第8話 娘の帰りが遅い
昭和四十四年、十月の半ば。
庭の隅で鳴くスズムシの音色が、少しずつ冷たさを増してきた夜のことである。
「遅い。遅すぎる」
神田家の居間で、正一は腕を組み、熊のように畳の上をウロウロと歩き回っていた。
壁に掛かった古い柱時計の針は、午後十時半を指そうとしている。
「ちょっとお父さん、埃が立つから座ってちょうだいな」
ちゃぶ台の脇で、正一のステテコのほつれを繕っていた春子が、呆れたようにため息をついた。
「座ってなどいられるか! もう十時半だぞ。純子のやつ、いったいどこで油を売ってるんだ」
「会社の同じ課のお友達と、日比谷まで映画を見に行くって言ってたじゃないですか。休みの日の前の晩なんだから、少しぐらい遅くなったって……」
「映画一本見るのに、十時半までかかるわけがない! だいたい、最近の世の中は物騒なんだぞ。東大の安田講堂の一件だってあったばかりだし、学生がヘルメットかぶって暴れたりしてる。新宿あたりじゃフーテンの若者が地ベタに座り込んでるって、こないだニュースでやってたじゃないか!」
正一は浴衣の裾をバサバサと揺らしながら、また玄関の方へドタドタと歩いて行き、ガラッと少しだけ引き戸を開けて外の暗闇を覗き込む。
誰もいない路地と、向かいの家のブロック塀を確認すると、舌打ちをして居間に戻ってきた。
「正一。そんなに歩き回ったら、畳がすり減って張り替えの金がかかっちまうよ」
縁側の特等席で、熱いほうじ茶をすすりながらキヨが笑った。
「おふくろは心配じゃないのか! 年頃の娘がこんな時間までふらふらして。だいたい、その『友達』というのは本当に女なのか? 俺は疑わしいと思ってるんだ」
「さあねぇ。二十三にもなれば、男でも女でも、色んな友達ができるさ」
「誤魔化すな! 万が一、男だったらどうするんだ。最近流行りの、あの髪の毛の長い、風呂に入ってないような汚い格好をしたバンドマン崩れみたいな男に唆されて、ゴーゴー喫茶だのなんだのという不良の巣窟に連れ込まれていたら……。純子はまだ世間知らずなんだぞ!」
正一の頭の中では、テレビのワイドショーや週刊誌で仕入れた断片的な若者文化の知識が結びつき、最悪の想像が猛スピードで膨れ上がっていた。
純子が、怪しい照明のチカチカする地下室で、長髪の男に無理やり酒を飲まされている映像まで浮かんでくる。
「いかん。新宿の警察に電話する!」
正一は血相を変えて、部屋の隅にある黒電話に手を伸ばした。
「やめなさいな、みっともない」
春子がピシャリと言った。
その声は決して大きくなかったが、妙なドスが利いており、正一は思わず受話器から手を離した。
「み、みっともないとは何だ! 親が娘を心配して何が悪い」
「純子も立派な大人ですよ。警察だなんて大騒ぎしたら、純子が会社で笑い者になります。お父さんだって、会社に娘のことで電話がかかってきたら恥ずかしいでしょう?」
「うるさい! いくら大人だろうが、仕事をして自活していようが、この神田家の敷居を跨いでいるうちは俺の庇護下にあるんだ。我が家の門限は夜の十時と決まっている!」
正一がちゃぶ台をドンと叩いてふんぞり返った、その時だった。
「十時、ですか」
春子が繕い物の針を止め、ふふっと小さく笑った。
「……なんだ」
「いえね。少し昔のことを思い出したの」
春子はちゃぶ台に肘をつき、楽しそうに正一を見上げた。
その瞳には、はっきりとしたイタズラっぽい光が宿っていた。
「私たちがお見合いをして、三回目にデートした日のこと。覚えてる?」
「な、急に何の話だ。今は純子の話をしているんだ」
