表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
7/7

第7話 アポロが月に着いた日

 昭和四十四年、七月二十一日。

 日本中が、いや世界中が、四角い箱の前に釘付けになっていた。


 夏の夜。

 クーラーなどない木造平屋の神田家でも、家族四人が居間に集まり、真新しいカラーテレビの画面を息を詰めて見つめている。

 開け放たれた縁側からは、生ぬるい夜風が入り込み、蚊取り線香の煙を揺らしていた。

 庭の茂みからはジーッという油蝉の鳴き残りが聞こえ、遠くで犬が吠える声がするが、居間の中は奇妙なほどの静寂に包まれていた。


 テレビの画面は、せっかくのカラーテレビでありながら、白黒の荒い映像を映し出している。

 ザーッ、ザーッという宇宙空間からの激しいノイズ混じりの音声が、居間に響く。


「……いよいよだぞ」

 正一が、持っていたキリンの大瓶ビールのグラスをちゃぶ台に置き、身を乗り出した。

 ステテコに腹巻き姿の正一の額には、びっしりと汗が滲んでいる。


「本当に、人間が月に降りるのねぇ」

 春子が口元に両手を当て、祈るように画面を見つめている。

「すごい……なんだか映画を見ているみたい」

 純子は目を丸くして、瞬きすら忘れていた。

 OLの制服から着替えたTシャツ姿の純子は、新しい歴史の幕開けに興奮を隠しきれない様子だ。

 縁側の藤椅子に座るキヨも、静かに数珠を握りしめていた。

「馬車が走っていた時代から、とうとうお月様に人が行く時代になったんだねぇ」

 画面の中で、月着陸船イーグルから、宇宙飛行士のニール・アームストロング船長がゆっくりとタラップを下りていく。

 重力の少ない月面で、その動きはまるでスローモーションのように見えた。


『一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である』


 アナウンサーの興奮した翻訳の声が響いた。

 ふわりと、分厚い宇宙服に身を包んだアームストロング船長が、真っ白な月の砂に人類初の足跡を刻んだ。

「おおおっ!」

 正一が立ち上がり、両手を高く突き上げた。

 同時に、網戸の向こうのあちこちの家からも「おおーっ!」「やったぞ!」という歓声や、パチパチという拍手が聞こえてくる。

 人類が初めて地球以外の星に降り立った瞬間だった。


「見たか純子! これが人間の力だ!」

 正一は興奮冷めやらぬ様子で、鼻息を荒くして純子の肩を叩いた。

「真っ暗な宇宙空間に飛び出し、未知の恐怖を克服する。これぞ男のロマン、人類の限りない勇気だ。どんな暗闇だろうと、人間の強い意志があれば必ず打ち勝てるんだ!」

「うん、本当にお父さんの言う通りだね。私、感動しちゃった」

 普段は反抗的な純子も、この時ばかりは素直に頷いた。

 正一は満足げに胸を張り、残りのビールを一気に飲み干した。

「人間の力」と「家長の権威」をなぜか重ね合わせている正一の得意顔を、春子とキヨは微笑ましく見守っていた。


 その日の、深夜二時。

 カチ、コチ、カチ、コチ。

 壁の柱時計の音が、静まり返った家の中に響いている。


「……ううむ」

 正一は、下腹部の強烈な切迫感で目を覚ました。

 アポロ着陸の歴史的興奮と、自分の大演説に酔いしれ、大瓶のビールを三本も空けてしまったのが運の尽きだった。

 尿意が限界を突破しようとしている。

 隣では、春子がスースーと静かな寝息を立てていた。


 正一はそっと布団を抜け出し、ふすまを五センチほど開けた。

「……」

 廊下は、文字通り漆黒の闇だった。

 昭和の古い木造家屋の夜は深い。

 現代のような便利な足元の常夜灯や、街灯の明るさはなく、月明かりすら重たい雨戸に完全に遮られている。

 神田家の便所は、この長く暗い板張りの廊下を進み、一度土間に下りた突き当たりにある。


 正一は、ゴクリと生唾を飲み込んだ。

 実は正一は、極度の怖がりである。

 ホラー映画や怪談話はもちろん、雷もダメ。

 そして何より、昔から暗闇が大の苦手なのだ。


(いかん。たかが自分の家の廊下だ。俺は一家の主だぞ……)

