第28話 病室の『俺にはお前がいる』
昭和四十七年、十二月。
木枯らしが吹きすさぶ、底冷えのする冬の朝。
大学病院の薄暗い廊下には、重苦しい静寂が張り詰めていた。
『手術中』
廊下の天井近くで、赤いランプが無機質に点灯している。
その真下の長椅子に、正一は背中を丸めて一人座っていた。
両手を固く握りしめ、まるで石像のように微動だにしない。
「……春子」
正一は、乾いた唇で妻の名前を小さく呟いた。
朝の九時に手術室の重たい扉が閉まってから、すでに五時間が経過していた。
予定では四時間程度で終わると言われていた胃ガンの摘出手術は、午後二時を回っても一向に終わる気配がない。
時間が経てば経つほど、正一の脳裏には最悪の想像ばかりが膨らんでいった。
転移が酷くて手がつけられなかったのではないか。
出血が止まらないのではないか。
このまま、あの扉の中から、二度と生きて帰ってこないのではないか。
恐怖が、正一の心臓を鷲掴みにした。
息が苦しい。
寒いはずの廊下で、額から冷や汗がダラダラと流れ落ちた。
三十年間、仕事でどんな絶望的な局面に立たされても、正一は決して逃げ出さなかった。
「俺には守るべき家族がいるんだ」という自負が、正一を強気な「関白」として立たせていた。
しかし今、その「守るべき家族」である春子自身が、命の危機に瀕していた。
自分が威張るための、自分が強くあるための唯一の理由が、永遠に失われようとしている。
「……はぁっ、はぁっ……」
正一の呼吸が浅く、速くなる。
手が小刻みに震え、膝の力が抜けていく。
長椅子からずり落ちそうになった、その時だった。
「お父さん!」
廊下の向こうから、切羽詰まった声が響いた。
見ると、息を切らして駆け込んでくる純子と、その後ろから足早についてくる浩の姿があった。
二人は神奈川の職場から、急遽仕事を切り上げて駆けつけてくれた。
「純子……浩くん……」
正一は、縋るような目で二人を見た。
その顔は蒼白で、震える唇からは上手く言葉が出なかった。
「お父さん、大丈夫!? 手術、長引いてるのね」
「……ああ。もう五時間だ。純子、どうしよう。もし、もし春子がこのまま……俺は……俺は……」
正一は、純子のコートの袖を力強く握りしめ、まるで迷子になった子どものように怯えた声を出した。
キヨが死んだ時、正一は大きな声を上げて泣きじゃくった。
あの時はまだ「春子が隣で背中をさすってくれる」という絶対的な安心感があった。
だが今は、自分を支えてくれるその春子がいない。
正一は完全にパニックを起こし、崩れ落ちそうになっていた。
その時。
浩が、正一の震える背中に、大きく温かい手をドンと置いた。
「お父様。しっかりしてください」
浩の低く、落ち着いた声が、冷たい廊下に響いた。
「お母さんは、こんなところで負けるような人じゃありません」
「浩くん……でも……時間が……」
「お母さんは、約束したんでしょう? お父様と一緒に、元気になって必ず本物の『太陽の塔』を見に行くって。……神田家を三十年間裏で支え続けてきたお母さんが、お父様との約束を破るはずがありません。絶対に、帰ってきます」
浩の真っ直ぐな言葉が、正一のパニックになりかけていた心に、太い杭を打ち込むように響いた。
「そうだよ、お父さん」
純子も、正一の冷え切った両手を、自分の両手でしっかりと包み込んだ。
「お母さんはね、お父さんが『威張ってられるように』、ずっと自分の人生をかけてお父さんを守ってきたの。お父さんが弱い姿を見せたら、お母さんが悲しむよ。……だから、今度はお父さんが強くならなきゃ。お母さんが安心して帰ってこられるように、ドンと構えて待っててあげて!」
純子の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
正一は、目の前で必死に自分を励ましてくれる娘と、自分の背中を力強く支えてくれる義理の息子の姿を見た。
かつて自分が「どこの馬の骨だ!」と怒鳴り散らした若者は、今、自分に代わって家族の絆をしっかりと結び合わせる、本物の「男」になっていた。
