第3話 チャンネル権と嫁姑の結託
昭和四十四年の秋。世間は空前の好景気に沸いていた。
人々の憧れは「三種の神器」から「新三種の神器」、すなわちカラーテレビ、クーラー、カー(自家用車)の「3C」へと移り変わっている。
午後三時。
三輪トラックのけたたましいエンジン音が、神田家の門前で止まった。
「神田さーん、毎度。お持ちしましたよ!」
威勢のいい声とともに、ナショナル電器の作業着を着た若い男が、荷台から巨大な段ボール箱を下ろしている。
ついに神田家に、念願のカラーテレビがやってきたのだ。
「おお、ご苦労」
休日の正一は、ステテコに腹巻きというくつろいだ格好のまま、腕を組んで縁側に立っていた。
まるで城の主が、献上品を受け取るような尊大な態度である。
「あらあら、ついに来たのね」
割烹着姿の春子が小走りで出てきた。
背後では、母のキヨも縁側に座り、興味深そうに目を細めている。
向かいの生垣越しには、お隣のタエがほうきを手にしたまま覗き込んでいた。
「神田さん、とうとうカラーにしたのねぇ。立派な箱だこと」
「ええ。うちの人が、どうしてもって言うものだから」
春子は控えめに口元を隠すが、正一は鼻の穴を膨らませてタエに向かって声を張った。
「タエさん、白黒の時代なんざ、もうとっくに終わってますからな。一家の主として、最先端を取り入れないわけにはいきませんよ」
実は町内の寄り合いで、自分以外が全員カラーテレビを持っていると知って見栄を張り、冬のボーナスを前借りして無理をしたのだが、もちろん近所には内緒だ。
「ブラウン管が重いんで、気をつけて運びますね」
電気屋の若者が、よいしょと声を上げて段ボールを担ぐ。
木目調の立派なキャビネットに収まった最新型だ。
高級家具のように、両開きの木の扉までついている。
「おい、壁にぶつけるなよ。傷がついたら承知せんぞ」
正一の小言を春子が「ごめんなさいね」と柔らかくフォローしながら、居間の中心へ誘導する。
ちゃぶ台の奥、今まで白黒テレビが鎮座していた場所に、巨大なカラーテレビがどっしりと置かれた。
夕方六時。
「ただいまー! あ、テレビ来てる!」
仕事から帰ってきた純子が、玄関から飛び込んできた。
「すごい、立派ね。早くつけようよ」
「バカモノ。まだ飯の時間じゃない」
純子の背広を春子が受け取りながら、苦笑いする。
今日の夕食は、テレビの到着を祝してすき焼きである。
重たい鉄鍋を乗せた七輪から、醤油と砂糖が焦げる甘辛い匂いが立ち上っている。
当時の牛肉はまだ高級品で、ネギや焼き豆腐が多めに場所を占めていたが、それでもご馳走だ。
「いいか、この家のチャンネル権は俺にある」
正一がちゃぶ台の上座に陣取り、厳かに宣言した。
右手にキリンの大瓶ビール、左手に栓抜き。
「えー、私『恋の季節』見たいのに」
純子が不満げに口を尖らせる。
「だめだ。巨人の優勝がかかってるんだ」
「ケチ」
純子がふてくされて箸を取る横で、正一はテレビの前に歩み寄り、重厚な木の扉を観音開きに開けた。
右下の丸い電源つまみを、カチッと引っ張る。
真空管が温まるまで、少し時間がかかる。
数秒の沈黙の後、ブラウン管の奥からボワッと光が浮かび上がった。
「わあ……」
思わず、純子と春子が感嘆の声を漏らした。
画面いっぱいに広がったのは、目も眩むような鮮やかな緑色の芝生だった。
後楽園球場。
巨人対大洋戦のナイター中継だ。
「どうだ、この芝の色! 白黒じゃ絶対わからん」
正一が自慢げに振り返る。
まるで自分が発明したかのような得意顔だ。
「本当ねえ。王選手のユニフォームの赤やオレンジが、すごく綺麗」
「そうだろう。これがカラーの力ってもんだ」
正一は満足げにうなずき、一番上のダイヤルをガチャガチャと回した。
さらに「色合い」と書かれた小さなつまみをいじって、微調整を行う。
そして、どっかと胡座をかいてビールをあおった。
「やれやれ、これじゃあ野球場にいるのと変わらないねぇ」
縁側の藤椅子から、キヨがのんびりと言った。
「だろう、おふくろ。王のフラミンゴ打法も、カラーで見ると迫力が違うんだ」
正一はすき焼きの鍋から、貴重な牛肉をひょいとつまみ上げて口に放り込んだ。
七時を回った。
試合は三回裏。
巨人が一点をリードしている。
