第7話 アポロが月に着いた日
昭和四十四年、七月二十一日。
日本中が、いや世界中が、四角い箱の前に釘付けになっていた。
夏の夜。
クーラーなどない木造平屋の神田家でも、家族四人が居間に集まり、真新しいカラーテレビの画面を息を詰めて見つめている。
開け放たれた縁側からは、生ぬるい夜風が入り込み、蚊取り線香の煙を揺らしていた。
庭の茂みからはジーッという油蝉の鳴き残りが聞こえ、遠くで犬が吠える声がするが、居間の中は奇妙なほどの静寂に包まれていた。
テレビの画面は、せっかくのカラーテレビでありながら、白黒の荒い映像を映し出している。
ザーッ、ザーッという宇宙空間からの激しいノイズ混じりの音声が、居間に響く。
「……いよいよだぞ」
正一が、持っていたキリンの大瓶ビールのグラスをちゃぶ台に置き、身を乗り出した。
ステテコに腹巻き姿の正一の額には、びっしりと汗が滲んでいる。
「本当に、人間が月に降りるのねぇ」
春子が口元に両手を当て、祈るように画面を見つめている。
「すごい……なんだか映画を見ているみたい」
純子は目を丸くして、瞬きすら忘れていた。
OLの制服から着替えたTシャツ姿の純子は、新しい歴史の幕開けに興奮を隠しきれない様子だ。
縁側の藤椅子に座るキヨも、静かに数珠を握りしめていた。
「馬車が走っていた時代から、とうとうお月様に人が行く時代になったんだねぇ」
画面の中で、月着陸船イーグルから、宇宙飛行士のニール・アームストロング船長がゆっくりとタラップを下りていく。
重力の少ない月面で、その動きはまるでスローモーションのように見えた。
『一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である』
アナウンサーの興奮した翻訳の声が響いた。
ふわりと、分厚い宇宙服に身を包んだアームストロング船長が、真っ白な月の砂に人類初の足跡を刻んだ。
「おおおっ!」
正一が立ち上がり、両手を高く突き上げた。
同時に、網戸の向こうのあちこちの家からも「おおーっ!」「やったぞ!」という歓声や、パチパチという拍手が聞こえてくる。
人類が初めて地球以外の星に降り立った瞬間だった。
「見たか純子! これが人間の力だ!」
正一は興奮冷めやらぬ様子で、鼻息を荒くして純子の肩を叩いた。
「真っ暗な宇宙空間に飛び出し、未知の恐怖を克服する。これぞ男のロマン、人類の限りない勇気だ。どんな暗闇だろうと、人間の強い意志があれば必ず打ち勝てるんだ!」
「うん、本当にお父さんの言う通りだね。私、感動しちゃった」
普段は反抗的な純子も、この時ばかりは素直に頷いた。
正一は満足げに胸を張り、残りのビールを一気に飲み干した。
「人間の力」と「家長の権威」をなぜか重ね合わせている正一の得意顔を、春子とキヨは微笑ましく見守っていた。
その日の、深夜二時。
カチ、コチ、カチ、コチ。
壁の柱時計の音が、静まり返った家の中に響いている。
「……ううむ」
正一は、下腹部の強烈な切迫感で目を覚ました。
アポロ着陸の歴史的興奮と、自分の大演説に酔いしれ、大瓶のビールを三本も空けてしまったのが運の尽きだった。
尿意が限界を突破しようとしている。
隣では、春子がスースーと静かな寝息を立てていた。
正一はそっと布団を抜け出し、ふすまを五センチほど開けた。
「……」
廊下は、文字通り漆黒の闇だった。
昭和の古い木造家屋の夜は深い。
現代のような便利な足元の常夜灯や、街灯の明るさはなく、月明かりすら重たい雨戸に完全に遮られている。
神田家の便所は、この長く暗い板張りの廊下を進み、一度土間に下りた突き当たりにある。
