第25話 内職と家計簿の秘密
昭和四十七年、初秋。
春子が大学病院に入院して、一週間が過ぎていた。
主治医の言葉通り、すぐに手術というわけにはいかず、まずは点滴で体力を回復させながら、ガン細胞の広がりを抑えるための辛い治療が始まっていた。
ある日の午前中。
神田家で一人留守番をしていた正一は、病室の春子から頼まれた「秋物のカーディガン」を探すため、寝室の大きな和箪笥の前に立っていた。
九月に入り、朝夕はずいぶんと涼しくなってきた。
病院の病室は空調が効きすぎていて肌寒いから、羽織るものが欲しいのだという。
「……たく。どこに何がしまってあるのか、さっぱりわからん」
正一はブツブツと文句を言いながら、箪笥の引き出しを上から順に開けていった。
結婚して三十年間、「おい、靴下!」「シャツを出せ!」と怒鳴れば、魔法のように一瞬で目の前に用意されていた。
自分で自分の服を出したことすら数えるほどしかない正一にとって、妻の衣類の場所など知る由もなかった。
一番下の、深く重い引き出しを引っ張り出す。
そこには、冬物の毛布が何枚か畳んでしまわれていた。
カーディガンはこの下かもしれないと、正一が毛布を持ち上げた時だった。
毛布の下から、見慣れない古い段ボール箱が一つと、風呂敷に包まれた四角い束が顔を出した。
「……なんだ、こりゃ」
正一は、段ボール箱の蓋を開けた。
中に入っていたのは、大量の造花のパーツだった。
針金、緑色の紙の葉っぱ、そしてピンクや黄色の花びら。
それらを組み立てるための専用の小さなピンセットと、乾いたボンドのチューブが無造作に転がっている。
「……造花?」
正一は首を傾げた。
そして、隣にあった風呂敷包みを解いてみる。
中から出てきたのは、背表紙がボロボロになった、十冊以上の古いノートの束だった。
表紙には、春子の几帳面な字で『家計簿』と書かれている。
一番上のものは昭和三十年代、純子がまだ小学生だった頃のものだ。
正一は、胡座をかいて座り込み、一番新しい今年の家計簿のページをパラパラと捲った。
『六月四日 大根三十円 豆腐十五円 特売のサンマ(お父さんの好物)四十円』
『六月十日 純子へのお祝い(靴)三千円』
そこには、一円単位で細かく計算された、神田家の台所事情がびっしりと書き込まれていた。
正一が定年退職し、子会社に出向してから、給料は現役時代の半分以下に落ち込んでいる。
それでも、正一の晩酌には必ず大瓶のビールがつき、夕食には肉や魚の立派なおかずが並んでいた。
正一は「俺の退職金があるんだから、少しは贅沢しろ」と威張っていたが、家計簿の隅の方に書かれた小さな文字を見て、正一の手がピタリと止まった。
『春子・靴下つくろい糸代 十円』
『春子・美容室がまん。自分で切る』
『お父さんのビール代のために、今週はおかずを大根でカサ増し』
春子は、自分の衣類や美容代を極限まで削り、正一の「亭主関白」というプライドを守るために、見えないところで必死に帳尻を合わせていた。
「……バカ野郎。俺は、そんなことまでさせて……」
正一の喉が、ギリッと鳴った。
さらにページをめくると、毎月の収入の欄に、正一の給料とは別に、小さな赤い文字で書き足されている項目があった。
『今月の内職代 二千五百円』
『今月の内職代 三千円』
正一は、横に置かれた段ボール箱の造花を見た。
あの造花作りは、趣味などではない。
一つ作って一円にも満たないような、典型的な昭和の主婦の「内職」だった。
記憶の糸が、ハッと繋がった。
いつだったか、夜中にトイレに起きた時、春子がちゃぶ台の小さな電球の下で、肩を丸めて何かをしていたことがあった。
「こんな夜更けに何をしてるんだ」と怒鳴ると、春子は慌てて布で何かを隠し、「少し、雑誌を読んでいたんです」と誤魔化していた。
あの時、春子の目は充血し、指先にはボンドの跡がついていたはずだ。
正一は「俺の給料で十分食えてるんだ! 女が外で働くなんてみっともないマネは絶対に許さん!」と常々豪語していた。
だから春子は、正一のプライドを傷つけまいと、正一が寝静まった夜中や、会社に行っている昼間に、一人でコツコツと造花を組み立てて内職をしていたのだろう。
正一は、震える手でさらに古い家計簿を引っ張り出した。
純子が高校に入学した年。
純子が大学に進学した年。