正一は上機嫌で解説者の真似事をしながらビールを飲んでいたが、純子と春子、そしてキヨは少し退屈そうにしていた。
「……あーあ」
不意に、キヨが大きなため息をついた。
「どうした、おふくろ」
「いやね。今夜は確か、王将戦の決勝をやってるはずだと思ってねぇ」
キヨが湯呑みを置き、庭の暗闇に視線を向ける。
「将棋なんか、カラーで見たって白と黒じゃないか」
正一が呆れたように笑う。
「お義母さん、裏番組は将棋じゃなくて、歌謡番組ですよ」
すかさず、春子が合いの手を入れた。
純子がハッとして春子の顔を見る。
「おや、そうだったかね」
「ええ。ピンキーとキラーズが出るって、タエさんが」
春子は鍋の火加減を見ながら、ごく自然なトーンで返す。
「あの、黒い帽子をかぶった若い子たちだねぇ」
「そう。今すごく流行ってるのよ。ね、純子」
「え? あ、うん。会社の昼休みも、みんなその話ばっかり」
嫁と姑、そして娘の会話が、正一の頭上を飛び交う。
「おい、俺は野球を見てるんだ」
正一がむっとした顔で、テレビを指差す。
「わかってるわ」
春子は取り皿にネギを取り分けながら、にっこりと微笑んだ。
「お父さんは野球を見てて。私たちはちょっと話してるだけ」
「テレビの前でそんな話をするな」
「だって、歌謡番組は七時半からだから。あと五分ねって話してたのよ」
「だからなんだってんだ」
正一はビールをぐいっと飲み干した。
画面では、大洋のバッターが平凡な内野フライを打ち上げている。
試合は動きがなく、少し間延びしていた。
「春子さん」
キヨが、わざとらしく小さな声で呼んだ。
「なあに」
「私ゃ、どうもあのピンキーとかいう子の歌が気になってねぇ。忘れられないんだよ」
「『恋の季節』ね。忘れられないの〜、って」
「それさ。カラーテレビで若者が歌って踊るなんて、さぞ綺麗だろうねぇ」
キヨが遠い目をする。
「おばあちゃん、絶対綺麗だよ! 衣装がピカピカ光るんだから」
純子が身を乗り出す。
「でもね。この家の主はお父さんだからね。私たちは白黒の想像で我慢するさ」
「そうね。野球が一番大事だもの」
三人は示し合わせたように、しんみりとうつむいてお茶をすする。
純子までが、少し大げさに肩を落としてみせた。
居間に、気まずい沈黙が流れた。
実況アナウンサーの声だけが、やけに響く。
「……おい」
正一が、重い腰を上げた。
「え?」
「どうしたの」
正一は無言のままテレビに歩み寄り、右側のチャンネルダイヤルに手を伸ばした。
「俺は、ちょっと便所だ。その間だけ、好きにしろ」
ガチャ、ガチャ、ガチャ。
重たいダイヤルが回り、画面が切り替わる。
パッと花が咲いたように、鮮やかなピンクとブルーの照明に包まれたステージが映し出された。
お揃いの黒い山高帽をかぶったピンキーとキラーズが、ステップを踏んで歌い始めている。
「わあ!」
「お父さん、ありがとう!」
純子が歓声を上げ、春子が笑顔で拍手する。
「すぐ戻るからな。勝手に回すなよ」
正一はそっぽを向いたまま、ドタドタと廊下へ出ていった。
便所の扉が閉まる音がした。
居間に残された女三人は、顔を見合わせてクスッと笑った。
「上手くいったねぇ」
「お義母さんのおかげよ。本当におだてに弱くて」
「お父さん、ホント単純」
キヨが満足そうに、鍋の豆腐を小鉢に取った。
テレビからは、パンチの効いた歌声が、最新のカラー映像に乗って流れている。
しばらくして、正一が戻ってきた。
「おい、まだやってるのか」
「ええ、すごく綺麗ね。お父さん、ありがとう」
春子が顔をほころばせ、正一のお椀にすき焼きの牛肉を多めに取り分けた。
「ふん。まあ、たまにはこういうのも悪くない」
正一はちゃぶ台の前に座り直し、新しいビールの栓を開けた。
本当は、正一もカラーテレビで華やかな歌謡番組を見たかったのだ。
しかし、「野球を見るのが男」というつまらないプライドが邪魔をして、自分からは言い出せなかっただけである。
ブラウン管の派手な照明に照らされて、正一の顔も少し楽しげに緩んでいる。
牛肉を頬張りながら、正一の足の爪先が、微かに歌のテンポに合わせてリズムを刻んでいた。
その様子を、春子とキヨ、そして純子は温かく見守っていた。
昭和四十四年。
神田家のチャンネル権は、見えない手綱によって、今日も女たちにしっかり握られていた。