 自分に言い聞かせ、一歩、廊下に足を踏み出す。

 ミシッ。

 古い床板が、やけに大きな音を立てて鳴った。

 その音だけで、正一の肩がビクッと跳ねる。


 暗闇の奥で、何かがうごめいた気がした。

 壁に掛かった背の高い柱時計のシルエットが、まるでこちらを見下ろす宇宙人か、得体の知れない化け物のように見える。

 勝手口のほうでかすかに鳴った風の音が、人の足音に聞こえた。

 足がすくんで、それ以上前に進めない。

 先ほどテレビで見た、漆黒の宇宙空間の冷たい映像がフラッシュバックする。

 しかし、膀胱の限界は刻一刻と近づいていた。

 正一はソロソロと後ずさりし、音を立てないように布団に戻った。


「……おい。春子」

 正一は、隣で寝ている妻の肩を小さくゆすった。

「ん……お父さん? どうしたの……こんな夜中に」

 春子が目をこすりながら身を起こす。

「しっ、声が大きい。……さっきから、勝手口のほうでガタガタと物音がするんだ」

 正一は、もっともらしい低い声を作って囁いた。

「えっ? 泥棒かしら」

「わからん。だが、俺がついてるから安心しろ。ちょっと一緒に来てくれ」

「一緒に、ですか?」

「ああ。俺一人で行って、お前をここに置いておくわけにはいかんだろう。俺の後ろからついてこい」

 正一は威厳たっぷりに言った。


 春子は暗闇の中で、一瞬だけ呆れたように目を瞬かせたが、すぐにすべての状況を察してふわりと微笑んだ。

「ごめんなさいね、私ちょっと怖いわ。お父さん、守ってね」

「おう、任せておけ」

 二人は連れ立って、暗い廊下に出た。

 正一は「俺の後ろにいろよ」と言いながら、ちゃっかり春子の浴衣の袖を強く握りしめている。

 そして、春子の歩幅に合わせて、自分の体が半分春子に隠れるような格好で歩いていた。


「おや、お父さん。便所の電気、誰かつけっぱなしにしたみたいですよ」

 土間に下りる手前で、春子がわざとらしく言い、壁のスイッチをパチンと入れた。

 パァッと便所の前の電球が灯り、廊下がオレンジ色に照らされる。

「あ、ああ。泥棒の野郎、便所に隠れてるかもしれん。俺が確認してやる。お前はそこで待ってろ」

 正一は急に強がりを言いながら、明るくなった便所へ小走りで駆け込んだ。


「ふう……」

 用を足し、すっかり安堵したスッキリ顔で出てきた正一。

「誰もいなかったわね。野良猫だったのかしら」

 春子がニコニコと笑っている。

「そうだな。俺の足音にビビって逃げたんだろう。ほら、戻るぞ」

 帰りの廊下は、便所の明かりのおかげでまったく怖くなかった。

 正一は今度こそ先頭を歩き、堂々と胸を張って寝室へ戻った。


「まったく、女は暗闇一つで怖がるんだから世話が焼ける。俺がいなきゃどうなってたことか」

 布団に入り直しながら、正一が偉そうに言う。

「本当ね。お父さんがいてくれて、心強かったわ。どんな暗闇でも打ち勝てる、人間の勇気ね」

 春子の言葉に、正一は「ふん」と得意げに鼻を鳴らし、三分後には高いいびきをかき始めた。


 ふすまの向こう。

 暗闇の縁側で、一人目を覚ましていたキヨが、声を出さずに肩を震わせて笑っていた。

「宇宙の暗闇より、便所までの廊下の方が怖いとはねぇ」


 キヨの独り言は、庭で鳴く虫の音に吸い込まれていった。

 昭和四十四年。

 人類が月に降り立った歴史的な夜も、神田家はいつもと変わらず平和だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