正一は、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
実は正一は、極度の怖がりである。
ホラー映画や怪談話はもちろん、雷もダメ。
そして何より、昔から暗闇が大の苦手なのだ。
(いかん。たかが自分の家の廊下だ。俺は一家の主だぞ……)
自分に言い聞かせ、一歩、廊下に足を踏み出す。
ミシッ。
古い床板が、やけに大きな音を立てて鳴った。
その音だけで、正一の肩がビクッと跳ねる。
暗闇の奥で、何かがうごめいた気がした。
壁に掛かった背の高い柱時計のシルエットが、まるでこちらを見下ろす宇宙人か、得体の知れない化け物のように見える。
勝手口のほうでかすかに鳴った風の音が、人の足音に聞こえた。
足がすくんで、それ以上前に進めない。
先ほどテレビで見た、漆黒の宇宙空間の冷たい映像がフラッシュバックする。
しかし、膀胱の限界は刻一刻と近づいていた。
正一はソロソロと後ずさりし、音を立てないように布団に戻った。
「……おい。春子」
正一は、隣で寝ている妻の肩を小さくゆすった。
「ん……お父さん? どうしたの……こんな夜中に」
春子が目をこすりながら身を起こす。
「しっ、声が大きい。……さっきから、勝手口のほうでガタガタと物音がするんだ」
正一は、もっともらしい低い声を作って囁いた。
「えっ? 泥棒かしら」
「わからん。だが、俺がついてるから安心しろ。ちょっと一緒に来てくれ」
「一緒に、ですか?」
「ああ。俺一人で行って、お前をここに置いておくわけにはいかんだろう。俺の後ろからついてこい」
正一は威厳たっぷりに言った。
春子は暗闇の中で、一瞬だけ呆れたように目を瞬かせたが、すぐにすべての状況を察してふわりと微笑んだ。
「ごめんなさいね、私ちょっと怖いわ。お父さん、守ってね」
「おう、任せておけ」
二人は連れ立って、暗い廊下に出た。
正一は「俺の後ろにいろよ」と言いながら、ちゃっかり春子の浴衣の袖を強く握りしめている。
そして、春子の歩幅に合わせて、自分の体が半分春子に隠れるような格好で歩いていた。
「おや、お父さん。便所の電気、誰かつけっぱなしにしたみたいですよ」
土間に下りる手前で、春子がわざとらしく言い、壁のスイッチをパチンと入れた。
パァッと便所の前の電球が灯り、廊下がオレンジ色に照らされる。
「あ、ああ。泥棒の野郎、便所に隠れてるかもしれん。俺が確認してやる。お前はそこで待ってろ」
正一は急に強がりを言いながら、明るくなった便所へ小走りで駆け込んだ。
「ふう……」
用を足し、すっかり安堵したスッキリ顔で出てきた正一。
「誰もいなかったわね。野良猫だったのかしら」
春子がニコニコと笑っている。
「そうだな。俺の足音にビビって逃げたんだろう。ほら、戻るぞ」
帰りの廊下は、便所の明かりのおかげでまったく怖くなかった。
正一は今度こそ先頭を歩き、堂々と胸を張って寝室へ戻った。
「まったく、女は暗闇一つで怖がるんだから世話が焼ける。俺がいなきゃどうなってたことか」
布団に入り直しながら、正一が偉そうに言う。
「本当ね。お父さんがいてくれて、心強かったわ。どんな暗闇でも打ち勝てる、人間の勇気ね」
春子の言葉に、正一は「ふん」と得意げに鼻を鳴らし、三分後には高いいびきをかき始めた。
ふすまの向こう。
暗闇の縁側で、一人目を覚ましていたキヨが、声を出さずに肩を震わせて笑っていた。
「宇宙の暗闇より、便所までの廊下の方が怖いとはねぇ」
キヨの独り言は、庭で鳴く虫の音に吸い込まれていった。
昭和四十四年。
人類が月に降り立った歴史的な夜も、神田家はいつもと変わらず平和だった。




