第5話 猛烈社員の憂鬱
神田正一にとって、玄関の引き戸は二つの世界を隔てる関所のようなものだった。
一歩家の外に出れば、そこは弱肉強食の戦場である。
昭和四十四年、秋。高度経済成長期の熱気に浮かされる東京の街は、どこもかしこも建設ラッシュの槌音が響き、車の排気ガスと人々の熱気でむせ返るようだった。
「痛っ、押さないでくれ!」
「奥へ詰めてください!」
午前八時。
通勤ラッシュの山手線は、文字通りの地獄である。
ポマードとタバコ、そして湿った背広の匂いが入り混じる車内で、正一は周囲の男たちに押し潰されそうになりながら、つり革に必死にしがみついていた。
家では「どけ、家長が通る」とふんぞり返っている正一も、この満員電車の中では無力な中年の小男に過ぎない。
揺れるたびに若いサラリーマンの肘が脇腹に食い込むが、文句を言う気力すらなかった。
正一が勤めているのは、中堅の専門商社である。
役職は営業部長。
響きこそ立派だが、上からは理不尽なノルマを押し付けられ、下からは突き上げを食らう、典型的な中間管理職であった。
「おはようございます」
スチール製の灰色のデスクが並ぶフロアに足を踏み入れると、正一はいつもの「外用の顔」を作った。
家での尊大な態度は影を潜め、口角を少しだけ上げ、誰に対しても愛想の良い、物腰の柔らかい「神田部長」の仮面を被るのだ。
「あ、部長。おはようございます」
デスクでコーヒーを飲んでいた若手社員の鈴木が、座ったまま軽く片手を上げた。
鈴木は今年入社したばかりの二十四歳。
いわゆる「団塊の世代」だ。
ビートルズの影響か、襟足が少し長いマッシュルームカット気味の髪型をし、会社規定ギリギリの細身のスーツを着こなしている。
「鈴木くん。昨日の午後に頼んでおいた、大洋精機さんの見積書の件だが」
「ああ、あれですか。まだやってませんよ」
鈴木は悪びれもせず、あっさりと答えた。
「まだって……今日のお昼が期限だろう」
「だって昨日、定時の五時になっちゃいましたから。残業なんて非効率的なこと、したくないんですよね。今日の午前中にはサクッと終わらせますから、心配しないでくださいよ」
あっけらかんと言い放つ鈴木に、正一は眉間をピクつかせた。
「あのなあ、鈴木くん。仕事というのは時間で区切るもんじゃない。お客様の要望に応えるために、時には身粉にして働くのが我々営業の……」
「出たよ、部長の『俺たちの若い頃は』ってやつ」
鈴木が大げさに肩をすくめる。
「僕らは焼け跡から立ち上がった世代じゃないんです。これからの日本は、精神論じゃなくて合理性で勝負しなきゃダメですよ。だいたい、長時間働いたからって売り上げが伸びるわけじゃ……」
「き、君というやつは!」
正一は声を荒らげそうになったが、ハッとして周囲を見回した。
最近の会社は「新しい風」をやたらと重んじる傾向にある。
若手を頭ごなしに怒鳴りつけるような上司は「時代遅れ」の烙印を押されかねない。
正一はグッと奥歯を噛み締め、無理やり愛想笑いを浮かべた。
「ま、まあいい。午前中には必ず頼むぞ」
「はいはーい」
鈴木は調子良く返事をすると、再びコーヒーカップに口をつけた。
正一は自分のデスクにどさりと座り込み、深く、重い長ため息をついた。
(どいつもこいつも、会社の給料をなんだと思ってるんだ。俺が若い頃は、這ってでも得意先に顔を出したものだ……)
心の中で毒づくが、口には出せない。
正一は引き出しから胃薬を取り出し、水なしで飲み込んだ。
「部長、お茶をお持ちしました」
ふわりと甘い香りがして、女子社員の佐藤が赤いお盆を差し出した。
入社二ヶ月の二十歳。
純子よりも年下の彼女が、丁寧な手つきで湯呑みを置く。
「おお、佐藤くん。ありがとう」
正一は湯呑みを手に取り、一口すすった。
驚いたことに、そのお茶は熱すぎずぬるすぎず、正一の猫舌にぴったりの温度だった。
「ほう。今日のお茶は格別だな」
「ありがとうございます。部長は少し猫舌でいらっしゃると伺いましたので、少しだけ湯冷ましを使ってみたんです」
佐藤が愛くるしい笑顔を向ける。
「おお、そうか! 気が利くねぇ。いやあ、佐藤くんが淹れてくれるお茶を飲むと、仕事の疲れも吹き飛ぶよ」
正一の機嫌が、途端に現金なほど急上昇した。
彼は知らない。
実は昨日、佐藤は会社の電話で神田の自宅へ事務連絡を入れた際、電話口に出た春子と十分近く世間話で盛り上がっていたことを。
『うちの人、ひどい猫舌でね。熱いお茶を出すと不機嫌になるから、五分だけ待ってから出すのよ』
『まあ、そうなんですか。奥様、勉強になります!』
春子直伝の「神田正一・操縦マニュアル」は、すでに会社のお茶汲みネットワークにまで深く浸透していたのである。
そんなこととは露知らず、正一は「やはり俺の人徳だな」と一人悦に入っていた。