「あの日はたしか、浅草で石原裕次郎の活動写真を見たあと、銀座のちょっとお洒落な純喫茶に入って……それから、隅田川の川べりをずっと歩いたよね」
正一の顔が、みるみるうちに赤く染まっていく。
「お、おい! おふくろの前で変な昔話をするな!」
「私はうちの父がすごく厳しかったから、『門限は夜の九時です。もう帰らないと叱られます』って何度も言ったのに。隣を歩いている人が、『あと五分だけ』『もう少しだけ一緒に』って言って、私の手をギュッと握って離してくれなかったのよねぇ。手のひら、すごい汗かいてたわよね」
「ぶふっ」
縁側で、キヨが噴き出すように笑い、むせて激しく咳き込んだ。
「おやまあ。正一にもそんな情熱的なところがあったのかい。お母さん、初耳だよ」
「ち、違う! あれは……あれは俺が真剣に、お前との将来を考えていたからで……」
「そうよねえ。でも、あの日の帰り、結局うちの玄関に着いたのは夜の十一時を回ってましたよ。父が木刀を持って玄関で待ってた時のあなたの顔ったら、今でも忘れられないわ。青ざめて、直立不動でペコペコ頭を下げて」
春子がコロコロと笑う。
正一は茹でダコのように顔を真っ赤にして、パクパクと口を開け閉めした。
「そ、それとこれとは話が別だ! 俺は真面目な好青年だったが、純子と一緒にいる奴がどんな意図を持っているか、わかったもんじゃないだろう!」
「あら。あなただって最初から『結婚しよう』なんて言ってくれなかったじゃない。『君の瞳は星みたいに綺麗だ』なんてキザなことばっかり言って……」
「わーーっ! わかった! もういい、その話はよせ! 頼むから!」
正一が両手で耳を塞ぐようにして叫んだ時だった。
ガラガラッ。
玄関の引き戸が開く音がした。
「ただいまー。あー、面白かった!」
純子が、少し上気した顔で居間に入ってきた。
どこかソワソワした、弾むような声だ。
「じゅ、純子! お前、今何時だと思ってるんだ!」
正一は立ち上がり、父親としての威厳を示そうと声を張った。
しかし、直前まで春子に昔話を暴露されていたせいで顔は真っ赤であり、声もうわずっていて全く迫力がない。
「ごめんなさい。映画が長引いちゃって。そのあと、駅前の喫茶店でコーヒー一杯だけ飲んでたのよ」
純子は全く悪びれる様子もなく、ハンドバッグを縁側に置いた。
そして、大ヒット曲であるピンキーとキラーズの『恋の季節』を、小さな声で嬉しそうに鼻歌で歌いながら、手洗いうがいのために洗面所へ向かっていった。
その顔は、どう見ても「会社の女友達と映画を見てきただけ」の顔ではなかった。
誰かの言葉に胸をときめかせ、恋をしている女の子特有の、キラキラとした光を帯びていたのだ。
「……あいつ、鼻歌なんか歌ってやがったぞ」
正一は、ドスンと座布団に崩れ落ちた。
まるで、自分の知らないところで大事な宝物を泥棒に盗み出されたような、ひどく間の抜けた哀愁漂う顔である。
「どう見ても、男だな。間違いない。あの目つき、あの浮ついた足取り……俺にはわかる」
ブツブツと呟く正一の前に、春子が冷やした大瓶のビールとグラスをトンと置いた。
「まあ、いいじゃないですか。秋は恋の季節ですからね。純子もそういうお年頃になったのよ」
「人ごとみたいに言うな! いったいどこの馬の骨だ……」
正一はビールをグラスに注ぎ、ヤケクソのように一気に煽った。
娘の成長と、いずれ訪れるであろう「その日」の予感に、昭和の猛烈お父さんは一人、父親特有の寂しさと胃の痛みを抱えて悶々とするのだった。
秋の夜長は、神田家にとって少しだけ騒がしく、そして切ない季節の始まりだった。




