は、何も言わずに味噌汁を飲み干した。
カツオ出汁の優しい味が、五十五歳の疲れた胃の腑に、じんわりと染み渡っていく。
「しかし……」
正一が、アジの南蛮漬けをつつきながら口を開いた。
「この間の結婚式は、参ったな。俺は一生の不覚をとったよ」
「ふふっ。本当に。チャペルの前でお父さんが急にしゃがみ込んで大泣きし始めた時は、私、どうしようかと思いましたよ」
春子が、冷奴に醤油を垂らしながらクスクスと思い出し笑いをする。
「笑い事じゃない。俺は本当に、あの赤い絨毯を歩いて、純子を手放すのが恐ろしかったんだ。……だが、浩のヤツ、見事だったな。まさかあっちから迎えに来るとは思わなかった」
「浩さんは、お父さんがどれだけ純子を大事に守ってきたか、ちゃんとわかってくれているんですよ。だから、お父さんから『奪う』んじゃなくて、お父さんの元へ『迎えに』来てくれたんです。立派な男の約束ですね」
「……ああ。あれで俺も、ようやく腹をくくれた」
正一は、静かに頷いた。
純子の花嫁姿を見た時の強烈な喪失感は、浩の真っ直ぐな目を見た瞬間に、確かな「安心」へと変わった。
俺の代わりは、あいつが立派に務めてくれる。
そう思えたからこそ、純子の手を託すことができた。
夕食の後、正一はゆっくりと風呂に浸かった。
いつもなら「純子!早く出ろ!」と戸を叩いて急かしていたものだが、今は急かす必要もない。
少しぬるめのお湯に肩まで浸かりながら、正一は湯気を見上げて深々と息を吐いた。
風呂から上がり、浴衣に着替えて居間へ戻ると、春子がちゃぶ台を片付け、縁側のガラス戸を少しだけ開けていた。
雨はいつの間にか上がっており、庭の湿った土の匂いと、遠くで鳴くカエルの声が聞こえてくる。
「お父さん、ビール、冷えてますよ」
春子が、キリンの大瓶と、グラスを二つ持ってきた。
「おお。気が利くな」
正一は縁側に腰を下ろし、春子が注いでくれたビールをグラスに受けた。
冷たいビールが、火照った体に心地よく滑り落ちていく。
「お前も飲め」
正一は、珍しく春子のグラスにも手酌でビールを注いだ。
「あら、珍しい。ありがとうございます」
春子は嬉しそうにグラスを持ち、小さく口をつけた。
二人は並んで縁側に座り、暗い庭を眺めながら、しばらく無言でビールを飲んだ。
キヨがいつも座っていた藤椅子が、静かに二人を見守っている。
「……春子」
「はい」
「俺たちは、二人きりになっちまったな」
正一の言葉に、春子はグラスを見つめたまま、静かに頷いた。
「そうですね。お義母さんが亡くなって、純子も嫁いで。……また、振り出しに戻りましたね」
「振り出し?」
「ええ。三十年前、お父さんと私がお見合いをして、この家で一緒に暮らし始めたあの日に。……でも、あの頃よりずっと、静かでいい夜ですね」
春子が、横顔に優しい微笑みを浮かべる。
正一は、春子の顔をまじまじと見つめた。
出会った頃は真っ黒でツヤツヤだった髪にも、今は白いものが混じっている。
目尻には細いシワが刻まれ、手には長年の家事でついたあかぎれの跡がある。
この三十年間、春子は文句一つ言わず、威張り散らす自分の裏側に回り、見えないところで家を支え、母の面倒を見、娘を育て上げてくれた。
「……春子」
「はい?」
「今まで、すまなかったな」
正一の口から出た予想外の言葉に、春子は少しだけ目を丸くした。
「俺は、外で戦うことばっかりに必死で、家ではお前に甘えて威張ってばかりいた。お前の苦労も知らずに、『俺が食わせてやってるんだ』なんて、偉そうな口を叩いて……。本当は、お前が裏で全部、俺を操縦してくれてたってのにな」
「あら。お父さん、気づいてたんですか?」
春子が、クスクスとイタズラっぽく笑う。
「当たり前だ。俺をただのバカだと思ってたのか。……俺が亭主関白でいられたのは、お前がそうさせてくれていたからだ。ありがとうな」
正一は、ボソリと、しかしはっきりとした口調で言った。
春子は、手元のグラスを見つめたまま、少しだけ唇を震わせた。
そして、ゆっくりと正一の方へ顔を向ける。
「……ダメですよ、お父さん」
「ん?」
「そんな風に、急に素直で優しいことを言われたら、私のペースが狂っちゃうじゃないですか。私は、お父さんが『風呂!』『飯!』って威張ってくれているのを、後ろでニコニコしながらお世話しているのが、一番居心地がいいんですから」
春子はそう言って、わざとらしく口を尖らせた。
「お父さんは、ずっと私の前で威張っていてください。それが、私たちの夫婦の形なんですから」
「……たく。お前というやつは」
正一は、照れ隠しのように頭を掻き、グラスの残りを飲み干した。
「おい、春子! 空っぽだぞ! さっさと注がんか!」
わざと大げさに、かつてのようにふんぞり返ってグラスを突き出す正一。
「はいはい、ただいま。まったく、せっかちな家長殿ですね」
春子が嬉しそうに笑いながら、新しいビールをなみなみと注ぐ。
雨上がりの初夏の夜。
もう、家族を守るための必死な「鎧」としての亭主関白は必要ない。
これからの正一の威張り声は、ただ妻を楽しませ、夫婦の絆を確かめ合うための、優しくて愛おしい「遊び」になるのだろう。
遠くのカエルの声が、心地よい子守唄のように響いている。
大きな仕事をすべて終えた夫婦の、穏やかで、水入らずの新しい時間が、ゆっくりと流れ始めていた。