キヨが倒れ、医療費がかさんだ年。
どの年の家計簿にも、必ず赤い文字で『内職代』が記されていた。
自分が「俺が一人で家族を養っているんだ」とふんぞり返って大瓶のビールを飲んでいたその足元で、春子は三十年間、寝る間を惜しんで造花を作り、一円、二円というお金をかき集めて、神田家のピンチを救い続けてくれていた。
「……春子っ」
正一の目から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
ポタリ、ポタリと、家計簿のページに涙の染みを作っていく。
ふと、一番新しい家計簿の最後のページに、茶色い小さな封筒が挟まっているのに気がついた。
封筒の表には、春子の丸い字でこう書かれていた。
『お父さんとの大阪旅行用』
正一は、震える手で封筒の中身を確かめた。
そこには、折り目のついた千円札が、何枚も何枚も、大事そうに束ねられて入っていた。
あの初夏の夜、正一が「退職金があるからタクシーに乗り放題だ!」と威張って大阪旅行の計画を立てたあの日。
春子はこの封筒の中に、自分の内職で貯めた「へそくり」を全額入れていたのだ。
正一の退職金を少しでも減らさないように、そして、自分の体調不良で旅行先で迷惑をかけるかもしれないからと、いざという時のタクシー代や病院代として、こっそりと準備してくれていたのだろう。
「……ううっ……うわあぁぁぁっ……!」
正一は、その茶色い封筒と家計簿を胸に強く抱きしめ、誰もいない寝室で、獣のような声を上げて泣き崩れた。
五十五歳の、白髪の混じった男が、畳の上に額をこすりつけるようにして、わんわんと泣いた。
俺は、なんて愚かな男だったんだ。
俺が家族を守っているつもりでいた。
俺がこの家の大黒柱だと思っていた。
だが本当は、俺という見栄っ張りで臆病な男の小さなプライドを守るために、春子がその細い手で、血の滲むような思いをして、下からずっと支え続けてくれていただけだった。
「風呂!」「飯!」と威張る俺の声を、春子はどんな思いで笑顔で受け止めてくれていたのか。
「……春子……ごめんな……ごめんなぁ……っ」
正一の慟哭は、いつまでもいつまでも、静かな神田家の寝室に響き渡っていた。
その日の午後。
大学病院の病室。点滴の管に繋がれた春子が、ベッドの上でうとうとしていると、ガラガラッと乱暴にドアが開いた。
「……お父さん?」
「おお。頼まれてたカーディガン、持ってきたぞ」
正一は、目を真っ赤に腫らしながらも、努めて明るい声を作ってベッドの脇に立った。
「ありがとうございます。でもお父さん……目が赤いですよ。どうしたんですか?」
「バカモノ。道で目にゴミが入ったんだ。秋風が強いからな」
正一は、紙袋から丁寧に畳まれたカーディガンを取り出し、春子の肩にそっと掛けた。
その時、正一の大きな手が、春子の細く、少し荒れた手の上にそっと重なった。
「お父さん……?」
「春子」
正一は、春子の手を両手でしっかりと包み込んだ。
造花のボンドのせいで、指先が少し硬くなっているその手を、正一は愛おしそうに見つめた。
「早く治せよ。……お前の貯めてくれた金で、絶対に大阪に行くんだからな」
「え……?」
春子はハッとして、目を見開いた。
「お前がへそくりしてたの、見つけちまったからな。あんな大金、絶対に無駄にはさせんぞ。タクシーに乗って、一番美味いもんを食わせてやる」
正一の言葉に、春子はすべてを悟った。
押し入れの奥の、あの秘密の箱を開けられてしまったのだと。
「……お父さん、ごめんなさい。私、お父さんに内緒で……」
「謝るな」
正一は、首を横に振った。
「謝るのは、俺の方だ。……三十年間、本当に、苦労をかけたな」
正一の目から、再びポロリと涙がこぼれ、春子の手の甲に落ちた。
春子は、温かいその涙の感触に、自分もポロポロと涙を流しながら、正一の大きな手をギュッと握り返した。
「……そんなことありません。私、お父さんのために内職してる時間、すごく楽しかったんですよ。これでまた、お父さんに美味しいビールを飲ませてあげられるって思ったら」
泣き笑いのような春子の顔を見て、正一は「バカ野郎」と小さく呟き、春子の手を自分の額に押し当てた。
もう、威張る必要などどこにもない。
ただ愛する妻の命を繋ぎ止めるために、正一は持てるすべての愛情を注ぎ込む覚悟を決めていた。




