第22話 粗大ごみと化した関白
昭和四十七年、初夏。
純子が嫁いでから一年余りが過ぎ、神田家の夫婦二人の生活も、すっかり日常として定着していた。
正一は、天下り先の子会社での「顧問」という名ばかりの仕事も週に三日ほどに減り、家にいる時間がめっきり長くなっていた。
かつての猛烈社員は、今や完全に「サンデー毎日」を持て余す、典型的な日本の初老の男になっていた。
「お父さん。掃除機をかけますから、少し足をどかしてくださいな」
木曜日の午前十時。
春子が、ナショナル製の緑色のキャニスター型掃除機を引きずりながら、居間でゴロリと横になっている正一に声をかけた。
「なんだ、うるさいな。なんで俺が新聞を読んでいる時に掃除をするんだ」
正一はステテコ姿のまま、寝転がって報知新聞を広げ、不機嫌そうに舌打ちをした。
「お父さんが朝からずっとそこに寝転がっているからでしょう。ほら、足」
春子は容赦なく、正一の足元に掃除機のノズルをガンガンとぶつける。
正一は「チッ」と文句を言いながら、ゴロゴロと芋虫のように転がって部屋の隅へ移動した。
「おい、春子。昼飯はなんだ。また素麺じゃないだろうな」
「素麺ですよ。昨日、お中元でたくさん三輪素麺をいただいたじゃないですか」
「またか! 少しは腹に貯まるものを作らんか。肉だ、肉!」
「お父さん、先月の健康診断で『コレステロールが高い』って言われたばかりでしょ。我慢してください」
正一には、これといった趣味がなかった。
ゴルフや釣りを楽しむ同輩もいたが、正一は「男は仕事だ」と四十五年間ひたすら会社のために走ってきたため、いざ時間ができると、何をしていいのか全くわからない。
結果として、家の中でゴロゴロとテレビを見ながら、妻の春子に「あれを出せ」「これを片付けろ」「飯はどうした」と口出しをするだけの、いわゆる『粗大ごみ(濡れ落ち葉)』と化してしまっていた。
掃除機をかけ終わり、春子は台所のシンクに向かって麦茶の準備をしていた。
ふと、目の前がグラリと揺れた。
「……っ」
春子はとっさにシンクの縁を両手で強く掴み、目を閉じた。
胃の奥から、ドンと重たい鈍痛が突き上げてくる。
ここ一ヶ月ほど、時折こうして激しい目眩と胃の痛みに襲われることがあった。
食欲も落ちており、体重も少し減っていたが、春子は「夏の暑さのせい」と自分に言い聞かせ、市販の胃薬を飲んで誤魔化していた。
「おい、春子! 爪切りはどこだ!」
居間から、正一の怒鳴り声が聞こえてくる。
「……はい、今行きます」
春子は、フーッと一つ大きな深呼吸をして痛みをやり過ごし、いつもの穏やかな笑顔を作って居間へ向かった。
「まったく、爪切りひとつ定位置にないとは、どういう管理をしてるんだ。俺が会社にいた頃はな……」
「はいはい。お父さんが昨日、縁側で爪を切って、そのまま新聞の下に置きっ放しにしたからですよ。ほら、ここにありました」
春子は、新聞の下から爪切りを見つけて手渡した。
「む……。そうだったか」
正一はバツが悪そうに爪切りを受け取り、パチン、パチンと不器用に爪を切り始めた。
(……この人は、私がいないと爪切り一つ見つけられないんだから)
春子は正一の丸い背中を見つめながら、困ったような、でもどこか愛おしいような笑顔を浮かべた。
どんなに「粗大ごみ」と化して家の中で邪魔になろうとも、春子にとって正一は、三十年間この家を守ってくれた大切な大黒柱なのだ。
午後。
春子は夕飯の買い物に出るため、近所の商店街を歩いていた。
八百屋の前で、ご近所のタエと鉢合わせた。
「あら、春子さん。今日もお父さんはご在宅?」
「ええ。テレビで相撲の中継を見ていますよ」
「うちもそうよ。会社を辞めた途端、毎日家でゴロゴロして、三食きっちり要求してくるんだから、たまらないわよねぇ。まさに『粗大ごみ』よ、粗大ごみ!」
タエが、ネギの入った買い物かごを揺らしながら大声で笑う。
「ふふっ。でも、今まで家族のために一生懸命働いてくれたんですから、少しは家でのんびりさせてあげないと」
春子が正一を庇うように微笑んだ、その時だった。
「……あ」
再び、激しい目眩が春子を襲った。
世界がぐるぐると回転し、足元のコンクリートが波打つように歪んだ。
春子は立っていられず、その場にガクンと膝をついてしまった。
手から買い物かごが滑り落ち、トマトや大根が道端に転がった。
「ちょっと、春子さん!? 大丈夫!?」
タエが血相を変えて駆け寄り、春子の背中を支えた。
「大丈夫……です。急に、少し立ちくらみが……」
春子は額に脂汗を浮かべながら、必死に立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。
「顔色が真っ青じゃないの! ダメよ、すぐにタクシーを呼ぶから、お医者さんに行きましょう!」
「いえ、そんな大げさな。少し休めば……」
「いいから! あんた、ちょっと最近痩せすぎよ!」
タエのただならぬ剣幕に押され、春子は近所の内科医院へと担ぎ込まれることになった。
夕方の五時。
神田家では、正一がテレビの前に座り、腹の虫を鳴らしてイライラしていた。
「遅い! 買い出しに行っただけで、何時間かかってるんだ!」
ガラガラッと、玄関の戸が開く音がした。
「おい、春子! 遅いぞ! 俺は腹が減って……」
怒鳴りながら玄関へ向かった正一の言葉が、途中でピタリと止まった。
玄関に立っていた春子の顔は、今まで正一が見たことがないほど青白く、そしてひどく疲れていた。
手には、買い物かごと小さな白い薬袋が握られている。
「……春子? お前……どうしたんだ」
「……お父さん。ごめんなさい、遅くなっちゃって」
春子は、無理に笑顔を作ろうとしたが、その声はひどく掠れていた。
「少し貧血を起こしちゃって、タエさんがお医者様に連れて行ってくださったんです。ただの、夏の疲れだそうですから、心配いりませんよ」
春子はそう言って、靴を脱ぎ、ふらつく足取りで台所へ向かおうとした。
「……おい。夕飯なんていいから、少し横になれ」
正一は、春子の背中に向かって、無意識のうちにそう言っていた。
「風呂!」「飯!」と自分の要求ばかりを押し付けてきた四十五年間で、初めて口にした、妻を心から気遣う言葉だったかもしれない。
「大丈夫ですよ。お父さん、お腹が空いてるでしょう? すぐに作りますから……」
「いいから寝ろ! 俺の言うことが聞けんのか!」
正一は、わざとらしく大きな声で怒鳴った。
それは、弱音を吐かない妻に対する、正一なりの不器用な「家長命令」だった。
「……はい。ごめんなさい、お父さん。少しだけ、横になりますね」
春子は、小さな声で頷き、ふすまの奥の寝室へと消えていった。
薄暗い居間に、正一は一人取り残された。
静まり返った台所。
冷たいままのちゃぶ台。
「俺が一番偉いんだ」と威張っていられたのは、春子が健康で、文句も言わずに裏ですべてを支えてくれていたからだという当たり前の事実に、正一は今さらながら気づき始めていた。
(……春子のやつ、ただの夏バテならいいんだが)
柱時計の音が、やけに大きく響く。
正一の心に、これまで感じたことのない、得体の知れない「恐怖」が、静かに忍び寄っていた。




