第26話 二槽式洗濯機との死闘
昭和四十七年、秋。
春子が入院して半月が過ぎた。
神田家の主である正一は、五十五歳にして初めて「一人で家を守る」という壮絶な闘いの真っ只中にいた。
日曜日の朝。
正一はステテコ姿のまま、脱衣所の前で腕を組んで仁王立ちになっていた。
視線の先には、山のように積み上げられた洗濯物が入ったカゴがある。
自分の数日分の下着やワイシャツ、春子の病院から持ち帰ってきたパジャマやタオルが、カゴの縁から溢れ出しそうになっていた。
「……こんなもん、やるしかないだろうが。俺は中堅商社で営業部を束ねてきた男だぞ。たかが洗濯くらい、目をつぶっててもできるわい」
正一は自分を鼓舞するように一人でブツブツと呟き、脱衣所の隅に鎮座する四角い鉄の塊――ナショナル製の二槽式洗濯機――と対峙した。
左側に「洗い」の槽、右側に「脱水」の槽がついた、昭和の家庭の定番である。
だが、「男子厨房に入らず、家事にも手を出さず」を三十年間貫いてきた正一にとって、それはまるで宇宙船のコックピットのように複雑で得体の知れない機械だった。
「ええと、まずは水を入れるんだな」
蛇口をひねり、左側の洗濯槽にジャージャーと水を張る。
次に、棚から粉石鹸の大きな紙箱を取り出した。
箱の裏に細々とした字で説明書きがあるが、老眼鏡を取りに行くのが面倒くさかった。
「汚れを落とすんだから、多い方がいいに決まってる」
正一は、豪快に箱を傾け、洗濯槽の中にザーッと粉石鹸を流し込んだ。
適量の三倍は下らない量だ。
そこに、カゴの中の洗濯物を分別することもなく、色物も白物も手当たり次第にギュウギュウに押し込んでいく。
そして、「洗い」のダイヤルを『強』の位置まで力いっぱい回した。
ブイィィィィン!
洗濯機が、聞いたこともないような重低音を響かせて唸り始めた。
正一は「よしよし、働け働け」と腕を組んで頷いていたが、数分後、とんでもない異変に気がついた。
多すぎる粉石鹸のせいで、洗濯槽の中からモコモコと巨大な泡の塊が膨れ上がり、蓋の隙間からカニの泡のように溢れ出してきたのだ。
「うおっ!? なんだこりゃ!」
泡はまたたく間に脱衣所の床にこぼれ落ち、正一の足の甲を白く覆い隠した。
慌ててダイヤルを回して止めようとするが、泡で手が滑ってうまく回らない。
「と、止まれ! ストップだ!」
正一は泡だらけになりながら、コンセントを引っこ抜いてようやく暴走を止めた。
「……くそっ。春子のやつ、毎日こんな化け物と格闘してたのか」
床の泡を雑巾で拭き取りながら、正一は荒い息を吐いた。
しかしまだ、闘いは終わっていない。
次は水を抜いてすすぎをし、右側の脱水槽に移さなければならない。
水を抜いた後、正一は洗濯槽に手をつっこみ、濡れた衣服を引っ張り出そうとした。
「……重いッ!」
濡れて水分をたっぷりと吸い込み、さらに互いの袖や裾が複雑に絡み合った衣服の塊は、鉛のように重かった。
五十肩で上がりにくい腕を必死に持ち上げ、うめき声を上げながら、絡み合ったシャツやタオルを強引に引き剥がし、右の小さな脱水槽に放り込んでいく。
「こんな力仕事、女の細腕で毎日やってたのか……」
正一は額の汗を拭い、脱水槽の蓋をパタンと閉めた。
そして、「脱水」のダイヤルを勢いよく回した。
その瞬間だった。
ガガガガッ! バコンッ! バコンッ!
