第27話 縁側の太陽の塔
昭和四十七年、十一月。
庭の柿の木に、熟れすぎた赤い実がポツンと一つだけ残る、冷え込みの厳しい晩秋の季節。
正一と春子が「涼しくなったら絶対に行こう」と約束していた、あの大阪旅行の季節だった。
しかし、春子の体調は長時間の旅行に行ける状態には程遠く、抗がん剤の副作用で髪は細くなり、頬がこけてすっかり痩せ細ってしまっていた。
それでも、春子が「どうしても、一度家に帰って家の空気を吸いたい」と強く希望したため、主治医からの特別な配慮が下りて、一泊二日の一時外泊がようやく認められたのだった。
タクシーで神田家に着き、正一の太い肩をしっかりと借りて玄関をくぐった春子は、家の中を見回して「ああっ」と小さく声を上げた。
「……お父さん。家の中、お義母さんがいた頃みたいに、ピカピカですね」
床にはチリ一つ落ちておらず、居間のちゃぶ台は綺麗に水拭きされ、仏間のキヨの位牌には新しいお茶と季節の野花が供えられていた。
空気の入れ替えも行き届いており、長年住み慣れた我が家の、いぐさと古木の安心する匂いが満ちていた。
それは正一が、毎晩ひび割れた指をさすりながら這いつくばって床を磨き、春子の帰る場所を不器用な手で必死に守り続けてきた何よりの証拠だった。
「当たり前だ。俺は一度やると決めたら、徹底的にやる男なんだからな。家の掃除くらい、部下をまとめるよりずっと簡単だ」
正一は照れ隠しにふんぞり返りながら、あらかじめ日向に干しておいたフカフカの布団に、春子をゆっくりと寝かせた。
「少し、休め。長旅で疲れただろう」
「長旅って……病院からタクシーで二十分ですよ」
春子はクスッと笑い、布団の上に身を横たえた。
そして、ふと、枕元に置かれていた小さな古いパンフレットに目を留めた。
あの夏の日、正一が見つけてきた『大阪万博』のパンフレットだった。
「……ごめんなさいね、お父さん」
春子は、パンフレットの表紙の『太陽の塔』を細い指でそっとなぞりながら、ぽつりとこぼした。
「秋には必ず元気になるって、約束したのに。私……せっかくお父さんが立ててくれた旅行の計画、ダメにしちゃいましたね」
「……」
「ごめんなさい。一緒に、大阪、行きたかったな。お父さんと一緒に、新幹線に乗って、美味しいものを食べて……」
春子の目から、一筋の涙がこぼれ落ちて、真っ白な枕を濡らした。
正一は、黙って春子の涙を無骨な指で拭い、「……謝るな。少し寝ろ」とだけ言って、足音を忍ばせて居間を出て行った。
数時間後。
窓の外がすっかり暗くなり、秋の冷たい夜風が障子をガタガタと鳴らし始めた頃。
「……春子。おい、起きろ」
正一の優しい声で、春子は目を覚ました。
「お父さん……今、何時ですか?」
「夜の六時だ。さあ、起き上がれるか? 冷えるから、カーディガンを羽織れ」
正一は、春子の背中を支えてゆっくりと起き上がらせると、分厚い毛糸のカーディガンを肩に掛けた。
「どこへ行くんですか? トイレなら一人で……」
「いいから、こっちへ来い」
正一は春子を抱きかかえるようにして、居間の奥、縁側の方へと歩を進めた。
そして、閉まっていた障子を、シャーッと勢いよく左右に開け放った。
「さあ、着いたぞ。大阪だ」
春子は、目を見開いた。
開け放たれた縁側のガラス戸の向こう。暗い庭を背景にした縁側の板の間に、白熱灯の電気スタンドにライトアップされた、奇妙なオブジェが鎮座していたのだ。
それは、大小の段ボール箱をガムテープでつなぎ合わせ、その上に白い絵の具を厚塗りした、高さ五十センチほどの不格好な塔だった。
