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第6話 女子社員の淹れるお茶

 スチール製のデスクが規則正しく並ぶ商社の営業部フロアは、いつもタバコの煙と黒電話のベルの音に満ちている。


 昭和四十四年、冬の足音が近づく午後。

 正一はデスクに山積みになった決裁書類に判子を押し続けながら、ふうと重いため息をついた。

 若手の鈴木が相変わらず勝手な営業回りをしてトラブルを起こし、その尻拭いで午前中から得意先で頭を下げ通しだった。

 肩の凝りをほぐすように首を回したとき、ふわりと甘い香りが漂ってきた。


「部長、お疲れ様です。お茶をお持ちしました」

 鈴を転がすような明るい声。

 赤いお盆に乗せた湯呑みを差し出したのは、入社一年目の女子社員、佐藤だった。

 二十歳になったばかりの彼女は、アイビー・ルック風の清楚なブラウスに身を包み、絵に描いたような愛想のいい笑顔を浮かべている。


「おお、佐藤くん。いつもすまないね」

 正一は、無意識のうちに目尻を下げ、声のトーンを一段階高くした。

 家では絶対に春子や純子に見せない、猫なで声に近いような柔らかい声音である。

「いえ。今日は少し肌寒いですから、お茶も少し熱めにしてみました」

「ほう。気が利くねぇ」


 正一は湯呑みを手に取り、ズズッとお茶をすする。

 猫舌の正一には少し熱かったが、決して「熱い」とは言わず、ただ満足げに目を細めた。

「……おや。佐藤くん、今日は髪留めが赤いね。よく似合っているよ」

「あ、気づかれましたか? 昨日、銀座のデパートで買ったんです」

「いいじゃないか。若い女の子は、パッと花が咲いたようでね。鈴木くんのむさ苦しい頭とは大違いだ。ハッハッハ」

「ふふっ、ありがとうございます。部長にそう言っていただけると嬉しいです」


 佐藤がコロコロと笑う。

 その屈託のない笑顔を見つめながら、正一の胸の奥に、チクリとした切なさと、ほのかな温かさが入り混じったような複雑な感情が広がった。

(……純子も、昔は俺が何か買ってやると、あんな風に笑ってくれたものだがな)

 今では「お父さんくさい」「鬱陶しい」と煙たがられるばかりだ。正一にとって、佐藤のような若くて素直な女性社員は、失われてしまった「純朴な娘」の幻影のようなものだった。

 決してよこしまな感情ではない。ただ、ほんの少しだけ「優しい父親」「頼りになる立派な男」として見られたいという、初老の男の哀しい見栄と、ささやかな愛情の裏返しだった。


「よし。佐藤くんのお茶を飲んだら、疲れが吹き飛んだよ」

「よかったです。お仕事、頑張ってくださいね」

 佐藤が一礼して去っていく後ろ姿を見送りながら、正一は再び書類に向かった。

 先ほどまでの胃の痛みが、嘘のように消えていた。


 その日の夕方。

 営業部の電話が鳴り、佐藤が受話器を取った。

「はい、営業部でございます。……あ、神田部長の奥様ですね。いつもお世話になっております、佐藤です」

 電話の主は、春子だった。

 正一がうっかり忘れていった定期券のことで、確認の電話を入れてきたのである。

『こちらこそ、主人がいつもお世話になっています。あの人、会社で威張ってご迷惑をおかけしてないかしら』

「とんでもないです。部長には、いつも優しくしていただいてますよ。私がいれたお茶を、毎日褒めてくださるんです」

『まあ。あの人がお茶を?』

「はい。今日も『髪留めが似合ってる』って、冗談交じりに笑わせてくださって。営業部のみんな、部長のそういうお茶目なところが大好きなんですよ」

 受話器の向こうで、春子が小さく吹き出す気配がした。


『そう。……ふふっ、なるほどね』

「え? 奥様?」

『あの人ね、家では絶対に「美味しい」なんて言わないのよ。いつも「ぬるい」だの「渋い」だの文句ばかりでね』

「ええっ、そうなんですか? 会社ではあんなにニコニコされているのに」

『佐藤さん』

「はい」

『あの人はね、本当は女の子に優しくしたいんだけど、照れ屋で不器用なのよ。うちの娘も最近つれないから、きっと佐藤さんみたいに素直に笑ってくれるお嬢さんがいると、うれしくてたまらないのね』

