第24話 初めての台所
昭和四十七年、晩夏。
「大阪旅行の計画」を立ててからひと月後。
春子の体調は一向に上向く気配を見せず、ついに近所の内科医の紹介で、都内の大きな大学病院で精密検査を受けることになった。
検査の翌週。
重厚な木の扉で仕切られた、ひんやりとした空気が漂う診察室。
白衣を着た初老の医師は、レントゲン写真から目を離し、正一の顔を真っ直ぐに見据えた。
春子は、別室で採血を受けている最中だった。
「ご主人。単刀直入に申し上げます。奥様の病気は、胃潰瘍ではありません。胃がんです」
「……え?」
「かなり進行しています。すでに周囲のリンパ節にも転移が見られ、すぐに手術が必要ですが……完全に切除できるかどうかは、開けてみないとわかりません。覚悟は、しておいてください」
正一の耳の奥で、キーンという鋭い耳鳴りが鳴り響いた。
医師の口の動きがスローモーションのように見え、声が水の中にいるようにくぐもって聞こえる。
ガン。
昭和のこの時代、その病名は明確に「死」と同義語であった。
「……せんせい」
正一の口から出たのは、自分でも驚くほど細く、かすれた声だった。
「……春子は、妻は……治るんでしょうか。秋には、一緒に大阪に旅行に行く約束をしてるんです……治してやってください。金ならいくらでも払います。私の命を半分やってもいい。どうか……!」
机にすがりつくようにして頭を下げる正一に、医師は静かに首を振った。
「現代の医学でできることはすべてやります。しかし、ご主人。一番大事なのは、奥様が安心して治療に専念できる環境を作ってあげることです。あなたがしっかり支えてあげてください」
診察室を出て、待合室の長椅子に座っている春子を見た瞬間、正一は自分の足がガクガクと震えているのに気づいた。
三十年間、猛烈社員としてどんな修羅場でも声を張り上げて戦ってきた。
取引先に怒鳴り込まれた時も、会社が倒産の危機に瀕した時も、決して足など震えなかった。
だが今、正一は恐怖のあまり、立っていることすら困難だった。
妻が死ぬかもしれない。
その事実が、正一という男の屋台骨を、根元から粉々にへし折ろうとしていた。
「……お父さん? 先生、なんておっしゃってました?」
戻ってきた正一の青白い顔を見て、春子が不安そうに見上げる。
「……おお。なんでもない。ただの、ちょっとタチの悪い潰瘍だってよ」
正一は、必死に顔の筋肉を動かし、いつもの「家長」の顔を作ろうとした。
しかし、その声は上ずり、顔は引き攣っていた。
「薬で治るから、今日から少し、入院してくれってさ。なあに、少し大げさなんだよ、最近の医者は。すぐによくなる」
「……潰瘍、ですか」
「そうだ。だからお前は、病院のベッドでのんびり寝てればいい。秋の旅行のための、いい休養だと思え」
春子は、正一の落ち着きのない視線と、隠しきれない手の震えを、じっと見つめていた。
そして、ふわりと、いつもと同じように優しく微笑んだ。
「……はい。わかりました。お父さんがそうおっしゃるなら、ただの潰瘍ですね。ゆっくり休ませてもらいます」
春子は、何もかもお見通しだった。
正一が嘘をついていることも、自分の病気が決して「ただの潰瘍」などではないことも。
それでも春子は、恐怖に震えている夫をこれ以上追い詰めないために、黙って騙されてあげることを選んだ。
その日の午後、春子はそのまま大学病院に入院することになった。
純子には「お母さんが少し入院することになった」とだけ電話で伝え、正一は一人、暗くなった神田家へ帰ってきた。
玄関を開けても、「お帰りなさい」の声はない。
台所から漂ってくる夕飯の匂いもない。
居間の電気をつけ、一人でちゃぶ台の前に座る。
キヨが亡くなった時とは、また違う種類の、底なし沼のような静寂だった。
あの時は、隣で春子が背中をさすってくれた。
しかし今は、その春子がいない。
正一の体を温めてくれていた、すべての温度が消え失せてしまったようだった。
「……春子」
誰もいない部屋で、ポツリと呟く。