自分はもう、孤独な家長ではない。
春子が命懸けで育て上げたこの家族が、今、自分を支えてくれている。
「……ああ。そうだな。お前たちの言う通りだ」
正一は、深く息を吐き、両手で顔をごしごしと乱暴に拭った。
「春子は、絶対に帰ってくる。俺たちの家に、帰ってくるんだ」
正一の震えが止まった。
純子と浩に両脇を支えられながら、正一は再び長椅子に座り、じっと、ただじっと、手術室の赤いランプを見上げ続けた。
それからさらに二時間が経過した、夕方の四時過ぎ。
「カチャリ」
乾いた金属音とともに、手術中を知らせる赤いランプが消えた。
重たい扉がゆっくりと開き、緑色の手術着を着た医師が、疲労の色を滲ませながらも、小さく頷きながら出てきた。
「……先生!」
正一が、弾かれたように立ち上がる。
「神田さん。……長引いて申し訳ありませんでした」
医師はマスクを外し、静かに微笑んだ。
「転移が見られたリンパ節は、すべて綺麗に切除できました。手術は、大成功です。奥様は、助かりますよ」
その言葉を聞いた瞬間、正一は「ああっ……!」と声を漏らし、そのままその場に崩れ落ちそうになった。
浩が慌てて正一の肩を抱きとめる。
純子は「よかった、よかった……!」と泣き崩れ、正一は浩の腕の中で、顔をくしゃくしゃにして声にならない嗚咽を漏らした。
恐怖と絶望の底から、ついに一条の光が差し込んだ瞬間だった。
数時間後。
麻酔から覚めた春子は、集中治療室のベッドの上で、ゆっくりとまぶたを開けた。
視界がぼやける中、酸素マスク越しの呼吸音と、心電図の規則正しい電子音が聞こえてくる。
「……春子」
耳元で、ひどく掠れた、震える声がした。
春子がゆっくりと首を巡らせると、そこには目を真っ赤に腫らし、鼻水を垂らしたままの正一が、春子の右手を両手で固く握りしめて覗き込んでいた。
純子と浩の姿は病室の外にあり、二人きりの空間だった。
「お……とう、さん……」
「喋るな。まだ、喋らなくていい」
正一は、春子の手に自分の額を押し当て、ポロポロと涙を流した。
「よく頑張ったな。先生が、手術は成功したって……全部取れたって、言ってたぞ。お前は、助かったんだ」
春子は、弱々しく微笑み、酸素マスクの下で小さく「よかった」と口を動かした。
「……春子」
正一は、額を上げた。
その顔には、もう三十年間被り続けてきた「関白」としてのプライドや虚勢は、微塵も残っていなかった。
あるのはただ、妻を心の底から愛し、妻なしでは生きていけない一人の不器用な男の、むき出しの魂だけだった。
「春子。……頼むから、もう二度と、俺を置いていこうとするな」
正一の声は、嗚咽に混じって震えていた。
「俺は、お前がいなきゃダメなんだ。威張ってみせたって、大声を出したって、お前が裏で支えてくれなきゃ、俺は爪一つ切れない、ただの役立たずなんだ」
「……」
「俺には……俺には、お前がいるんだ。お前がいてくれないと、俺は生きていけないんだ……!」
それは、五十五歳の男が絞り出した、人生で最も不器用で、最も純粋なプロポーズだった。
「俺が食わせてやっている」と言い続けてきた男が、三十年目にして初めて「お前がいなければ生きていけない」と、無条件の降伏を宣言した。
春子は、涙で滲む視界の中で、泣きじゃくる夫の顔を見つめた。
点滴の管に繋がれた重い手をゆっくりと動かし、正一の涙で濡れた大きな頬に、そっと触れた。
「……だい、じょうぶですよ……お父さん……」
春子は、かすれながらも、はっきりとした声で言った。
「私……どこにも、行きませんから……」
その言葉を聞いて、正一は春子の手をきつく握りしめ、「ああ……ああ……!」と獣のように声を上げて泣いた。
集中治療室の無機質な空間に、正一の号泣がいつまでも響き渡った。
その涙は、三十年間にわたって正一が着込んでいた重たい鎧を完全に洗い流し、二人が真の意味で「対等の夫婦」として生まれ変わったことを祝福する、温かく、尊い産声のようだった。




