第30話(最終話) ちょうどいい熱さの味噌汁
昭和四十八年、五月。
初夏を思わせるような、明るく暖かな日差しが神田家の庭に降り注ぐ朝。
遠くから、豆腐屋の自転車の「プ〜ップ〜ッ」というのどかなラッパの音が聞こえてくる。
ガラガラと雨戸を開ける小気味良い音が響き、続いて台所から、トントントン、という包丁のリズミカルな音が聞こえてきた。
「……ふぁあ」
寝室で目を覚ました春子は、ゆっくりと身を起こした。
退院してから二ヶ月が過ぎ、春子の体力は驚くほど順調に回復していた。
大手術の直後は真っ白でシーツのように薄かった頬には、今はほんのりと桜色の赤みが戻り、抗がん剤で細くなっていた髪も、少しずつだが元の艶を取り戻し始めている。
長年着慣れた薄紫色のカーディガンを羽織って居間へ出ると、台所から漂ってくる出汁の良い香りに、ふわりと鼻をくすぐられた。
「おはようございます、お父さん」
春子が声をかけると、流し台の前に立っていた背中の丸い初老の男が、ゆっくりと振り返った。
「おお、起きたか。もう少し寝ててもよかったんだぞ。外はまだ風が涼しいからな」
白いステテコの上に、春子が昔使っていた水色のチェック柄のエプロンを不格好に巻きつけた正一が、お玉を片手に立っていた。
その傍らのまな板の上には、正一が切った不揃いな豆腐と、少し太すぎる長ネギが並んでいる。
さらにその横には、昔ながらの木箱の『鰹節削り器』が置かれていた。
正一は毎朝、誰よりも早くに起きてシュッシュッと鰹節を削り、一から出汁を取って味噌汁を作るようになっていた。
「いい匂いですね。お父さんの削る鰹節の匂い、一番好きです。私も、卵焼きくらい作りましょうか?」
「バカモノ。病み上がりの人間が台所に立つんじゃない。お前は縁側に座って、朝刊でも読んでろ」
正一は、わざとらしく太い声を出して春子を追い払った。
かつて「男子厨房に入らず」を絶対のルールとし、リンゴを剥こうとして指を絆創膏だらけにしていた男は、今やすっかり『神田家の主婦』としての板についていた。
焦げたアジの開きと格闘し、煙だらけになった日々を乗り越え、今では魚の焼き加減も完璧にマスターしている。
春子が縁側に腰を下ろし、庭の木々の間に差し込む朝の清々しい空気を胸いっぱいに吸い込んでいると、居間の隅に置かれた黒電話がジリリリリッと元気に鳴った。
「はい、神田です」
春子が受話器を取る。
『あ、お母さん? 純子だけど、体調はどう?』
「純子。おはよう。ええ、とっても調子がいいわよ。今朝もご飯が美味しく食べられそう」
『よかった! 今週末ね、浩さんと一緒にそっちに行くよ。お母さんの顔が見たいし。……あ、そういえば、お父さんはどう? まだ二槽式洗濯機とプロレスしてる?』
電話の向こうから、浩の「お義父さんの手料理、楽しみですね」という笑い声もかすかに聞こえる。
「うふふ。お父さんね、最近は洗濯機のご機嫌を取るのがすっかり上手になったのよ。今はね、エプロンをしてお味噌汁を作ってくれてるわ。もう、すっかりうちの大黒柱よ」
『ええっ!? あのお父さんがエプロン!? うわー、絶対にカメラ持って行って写真撮らなきゃ!』
純子の明るい声に、春子は声を立てて笑った。
「誰からだ! 純子か? 俺の悪口を言ってたら許さんぞ! 今週末は腕によりをかけてハンバーグを作ってやるって言っておけ!」
台所から、お玉を持った正一が顔を出して怒鳴る。その顔には、かつてのようなピリピリとした威圧感や恐怖政治の面影はなく、どこか嬉しそうな、柔和なシワが深く刻まれていた。
「ほら、できたぞ」
正一が、ちゃぶ台の上に朝食を並べた。
ツヤツヤに炊き上がった白米。
こんがりと絶妙なきつね色に焼けた塩鮭。
納豆。
そして、お椀からふわっと湯気が立ち上る、豆腐とネギの自家製味噌汁。
「いただきます」
夫婦で手を合わせ、向かい合って箸を取る。
正一は、ふと、箸を止めて春子の顔を見た。
「おい。味噌汁、どうだ」
春子は、お椀を両手で持ち上げ、ふーふーと少しだけ息を吹きかけてから、ゆっくりと口に運んだ。
鰹節の豊かな香りと、味噌のコクが、口いっぱいに広がる。
「……」
「どうだ。……熱すぎるか? それとも、味が薄いか?」
正一が、まるでテストの点数を待つ小学生のように、不安そうに身を乗り出す。
三十年前、結婚したばかりの頃、正一は春子の作る味噌汁を飲んで「ぬるい! 味が薄い!」とちゃぶ台を叩いて怒鳴った。
それ以来、春子は三十年間、正一の極度の『猫舌』に合わせて、わざと熱湯を避け、正一の舌にちょうどいい温度になるように計算して味噌汁を出し続けていた。
その事実を知り、春子の無償の愛に泣き崩れた日から、正一は自分が台所に立つ上で、味噌汁の「温度」に誰よりもこだわるようになっていた。