塔の真ん中には、赤いマジックで『太陽の顔』が歪んだ線で描かれ、左右にはトイレットペーパーの芯で作られた短い腕が、申し訳程度にくっついている。
どこからどう見ても不格好で、いびつで、今にも倒れそうな――正一の手作りの『太陽の塔』だった。
その塔の足元には、近所の屋台で買ってきたであろう、ソースの匂いを漂わせるたこ焼きのパックと、デパートでわざわざ買ってきたのか、関西名物の『551蓬莱』の豚まんが、お皿の上に恭しく並べられている。
さらに、居間の隅に置かれたステレオからは、三波春夫の『世界の国からこんにちは』のレコードが、小さな音量で陽気に流れていた。
「ようこそ、神田家特設・大阪万博会場へ。あちらに見えますのが、ご存知、太陽の塔でございます」
正一が、不器用なバスガイドのような手つきで、段ボールの塔を指し示した。
「……お父さん」
「道頓堀のカニは用意できなかったが、代わりに大阪の美味いもんは揃えておいたぞ。すべて、お前が内職で貯めてくれた、あの『旅行貯金』から出させてもらった。……さあ、座れ」
正一は、縁側に座布団を二枚敷き、春子をゆっくりと座らせた。
春子は、目の前の不格好な段ボールの塔から、目が離せなかった。
絵の具の塗りムラ。
剥がれかけたガムテープのシワ。
いびつに笑う太陽の顔。
「男子厨房に入らず、家事にも手を出さず」と三十年間威張ってきた、あの不器用で大雑把な正一が、一人きりの家で、毎晩ハサミと絵の具と格闘しながら、これを作っていた。
太い指をボンドだらけにして、自分の絆創膏を汚しながら。
少しでも妻を喜ばせようと、老眼鏡をかけてパンフレットとにらめっこしながら。
「……どうだ。本物そっくりだろう。タエさんに見つからないように、押し入れに隠して作るのが大変だったんだぞ」
正一が、照れくさそうに頭を掻きながら言った。
「あのな、春子。俺は、お前に謝らなきゃいけない」
正一は、たこ焼きのパックの隣に座り、段ボールの塔を見つめたまま、絞り出すように言った。
「俺は三十年間、お前を色んなところに連れて行ってやることもせず、ただ威張ってばかりいた。あの内職の金だって……本当は、もっと早く気づいて、お前を楽にしてやらなきゃいけなかったんだ」
「お父さん……」
「だから、これは……ほんの、前金だ。これで少しだけ、大阪に行った気分を味わってくれ」
正一は、春子の冷たく痩せた手を、自分の大きく温かい両手で包み込んだ。
「春子。お前が元気になったら、必ず本物の太陽の塔を見に行くぞ。だから……だから、頼む。しっかり治してくれよ」
正一の声は、最後は涙声になって震えていた。
春子の目から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。
「……はい。はいっ……」
春子は、正一の大きな手に額をこすりつけるようにして、声を上げて泣いた。
「お父さん……ありがとう。世界で一番、素敵な太陽の塔です。本物より、ずっと、ずっと大きくて、立派です……!」
「大げさなことを言うな。ただの段ボールだぞ」
「ううん。こんなに素晴らしい旅行、今まで生きてきて初めてです。私、お父さんのお嫁さんになれて、本当に幸せです……」
春子の嗚咽が、秋の夜の縁側に響いた。
正一もまた、声を上げて泣きながら、春子の細い肩を抱きしめた。
三波春夫の陽気な歌声と、たこ焼きのソースの匂い。
そして、白熱灯に照らされた、手作りの不格好な太陽の塔。
たった二畳ほどの縁側の空間に作られた、たった一晩だけの、二人きりの『大阪万博』。
そこには、長年連れ添った夫婦の、どんな豪華な旅行にも負けない、海よりも深くて純粋な愛情が、秋の夜空の星のように静かに、そして力強く輝いていた。




