第4話 マルシンハンバーグと健康診断
「血圧が百六十だぁ? ヤブ医者め」
正一は背広を脱ぎ捨てながら、薄っぺらい結果用紙をちゃぶ台に放り投げた。
昭和四十四年、秋も深まりかけた夜。
開け放した窓から、冷たい風が入り込んでくる。
「お帰りなさい。どうだったの?」
春子が割烹着姿で、おしぼりと冷たいお茶を差し出した。
「上が百六十、下が九十五だ。医者の野郎、塩分を控えろだの、酒を減らせだの、偉そうに説教しやがって」
正一はドカッと胡座をかき、出されたお茶を一気に飲み干した。
「ちょっと、見せてみせて」
横で女性週刊誌をめくっていた純子が身を乗り出し、ちゃぶ台の上に広げられた用紙を覗き込む。
「わっ。お父さん、百六十ってヤバいじゃない」
「ヤバいとはなんだ。言葉遣いに気をつけろ」
「だって、会社の部長もこないだ脳卒中で倒れたんでしょ? これ、完全に塩分取りすぎなのよ」
「お母さん、ちょっとこれ見てよ」
純子が用紙を高く掲げる。
「血圧だけじゃないわ、コレステロールも『要指導』に丸がついてる」
台所から春子が布巾で手を拭きながら、小走りでやってきた。
用紙を覗き込んで、小さく眉をひそめる。
「あら本当。お父さん、最近ちょっとお腹が前に出てきたと思ってたのよね」
「うっさい。俺たちはな、外で汗水垂らして戦ってるんだ。塩舐めねえと力が出ねえんだよ」
正一は不機嫌にそっぽを向き、座布団の上でふんぞり返った。
「でもねえ、お父さんに倒れられちゃ困るわ。介護なんて冗談じゃないもの」
「そうよ。仕事漬けで運動もしないのに、ご飯はしょっぱいものばっかりなんだから」
春子と純子は正一の機嫌などお構いなしに、遠慮のない言葉を交わす。
「おい、俺を今から病人扱いするな!」
正一が顔を赤くして怒鳴った。
「おばあちゃん、お父さんに何か言ってやってよ。このままだと本当に倒れちゃうよ」
純子が、縁側でのんびりとお茶をすすっているキヨに助けを求めた。
キヨはゆっくりと振り返り、湯呑みを置く。
「正一。お前、昔から意地っ張りだからねぇ。自分が老いてきたなんて認めたくないんだろうけど、数字は嘘をつかないよ」
「おふくろまで! 俺は倒れん。明日から毎日、肉を食う。精をつければ血圧なんか下がる!」
めちゃくちゃな理屈を振りかざし、正一はドタドタと風呂場へ向かった。
風呂の扉が、ピシャリと大きな音を立てて閉まる。
「……精をつけるって言ったってねえ」
純子が呆れたように肩をすくめた。
「塩分たっぷりの焼き肉なんか毎日食べたら、それこそ一発でポックリね」
春子が用紙を丁寧に折りたたみながら、ため息をつく。
「いいじゃないか、春子さん。あの子の言う通りにしてやれば」
キヨが縁側からニヤリと笑いかけた。
「え? おばあちゃん、何言ってるの? 殺す気?」
純子が目を丸くする。
「いいのよ、純子。おばあちゃんとお母さんに任せておきなさい」
春子も口元を隠してクスッと笑う。
純子だけが、わけがわからないという顔で首を傾げていた。
翌日の夕食。
正一が機嫌良く帰宅すると、居間には油の跳ねる音と、香ばしい匂いが充満していた。
「おお、いい匂いじゃないか」
ちゃぶ台の上には、大きなお皿が鎮座している。
「今日はご希望通り、お肉よ」
春子が布巾で鍋敷きを置くと、湯気とともに巨大なハンバーグが姿を現した。
照り焼きのような濃い色のソースがたっぷりとかかり、付け合わせにはキャベツの千切りと、真っ赤なケチャップスパゲティが添えられている。
「やった、ハンバーグだ!」
純子が子供のように目を輝かせた。
