第23話 大阪万博への旅行計画
昭和四十七年、夏。
貧血で倒れた春子は、それから数日ほど床に伏せた後、少しずつ起き上がれるようになっていた。
しかし、以前のような溌剌とした元気さは戻らず、顔色はどこか透き通るように青白く、少し家事をしては横になって休むという日が続いていた。
ある日の午後。
居間で一人、押し入れの中の古い小引き出しを整理していた正一は、一番下の段から、色褪せた一冊のパンフレットを見つけ出した。
『人類の進歩と調和 日本万国博覧会 EXPO'70』
表紙には、岡本太郎がデザインした奇抜な『太陽の塔』が大きく印刷されている。
二年前の昭和四十五年。
日本中が「万博だ」「月の石だ」「アメリカ館だ」と狂乱のようにお祭り騒ぎに湧いていたあの年。
春子も「お父さん、私たちも一度くらい、大阪に行ってみたいですね」と言っていた。
だが、その頃の神田家は、純子の結納や結婚の準備で慌ただしく、何よりキヨの体調が少しずつ坂道を下り始めていた時期だった。
猛烈社員として会社の最前線で戦っていた正一に、のんびりと家族旅行に行くような余裕などあるはずもなく、「バカモノ! あんな人混みに行ってどうする! テレビで見れば十分だ!」と一喝して、その話を終わらせてしまった。
このパンフレットは、きっと春子がこっそりと近所の旅行代理店でもらってきて、行くのを諦めて引き出しの奥にしまっていたものなのだろう。
「……お父さん。どうしたんですか、散らかして」
ふすまが開き、昼寝から目覚めた春子が、少しけだるそうな足取りで居間に入ってきた。
「……いや。昔のガラクタを整理していたんだ」
正一は、手に持っていた万博のパンフレットを、ちゃぶ台の上にコトリと置いた。
それを見た春子が「あっ」と小さく声を漏らす。
「懐かしいですね。大阪万博のパンフレット。……私、捨てきれなくて、ずっと取ってあったんです」
「……」
「結局、行けずじまいでしたね。ご近所のタエさんなんか、ご夫婦で二回も行ったって自慢してましたけど。あの年はお義母さんのこともありましたし、仕方ないですよね」
春子は少し寂しそうに微笑み、パンフレットの表紙の太陽の塔を指でそっとなぞった。
その春子の細くなった指先を見た瞬間、正一の胸の奥で、何かが激しく音を立てた。
四十五年間、「俺が食わせてやっている」と威張り散らし、妻を旅行に連れて行くどころか、映画の一本、純喫茶の一度(純子が家出した時のあの一回きりだ)すら、まともに連れて行ってやったことがなかった。
そして今、目の前で日に日に細くなっていく妻の姿を見て、正一は初めて、取り返しのつかないほどの後悔に襲われていた。
「春子」
「はい?」
「行くぞ」
「……え?」
正一は、ちゃぶ台をドンと叩いて、春子の目を真っ直ぐに見据えた。
「大阪に行くぞ。旅行だ」
「えっ……お父さん、何言ってるんですか。万博はもう、二年も前に終わっちゃってますよ。月の石も、もうありませんし……」
「万博は終わっても、大阪の街がなくなったわけじゃないだろうが! あの変な顔をした『太陽の塔』だって、まだ公園に残ってるってこないだニュースでやってたぞ。それに、京都や奈良にだって寄れる。美味いもんを食って、いい旅館に泊まるんだ!」
「お父さん……」
「俺はもう定年退職して、ヒマを持て余してるんだ。お前も、純子が嫁に行ってキヨの世話もなくなって、ヒマだろう。たまには、俺が旅行に連れて行ってやる。文句はないな!」
正一は、わざと大声を張り上げて、いつもの『家長命令』を下した。
春子は、呆気に取られたように正一の顔を見つめ、それから、両手で顔を覆ってクスッと笑った。
「ふふっ……お父さんが、私を旅行に連れて行ってくださるんですか。結婚して三十年間、新婚旅行の熱海以来ですね」
「う、うるさい。今までは仕事が忙しかったからだ!」
「ありがとうございます、お父さん。……嬉しいわ」
春子の目に、うっすらと涙が浮かんだ。
その涙を見て、正一は「よし」と一つ大きく頷き、急いで立ち上がった。
その日の夕方。
近所の本屋へ出かけていった正一は、新しく発行された『関西旅行ガイド』の分厚い本と、時刻表、そして大学ノートを脇に抱えて意気揚々と帰ってきた。