 春子の声には、嫉妬など微塵もなく、まるで手のかかる大きな子供を語るような、深い慈愛がこもっていた。


『だからね、佐藤さん。もしあの人がまたおかしな冗談を言ったり、柄にもなく褒めてきたりしたら、少し大げさに笑ってあげてちょうだい。「部長すごいですね」って。そうすればあの人、きっと一日ご機嫌で、佐藤さんたちのためにお仕事頑張るから』

「……はいっ。ふふふ、わかりました。奥様、部長のこと本当に大好きな……あ、いえ、よくわかっていらっしゃるんですね」


 佐藤は思わず口元を押さえて笑った。

 春子の言葉の裏にある「正一の孤独と哀愁」を、二十歳の彼女なりに何となく理解した気がした。

 神田正一という男は、家でも会社でも、こうして賢い女性たちによって見事に、そして優しく操縦されているのである。


 夜八時。

 神田家の食卓。

 今日の夕食は、カレイの煮付けだった。

 正一はキリンの大瓶ビールを飲みながら、いつものように上機嫌で管を巻いていた。

「まったく、うちの若いのも佐藤くんみたいに素直だといいんだがな」

 カレイの骨を器用に箸で除けながら、正一がふんぞり返る。

「佐藤くんって、お茶汲みの子?」

 純子が、怪訝そうな顔でご飯を口に運んだ。

「ああ。あの子は俺のお茶汲み一つにも心を込めている。今日なんか、俺が『髪留めが似合ってるね』と褒めただけで、パァッと顔を輝かせてな。『部長のおかげで頑張れます』みたいな顔をするんだ。純子、お前も見習え」

「えっ。ちょっとお父さん、会社でそんなこと言ってんの?」

 純子が箸をピタリと止め、正一を胡乱な目で見た。

「な、なんだ。上司としての正当なコミュニケーションだろうが」

「気持ち悪い。鼻の下伸ばして若い子にデレデレしちゃって。家じゃ『おい、お茶!』しか言わないくせに」

「バカモノ! 俺は外では部下の士気を高めるために、あえて気を遣ってやってるんだ!」

「はいはい。佐藤さんも可哀想に。愛想笑いするのも疲れるだろうね」

 純子が冷たく言い放つと、正一は「なんだと!」と顔を真っ赤にして立ち上がりかけた。

「まあまあ。お父さんは外で色々と神経をすり減らしてるのよ。ね?」

 春子がお茶を差し出しながら、絶妙なタイミングで間に入る。

 縁側では、キヨが「くわばら、くわばら」と小さく呟いてお茶をすすっていた。


 食後。

 正一が風呂に入っている間、台所で純子が春子と一緒に食器を洗っていた。

「お母さん。お父さん若い子にデレデレして、みっともなくない?」

「みっともないわねぇ。お父さん、すっかりお鼻の下が伸びちゃって」

 春子はスポンジに洗剤をつけながら、クスクスと笑った。

「お母さん、怒らないの? あんな風に他の女の子褒めてさ」

「怒るもんですか。むしろ、佐藤さんには感謝してるくらいよ」

「なんでよ」

 純子が口を尖らせる。

「お父さん、本当は純子に『お父さんすごい』って言ってもらいたいのよ。でも、純子も大人になって、昔みたいに無邪気に甘えてくれなくなったでしょ。だから少し寂しくて、会社で佐藤さんに優しいお父さんをやらせてもらってるのよ」

「……」

「外でペコペコ頭を下げて、疲れて帰ってくるんだもの。少しぐらい、可愛い女の子におだてられて、いい気分にさせてあげなさいな」


 春子の言葉に、純子は手元の皿を見つめたまま黙り込んだ。

 腹が立つし、呆れるし、やっぱり「おじさん臭くてキモい」と思う。

 でも、同時に、見栄っ張りで不器用な父親の背中が、たまらなく小さく、哀れで、そして少しだけ「可愛い」とも思えてしまう。


「……バカみたい。本当、単純」

 純子は小さく毒づきながら、洗い終わったお皿を乱暴に水切りカゴに置いた。

「そうね。男の人って、本当に単純で困っちゃうわね」

 春子が純子の肩をポンと叩く。


 風呂場からは、正一の調子外れな演歌の鼻歌が聞こえてきた。

 昭和四十四年。

 神田家の夜は、不器用な男の哀愁を、女たちのしなやかな強さがすっぽりと包み込んで更けていく。

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