当時、テレビCMで大流行していた「マルシンハンバーグ」の影響もあり、ハンバーグは大人にも子供にも大人気のハイカラなご馳走だった。
「ふん。まあ、たまにはこういう洋食も悪くない」
正一はことさら鷹揚にうなずき、箸でハンバーグを真っ二つに割った。
中からジュワッと肉汁らしきものが溢れ出し、ソースと混ざって食欲をそそる匂いが立ち上る。
「いただきます」
正一は大きな塊を口に放り込んだ。
モグモグと咀嚼する。
「……うまい」
「本当? よかった」
「柔らかくて、味がしっかり染みてる。ソースが濃くて飯が進むな」
正一はモリモリと白米をかき込んだ。
「本当、すっごく柔らかいね。マルシンハンバーグよりフワフワかも」
純子も嬉しそうに頬張っている。
「お父さん、疲れてるから精をつけてもらわなきゃね」
春子はニコニコと笑いながら、正一のお茶碗に二杯目の山盛りのご飯をよそった。
食後。
正一がテレビのプロレス中継に夢中になっている隙に、春子は台所で洗い物をしていた。
縁側から、キヨが音もなく近づいてくる。
「春子さん。今夜も見事な手品だったねぇ」
「お義母さん、しーっ」
春子が慌てて人差し指を口に当てる。
「あんなに大きなハンバーグ、半分はおからと水切り豆腐だろ?」
キヨが声をひそめて笑う。
「ええ。それに、細かく刻んだこんにゃくと、ひじきを混ぜてあります」
「だからあんなに柔らかかったんだね。純子まで完全に騙されてたよ」
「お肉はほんの少しだけ。つなぎに卵を使って、ごま油で風味をつけました。ひじきが黒いから、お肉っぽく見えるんです」
「ソースの濃い味は?」
「お醤油はほんの少し。お酢と片栗粉でとろみをつけて、焦がしネギの香りで誤魔化してるんです。塩分はいつもの半分以下ですよ」
「大したもんだ。あの子、『濃くてうまい』って大喜びで食べてたよ」
キヨがしわくちゃの顔をほころばせる。
「『塩分を控えろ』なんて口で言ったら、意地になってお醤油をドバドバかけますからね」
「そうさ。男ってのは、理屈じゃ動かない。胃袋を勘違いさせるのが一番だよ」
嫁と姑の秘密の会話は、水道の水の音にかき消されて、居間で歓声を上げる正一にはまったく届かなかった。
それから一週間。
神田家の食卓には、「豚の角煮風(厚揚げとこんにゃくの煮物)」
「ビフテキ(細かく叩いた安い肉に麩を混ぜたもの)」など、見た目と匂いだけは豪勢な「カサ増し・減塩メニュー」が連日並んだ。
正一はすっかり気を良くしていた。
「おい、純子。見ろ」
ある朝、正一が洗面所で得意げに腹を叩いた。
「なによ、朝から」
マスカラを塗っていた純子が、横目で見る。
「ズボンのベルトが、一穴縮んだんだ。最近毎日肉を食ってるのに、逆に体が軽い。俺の基礎体力がすげえってことだ」
「へえ。変なの。まあ、倒れられるよりはいいけど」
純子は興味なさそうに鏡に向かった。
「お父さん、今日も一日頑張ってね」
春子が玄関で、綺麗に磨かれた革靴を揃える。
「おう。俺が健康なうちは、この家は安泰だ」
正一は胸を張り、意気揚々と出勤していった。
その後ろ姿を見送りながら、春子はふわりと微笑んだ。
「行ってらっしゃい。……よし」
春子は小さくガッツポーズをして、台所へ戻る。
「おや、春子さん。今日の夕飯はなんだい?」
縁側のキヨが、楽しそうに尋ねた。
「今日はね、お父さんの大好きなトンカツにします。お麩を重ねて揚げるから、サクサクですよ」
「そりゃ楽しみだ。正一のやつ、また騙されてビールが進んじゃうねぇ」
木造平屋の神田家は、今日も女性陣の知恵と愛情で、見事に回っていた。