「ううん……」
春子は、お椀をそっと置き、目を細めて最高の笑顔を向けた。
「とっても美味しいです。熱すぎず、冷たすぎず……お父さんの淹れてくれるお茶と同じ。私の胃袋に、一番優しい……『ちょうどいい熱さ』です」
「……そうか。なら、いいんだ」
正一は、ホッと息を吐き出し、自分も味噌汁をすすった。
自分の猫舌にも全く熱くない、最高の温度。
そして、鰹節から丁寧に取った出汁の、深くて優しい味わい。
(……ああ。美味いな)
正一は、三十年目にして初めて、自分の家で食べる朝ごはんを心から「美味い」と感じていた。
威張らなくても、大声を出さなくても、こんなにも美味しくて、こんなにも幸せな時間が、ちゃぶ台の上には最初からあった。
それに気づくのに、少しばかり時間がかかってしまっただけだ。
朝食を終え、正一が手際よく茶碗を洗って片付けると、二人は縁側に腰を下ろして、食後の緑茶を飲んだ。
五月の風が、庭の木々の青葉をサラサラと揺らし、縁側の板の間に心地よい影を作っている。
「……春子」
正一が、ふと、ちゃぶ台の下から一冊の大学ノートを取り出してきた。
あの夏に正一が書いた、『大阪旅行の計画』のノートだった。
「お父さん。それ……」
「前回の検診で、先生が言ってたぞ。このまま順調に体力が戻れば、秋には泊まりがけの旅行に行っても大丈夫だってな」
正一は、ノートのページをパラパラとめくり、老眼鏡の奥の目を細めた。
「今年の秋こそ、行くぞ。大阪にな。お前が内職で貯めてくれたあの金で、新幹線に乗って、一番いい旅館に泊まるんだ」
「……はい」
「本物の『太陽の塔』を、二人で見上げて、写真を撮るんだ。純子たちにも見せてやらなきゃいけないからな」
春子は、涙ぐみながら、深く、深く頷いた。
「はい、お父さん。……私、絶対に元気になります。そして、お父さんと一緒に、色んなところへ行きたいです」
「おう。俺の退職金もたっぷりあるからな。日本中、どこへでも連れて行ってやる」
正一は得意げに笑い、春子の肩を優しく抱き寄せた。
その日の午後。
初夏の日差しに包まれた小高い丘の上の霊園に、二人の姿があった。
正一に肩を支えられながらゆっくりと坂道を登ってきた春子の手には、真っ白な菊の花束が握られている。
『神田家先祖代々之墓』
真新しい墓石の前に立つと、正一は手桶から柄杓で水をすくい、墓石にたっぷりと水をかけた。
春子が花立てに菊を飾り、静かに線香に火を灯す。
「……おふくろ。遅くなったが、春子が帰ってきたぞ」
正一は、玉砂利の上に膝をつき、墓石に向かって深く頭を下げた。
「あの手術の日……おふくろが、そっちの世界から引っ張り返してくれたんだろ。春子の命を、助けてくれたんだな」
正一の大きな背中が、小刻みに震え始めた。
「ありがとう、おふくろ……っ。俺の大事な女房を、守ってくれて……本当に、ありがとう……!」
威張るだけだった不器用な男の、母親に対する、そして妻に対する心からの感謝の涙が、玉砂利に吸い込まれていった。
春子もまた、正一の隣で膝をつき、ハンカチで口元を押さえながら、ポロポロと涙を流した。
「お義母さん。……ただいま戻りました」
春子は、線香の白い煙の向こうに、縁側で優しく微笑んでいたキヨの顔を思い浮かべた。
「私、もう少しだけ、こちら側でお父さんのお世話をさせてもらいますね。お父さん、今ではお味噌汁も一人で作れるくらい、とっても立派な『家長』になられたんですよ」
春子の言葉に、正一は涙を袖で乱暴に拭いながら、「バカモノ。お前が倒れたから、仕方なくやってるだけだ」と、いつものように照れ隠しの文句を言った。
しかし、その声はどこまでも優しく、春子を見る正一の目には、海のように深い愛情が湛えられていた。
サァーッ、と初夏の爽やかな風が吹き抜け、霊園の木々が嬉しそうに葉を鳴らした。
まるで空の上のキヨが、「それでいいんだよ、正一。二人とも、仲良くおやり」と笑ってくれているかのようだった。
亭主関白。
それは、昭和という時代が作り上げた、不器用な男たちの虚勢の鎧だったのかもしれない。
正一はその鎧を脱ぎ捨て、「関白」としては完全に失格してしまった。
だが、その代わりに手に入れたのは、妻のためにエプロンを締め、ちょうどいい熱さの味噌汁を作り、肩を寄せ合って涙を流せるという、「本当の夫婦」としての、温かくかけがえのない時間だった。
「……さあ、春子。帰るぞ」
「はい、お父さん」
初夏の陽光に包まれた霊園の坂道を、初老の夫婦が、しっかりと手を繋いで歩き出す。
空はどこまでも青く澄み渡り、二人の歩むこれからの穏やかな日常を、いつまでも明るく照らし続けていた。