午後三時。
正一のデスクの黒電話が、けたたましく鳴り響いた。
「はい、営業部神田です。……あっ、専務! お疲れ様でございます!」
電話の主がわかった瞬間、正一は椅子から飛び上がり、受話器を両手で包み込むようにして直立不動の姿勢をとった。
『神田くん。今月の関西方面の売り上げ、どうなっとるんだ』
「は、はい。現在、鋭意営業をかけておりまして、来週にはなんとか数字を……」
『来週じゃ遅いんだよ! 他社にシェアを奪われてからじゃ遅いだろうが。君のところの若い連中は、定時で帰ってるそうじゃないか』
「申し訳ございません! 私の指導不足で……」
『言い訳はいい。今月末までに、あと二千万積め。できなきゃ、君の首が飛ぶと思え。いいな!』
「は、はいっ! 必ずや!」
ガチャリ、と無情に電話が切れる。
正一は受話器を握りしめたまま、ツーツーという無機質な発信音をしばらく聞いていた。
額には脂汗が滲んでいる。
受話器をそっと置き、正一はハンカチで顔を拭った。
(二千万……。どうやって……)
窓の外を見ると、建設途中の高層ビルのクレーンが、夕陽を浴びて赤く染まっていた。
日本の経済は右肩上がりだというが、正一の心はすり減っていくばかりだった。
鈴木のような新しい価値観を持つ若手と、戦争を生き抜いてきた猛烈な上層部。
その狭間で板挟みになり、ペコペコと頭を下げる毎日。
これが、俺の人生なのか。
正一の背中が、また少しだけ丸くなった。
夜八時。
新橋の高架下。
電車の轟音が響く赤提灯の居酒屋で、正一は一人、コップ酒をあおっていた。
目の前では、煙をもうもうと上げながらもつ焼きが焼かれている。
醤油の焦げる匂いと、大勢のサラリーマンたちの喧騒。
これが、正一にとって唯一の「鎧を下ろせる」時間だった。
「大将、熱燗もう一本」
「あいよっ」
熱い酒を喉に流し込むと、胃の腑がカッと熱くなる。
正一はポケットからピースを取り出し、マッチで火をつけた。
紫色の煙を深く吸い込み、ゆっくりと天井へ吐き出す。
今日一日、何回頭を下げただろうか。
鈴木に鼻で笑われ、専務に怒鳴られ、取引先で靴の裏がすり減るほど愛想笑いをした。
俺は、ただのしがない歯車だ。
コップの中の透明な液体を見つめながら、正一は自嘲気味に笑った。
しかし、酒を飲み干し、勘定を済ませて店を出る頃には、正一の足取りは不思議と力強くなっていた。
ネクタイを締め直し、肩で風を切って歩き出す。
向かう先は、自分の「城」だ。
「おい、帰ったぞ!」
ガラガラッ。
神田家の引き戸を乱暴に開けた瞬間、正一は「外用の顔」をかなぐり捨て、再び威風堂々たる「将軍様」へと変貌を遂げた。
「おかえりなさい、お父さん」
エプロン姿の春子が、三つ指をつくような丁寧な仕草で出迎える。
「風呂だ。すぐ入れるか」
「ええ、ちょうどいい湯加減にしてありますよ」
正一は背広を無造作に春子に押し付け、どかどかと居間へ上がり込んだ。
ちゃぶ台の向こうでは、純子がテレビを見ながら爪にマニキュアを塗っている。
縁側では、キヨが夜風に当たりながらお茶を飲んでいた。
「まったく。今日も会社の若いのが使えなくてな。あいつらには根性というものがない」
正一は胡座をかき、大声で愚痴をこぼし始めた。
「俺たちが焼け野原からこの国を立て直したってのに、定時で帰るだの非効率だの、ふざけたことばかりぬかしおる。専務も俺に頼りっきりで、まったく俺がいなきゃ会社は一日も回らんよ」
正一の虚勢に満ちたホラ話が、居間に響き渡る。
「本当にそうねえ。お父さんが毎日身を粉にして働いてくれるから、私たちも安心して暮らせるのよ。お疲れ様」
春子が、冷たく冷やしたビールと、正一の好物の冷奴をちゃぶ台に並べた。
「まったくだ。お前たち、もっと感謝して生きろ」
「おばあちゃん、お父さんまた威張ってるよ」
純子が小声で呟くと、キヨは音を立てずにお茶をすすり、パチンと片目をつぶった。
春子も、純子の背中をポンポンと叩いて微笑む。
「いいのよ。お父さんは、この家の大黒柱なんだからね」
「ふん。わかればいいんだ」
正一は冷たいビールを一気に喉に流し込んだ。
胃の奥のチクチクした痛みが、少しだけ和らいだ気がした。
会社ではペコペコと頭を下げ、理不尽に耐え忍ぶ毎日。
それでも、家に帰れば「俺が一番偉い」と思わせてくれる場所がある。
温かい飯があり、文句を言いながらも言うことを聞いてくれる(ように見える)家族がいる。
この城がある限り、俺は明日もまた、満員電車に乗って戦いに行ける。
「おい、春子! 醤油が足りんぞ!」
「はいはい、今お持ちしますよ」
昭和四十四年。
猛烈社員の哀愁は、今日もちゃぶ台の上の温かい笑いに包み込まれ、静かに溶けていった。




