第29話 退院と、ぬるいお茶
昭和四十八年、三月。
長く厳しかった冬がようやく終わりを告げ、神田家の庭の片隅で、白梅のつぼみがふっくらとほころび始めた頃。
大手術を乗り越え、数ヶ月に及ぶ過酷な入院生活に耐えた春子が、ついに退院の日を迎えた。
正一は、大事な宝物を扱うように春子をタクシーのふかふかしたシートに乗せ、自宅へと向かった。
タクシーのラジオからは、ガロの『学生街の喫茶店』の物悲しくも優しいメロディが流れている。
車の窓から見える東京の街並みは、春の日差しを浴びてキラキラと輝いて見えた。
「……随分と、外の世界の空気を吸っていなかった気がします」
春子は、窓の外の景色を眩しそうに見つめながら、ぽつりとこぼした。
手術を経てすっかり痩せてしまった春子の体には、昔買ったお気に入りのツイードのスプリングコートが、少しだけぶかぶかになっていた。
「これからは、いくらでも吸えるさ。暖かくなったら、近所の公園まで散歩に行くのもいいだろう」
正一は、春子の細い肩をそっと抱き寄せるようにして答えた。
三十年間、外を歩く時は常に「俺の後ろを三歩下がってついてこい」と言わんばかりに大股で前を歩いていた男が、今は妻の歩幅に合わせ、妻を気遣って隣に並んで座っている。
その温かい変化に、春子はコートの袖口を少しだけ握りしめ、静かに微笑んだ。
「さあ、着いたぞ。ゆっくり降りろ」
タクシーを降り、正一の肩を借りて玄関の引き戸を開ける。
「……ただいま」
春子の小さな声が、しんと静まり返った土間に吸い込まれる。
「おお。お帰り」
正一が短く返した。
靴を脱いで居間に上がった春子は、思わず「まあ」と声を漏らした。
部屋の隅々まで掃除機がかけられ、チリ一つ落ちていない板の間。
テレビのブラウン管の画面はピカピカに磨かれ、居間の中心には、赤と黒の格子柄の分厚い布団が掛けられたコタツが、どっしりと鎮座している。
その上には、竹編みのカゴに盛られたみかんが、鮮やかなオレンジ色を放っていた。
正一が、一人で悪戦苦闘しながら、春子の帰る場所を完璧な状態にして守り抜いてくれていた。
「お父さん……家の中、本当に綺麗にしてくださってたんですね」
「当たり前だ。俺を誰だと思ってる。言っただろう、俺は徹底的にやる男なんだと」
正一は照れくさそうにふんぞり返り、コタツの布団をめくって春子を促した。
「さあ、座れ。中は温めてある」
「はい……ああっ」
春子がコタツに足を入れると、赤い光を放つヒーターの熱が、冷え切った足先からじんわりと全身を温めていく。
消毒液の匂いのする無機質な病室から、いぐさと古木の匂いがする、自分の家へ帰ってきた。
その圧倒的な安心感に包まれ、春子の目からポロリと一滴の涙がこぼれ落ちた。
「おいおい、泣く奴があるか。めでたい日だぞ」
「ふふっ……そうですよね。嬉しくて、つい」
春子は目元を指で拭い、仏間のキヨの位牌に向かって深く頭を下げた。
「お義母さん、ただいま戻りました」と、心の中でそっと報告する。
「よし。じゃあ、茶にするか」
正一が立ち上がり、台所へ向かった。
以前なら、「おい、春子! 茶だ!」と居間から怒鳴るだけで済ませていた男である。
春子は驚いて「私が淹れますよ」と立ち上がろうとしたが、正一は「座ってろ!」と手で制した。
台所に入った正一は、使い込まれたアルマイトのやかんをガスコンロに乗せ、マッチで火をつけた。
シュンシュンとやかんがお湯を沸かす音を聞きながら、正一は茶筒から緑茶の葉をスプーンで掬い、急須に入れた。