脱水槽の中から、鉄板をハンマーで叩くような凄まじい爆音が鳴り響いた。
洗濯物を適当に放り込んだせいで重心が偏り、さらには遠心力を抑えるための「プラスチックの内蓋」を乗せ忘れていたため、脱水槽が激しく暴れ出したのだ。
ただ音が鳴るだけではない。
二槽式洗濯機そのものが、ガタガタと激しく振動しながら、まるで生き物のように脱衣所の床を前へ前へと「歩き」始めたのだ。
「うわあああっ! どこへ行く!」
正一は慌てて洗濯機に飛びつき、前進しようとする鉄の塊を、太い両腕で力いっぱい抱きかかえた。
「止まれ! 落ち着け!」
ガタガタと暴れる洗濯機にしがみつくステテコ姿の初老の男。
傍から見れば滑稽極まりない姿だが、正一は必死だった。
ようやくダイヤルがゼロに戻り、洗濯機が息絶えるように停止した時、正一はそのまま床にへたり込んでしまった。
息は上がり、腕はパンパンに張り、ステテコは水浸しだった。
なんとか脱水まで終えた洗濯物を、庭の物干し竿に干し終える頃には、すっかりお昼を回っていた。
だが、休む暇はない。
昼飯を作らなければならない。
正一は台所に立ち、文化包丁を握りしめた。
昨日、商店街の魚屋で買ってきたアジの開きを焼くつもりだった。
「魚を焼くくらい、どうってことない」
ガスの火をつけ、焼き網の上にアジを乗せる。
しかし、火加減などという概念を知らない正一は、最初から全開の強火で焼き始めた。
数分後、台所はモウモウとした白い煙に包まれた。
「ゲホッ! ゴホッ!」
涙目になりながらガスを止めると、網の上には、頭から尻尾まで真っ黒な消し炭のようになったアジの死骸が横たわっていた……。
ちゃぶ台の上には、芯が残って硬いご飯と、焦げ付いたアジの開き。
そして、朝の残りで作った、出汁の取り方もわからずお湯に味噌を溶かしただけの、しょっぱすぎる味噌汁。
「……いただきます」
誰もいない居間で、正一は一人、焦げたアジを箸でつついた。
口に入れると、ジャリッとした焦げの苦味と、生臭さが広がった。
しょっぱい味噌汁でそれを無理やり流し込む。
不味かった。
涙が出るほど、不味かった。
(……俺は、なんてバカな男だったんだ)
芯の残ったご飯を噛み締めながら、正一は自分の愚かさを骨の髄まで噛み締めていた。
『おい! 飯はまだか!』
『なんだこのぬるい味噌汁は! 味が薄いぞ!』
『シャツの襟にシワが寄ってるじゃないか!』
三十年間、自分がこのちゃぶ台の上で、どれほど身勝手で残酷な言葉を吐いてきたか。
朝早くから起きて、あの暴れる鉄の塊と格闘し、重い洗濯物を干し、火加減を調節して美味しいご飯を炊き、自分の舌に合わせて完璧な温度の味噌汁を作る。
それを、三十年間。
雨の日も、風の日も。
一日も休むことなく、文句一つ言わずに春子はやってくれていた。
「……春子」
正一は、箸を持ったまま、ポロポロと涙をこぼした。
荒れた自分の手のひらを見る。
たった一日の家事で、指にはいくつもの絆創膏が貼られ、腕は筋肉痛で悲鳴を上げている。
春子の、あの小さくて細い体の、どこにこれほどの重労働をこなす力があったのか。
それは間違いなく、自分への「愛」だった。
愛がなければ、あんな傲慢な男の背中の後ろで、これほどの過酷な闘いを笑顔で続けられるはずがなかった。
「……ごめんな、春子」
正一は、真っ黒に焦げたアジを、涙と一緒に飲み込んだ。
もう、威張るだけの男には戻らない。
あいつが病院のベッドで闘っている間、俺がこの家を、この台所を、あの暴れる洗濯機を、絶対に守り抜いてみせる。
「……見てろよ、春子。明日はもっと、上手く魚を焼いてやるからな」
正一は涙を拭い、赤く腫れた目で、力強くご飯をかき込んだ。
秋の午後の日差しが、庭に干された形がいびつなシャツを、優しく照らし出していた。
それは、関白を卒業した一人の男の、不器用だが愛に満ちた、新しい日常の始まりだった。