途端に、恐怖が真っ黒な波となって正一の胸に押し寄せてきた。
もし、春子がこのまま家に帰ってこなかったら。
自分が「飯!」と怒鳴る相手が、自分の不器用な威張りをニコニコと受け止めてくれる人間が、この世界から消えてしまったら。
「……嫌だ。そんなのは、嫌だ」
正一は、ちゃぶ台に突っ伏し、肩を震わせた。
俺は何もできない。
春子がいなければ、爪切りの場所すらわからない、ただの粗大ごみだ。
仏間のキヨの位牌に向かって、正一は両手を合わせ、泣きながら何度も何度も「春子を助けてくれ」と祈り続けた。
翌朝。
正一は、目を赤く腫らしたまま、決意を固めた顔で立ち上がった。
「しっかり支えてあげてください」という医師の言葉が、耳の奥に残っていた。
泣いてばかりはいられない。
春子に「大丈夫だ」と安心させなければならない。
正一は、腕まくりをして、神田家の台所へと足を踏み入れた。
『男子厨房に入らず』
それが、昭和一桁生まれの正一の絶対的な信条だった。
結婚して三十年、お茶の淹れ方一つ、ガスの火の付け方一つ知らなかった男である。
「……まずは、リンゴだ。病人はリンゴを食うもんだ」
正一は、冷蔵庫からリンゴを一つ取り出し、流し台に立った。
引き出しから包丁を取り出す。
いつも春子が手入れをしてピカピカに磨き上げている、切れ味の鋭い菜切り包丁。
正一は、太くゴツゴツとした手でリンゴを握り、見よう見まねで皮を剥こうとした。
「……痛ッ!」
あっという間に、左手の人差し指を切った。
真っ赤な血が、リンゴの皮に滲む。
正一は「チッ」と舌打ちをして指を舐め、絆創膏をきつく巻きつけると、再び包丁を握った。
ボロボロになりながらも皮を剥き、なんとか一口大に切り分けた。
春子がいつも作ってくれた「ウサギの形」にしようと試みたが、耳の部分が折れたり、分厚すぎたりして、まるで不格好な岩の塊のようになってしまった。
それでも正一は、額に汗をかきながら、小さなタッパーにその無惨なリンゴを詰めた。
これまで「飯がまずい!」と文句ばかり言っていた自分が、妻のために初めて作った「料理」だった。
昼下がり。
正一は、大学病院の六人部屋の病室を訪れた。
白いベッドの上で、点滴を受けている春子は、昨日よりもさらに小さく見えた。
「……お父さん。わざわざ来なくてもよかったのに」
「バカモノ。暇を持て余してるんだ、散歩のついでだ」
正一は、わざとらしく不機嫌そうにパイプ椅子に座り、紙袋からタッパーを取り出した。
「ほら、リンゴだ。食え」
「あら……お父さんが、切ってくださったんですか?」
春子は、タッパーの中の、不格好で、一部が茶色く変色しかけているリンゴを見て、少しだけ目を丸くした。
そして、正一の左手に巻かれた痛々しい絆創膏に気がついた。
「……お父さん。指、どうしたんですか?」
「なんでもない! 紙で切ったんだ。早く食え!」
正一は顔を背け、誤魔化すように怒鳴った。
春子は、すべてを察した。
「男子厨房に入らず」と三十年間威張り続けてきた夫が、自分のために台所に立ち、不器用な太い指に怪我をしながら、一生懸命にこのリンゴを剥いてくれたのだ。
春子は、タッパーから一番不格好なリンゴの欠片を一つ指でつまみ、口に運んだ。
シャクッ、という小さな音が、静かな病室に響く。
「……どうだ。まずいか」
正一が、不安そうにチラリと視線を向ける。
「……ううん」
春子は、リンゴを噛み締めながら、ポロポロと涙をこぼした。
「とっても、甘いです。私、生きてきた中で、こんなに美味しいリンゴ、初めて食べました」
「……大げさなことを言うな」
正一の目にも、熱いものがこみ上げていた。
正一はそれを隠すように、天井を見上げて大きく息を吐いた。
「しっかり食って、早く治せ。秋には大阪に行くんだ。……お前がいないと、俺は自分の爪すら切れないんだからな」
「……はい、お父さん」
春子は、涙を拭い、もう一口リンゴを食べた。
白い病室の中で、威張るだけの亭主関白だった男が、初めて妻の痛みに寄り添い、共に病と闘う「本当の夫」へと歩み始めた瞬間だった。