(……待てよ)
お湯が沸騰し、それを急須に注ごうとした瞬間、正一の手が止まった。
キヨがかつて遺した、「正一の味噌汁の温度は、春子さんに任せたよ」という言葉。
そして、自分が極度の猫舌であることを知っていながら、威張る口実を与えるために、春子がわざと「熱すぎず、ぬるすぎない」絶妙な温度のお茶や味噌汁を出してくれていたこと。
正一は、沸き立ったばかりの熱湯を見つめた。
今の春子は、胃の半分以上を切除する大手術を終えたばかりだ。
こんな煮えたぎるような熱いお茶を飲ませたら、傷ついた胃袋がびっくりしてしまうだろう。
正一は、やかんの熱湯を、まずは一度「湯冷まし」用の小さな器に注いだ。
そして、数十秒ほどじっと待ち、お湯の温度が七十度ほどに下がったのを確認してから、ゆっくりと、急須に注ぎ入れた。
茶葉が静かに開き、美しい若緑色がお湯に溶け出していくのを待つ。
三十年間、春子に淹れさせてばかりだったお茶。
その一杯に、妻がどれほどの気遣いと、目に見えない愛情を込めてくれていたのか。
それを今、正一は自分で急須を握ることで、深く噛み締めていた。
「ほら、お茶が入ったぞ」
正一は、お盆に二つの湯呑みを乗せて居間に戻り、春子の前にそっと置いた。
湯呑みからは、穏やかな湯気がふわりと立ち上っている。
「ありがとうございます、お父さん。お父さんが淹れてくれたお茶なんて、初めてですね」
春子は両手で湯呑みを包み込むように持ち、ゆっくりと口に運んだ。
ズズッ。
「……あっ」
春子は、小さく声を漏らした。
それは、決して熱湯のように舌を刺す熱さではなかった。
かといって、冷めているわけでもない。
病み上がりのデリケートな胃の腑に、まるで春の日差しのように優しく、じんわりと染み渡っていく、最高に心地よい「ぬるさ」だった。
「どうだ。……熱すぎるか」
正一が、コタツの向かい側で、少し心配そうに春子の顔を覗き込んでいる。
その顔には、かつての「味が薄い!」と怒鳴り散らしていた暴君の面影はない。
ただ純粋に、妻の体を気遣う不器用な夫の顔があった。
「ううん……」
春子は、湯呑みを見つめたまま、首を横に振った。
「とっても、美味しいです。……私の胃に、びっくりしないように、お湯を冷ましてから淹れてくださったんですね」
「……」
「お父さん。これ、本当に……ちょうどいい熱さです」
春子が、涙ぐみながら満面の笑みを浮かべた。
正一は「そうか」とだけ言って、照れ隠しにふいっと視線を逸らし、自分の湯呑みを手に取った。
正一の湯呑みのお茶もまた、彼の猫舌にぴったりの、優しい温度だった。
「……これからのお茶は、俺が淹れてやる。お前はもう、台所に立たなくていいから、ここでゆっくりしてろ」
「まあ。そんなに甘やかされたら、私、本当にダメな奥さんになっちゃいますよ」
「いいんだ。お前は三十年間、働き詰めだったんだからな。これからの三十年は、俺がお前の世話を焼いてやる」
正一はコタツの上のカゴからみかんを一つ取り出し、ゴツゴツとした指で皮をむいて、春子の前に差し出した。
コタツの赤いヒーターの光と、障子越しに差し込む春の柔らかな日差しが、神田家の居間を優しく照らしている。
昭和四十八年、春。
かつて大声で威張ることでしか愛情を表現できなかった男は、妻が命懸けで守り抜いてくれた「ちょうどいい温度」の優しさを、今度は自分の手で妻に返す術を学んだ。
二人で並んですする「ぬるいお茶」の味は、どんな高級な玉露にも勝る、夫婦の深い愛情の味がした。