「おい、春子! 飯の前に、少し計画を練るぞ!」
正一はちゃぶ台にノートと本を広げ、ワイシャツの胸ポケットから、最近買ったばかりの黒縁の老眼鏡を取り出してかけた。
「あらあら。お父さん、すごい気合いですね」
春子が、熱い緑茶を二つの湯呑みに淹れて持ってくる。
「当たり前だ。旅行というのはな、事前の『計画』がすべてなんだ。俺が商社時代に培った、完璧なスケジュール管理を見せてやる」
正一は老眼鏡の奥の目を細め、分厚い時刻表のページをめくりながら、大学ノートに鉛筆で書き込みを始めた。
『第一日目。東京駅午前九時発、東海道新幹線ひかり号に乗車。新大阪駅着。』
「いいか、春子。新幹線は、もちろん指定席だ。食堂車でビフテキでも食いながら、富士山を眺めるんだ」
「まあ、素敵。でも、食堂車はお高いんじゃないですか?」
「バカモノ。金の心配なんかするな。俺の退職金がたっぷりあるんだから」
正一の鉛筆が、カリカリとノートの上を滑る。
『午後、万博記念公園にて太陽の塔を見学。その後、タクシーにて旅館へ移動。』
「あのね、お父さん」
「なんだ」
「太陽の塔を見たら、そのあと、道頓堀にも行きたいわ。カニの大きな看板があるところ」
「……却下だ」
正一は、鉛筆をピタリと止めて言った。
「なんでですか? せっかく大阪に行くのに」
「道頓堀なんぞ、人が多くてごちゃごちゃしてるだけだ。初日は太陽の塔を見たら、すぐに旅館に行って休む。移動はすべてタクシーだ。バスや地下鉄なんか、疲れるだけだから乗らん」
「ええー……タクシーばかりなんて、もったいないですよ」
春子が不満そうに口を尖らせる。
しかし、正一は頑として譲らなかった。
「俺がタクシーに乗ると言ったら乗るんだ! 家長の俺の言う通りにしろ!」
大声で怒鳴りながら、正一はノートに『旅館でゆっくり休憩』と二重線を引いて書き込んだ。
その文字を見つめていた春子は、ふと、正一がなぜ道頓堀を却下し、なぜ移動をすべてタクシーにしようとしているのか、その本当の理由に気がついた。
(……お父さん。私の体が疲れないように、無理のないスケジュールを組んでくれているんだわ)
正一の計画は、どこへ行くにしても「見学」の後は必ず「休憩」が組み込まれており、歩く距離が極端に短くなるように設定されていた。
それは、妻の体調を誰よりも心配し、万が一にも無理をさせまいとする、正一なりの不器用で、いじらしいほどの愛情表現だった。
「……ふふっ」
春子は、思わず吹き出してしまった。
「なんだ、何がおかしい」
「いえ。お父さんの立てる計画は、本当に完璧ですね。私、お父さんについていけば、何の心配もいらないわ」
「当たり前だ。俺を誰だと思ってる。神田家の家長だぞ」
正一は得意げにふんぞり返り、老眼鏡を指で押し上げた。
夜の帳が下り、虫の音が聞こえ始める頃。
正一の大学ノートには、二泊三日の、世界で一番ゆったりとした、そして世界で一番優しい「大阪旅行のしおり」が完成していた。
「よし。これで完璧だ」
正一はノートを閉じ、満足げにため息をついた。
そして、向かいに座っている春子を、少しだけ真剣な目で見つめた。
「春子」
「はい」
「旅行は、秋口の、少し涼しくなってから行くぞ。夏の暑い盛りは、体に障るからな」
「はい」
「だから……」
正一は、少しだけ言い淀み、そして意を決したように言葉を続けた。
「それまでに、しっかりと治せ。ちゃんと飯を食って、少しでも肉をつけて、元気になれ。いいな」
それは、家長としての命令の形をとった、正一の切実な祈りだった。
「……はい、お父さん」
春子は、正一の不器用な祈りをしっかりと受け止め、涙の滲んだ目で、しかし力強く微笑んだ。
「私、秋までに絶対に元気になります。そして、お父さんと一緒に、太陽の塔を見に行きます」
「おう。約束だからな」
古い万博のパンフレットと、鉛筆書きの旅行ノート。
二つの紙切れが乗ったちゃぶ台を挟んで、初老の夫婦は、静かに、そして確かに、未来への希望を約束し合った。
忍び寄る病の影を、二人の不器用で深い愛情の光が、必死に照らし出そうとしていた。
静かな初夏の夜だった。




