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第2話 俺がゴミを出してやる

 朝六時。

 トトトトト、と小気味よい包丁の音が、薄暗い廊下に響いていた。


 昭和四十四年、秋の気配が深まる朝。

 神田正一は寝巻きの浴衣をはだけさせたまま、洗面所に向かった。

「うがい、手洗い。……ペッ」

 青いタイルの洗面台で、冷たい水を顔にバシャバシャと浴びせる。

「ちょっとお父さん、水しぶき飛ばさないでよ」


 隣で鏡を覗き込んでいた娘の純子(二十三)が、あからさまに顔をしかめた。

 洗面台の端に陣取り、熱心にマスカラを塗っている。

「なんだお前、まだやってたのか」

「朝は忙しいの。順番」

「どけ。家長が先だ」

「はいはい」


 純子はわざとらしくため息をつき、鏡の前を少しだけ譲る。

 正一は五十代半ばの少し疲れた顔を鏡に映し、T字のカミソリに石鹸の泡をつけてジョリジョリと顎を撫でた。


「おい、飯はまだか」

 顔の右半分に泡をつけたまま、台所へ怒鳴る。

「もうすぐ。今、卵焼き」

「純子、パン焼けたわよ」


 春子の声に応えるように、純子が「はーい」と立ち上がる。

 台所には、醤油と焦げた卵の香ばしい匂いと、少し焦げた食パンの匂いが混じっていた。

 居間へ戻ると、すでに母のキヨが座布団の上にちょこんと座り、両手で湯呑みを抱え込んでいた。


「おや、今朝も男前だねぇ」

「よせやい。……新聞は」

 照れ隠しに、正一はぶっきらぼうに手を差し出す。

「はい、朝刊」

 エプロン姿の春子が、折り目正しく畳まれた新聞を渡した。

 正一はちゃぶ台の前に胡座をかき、バサリと新聞を広げる。

 一面にはアポロ計画の続報と、学生運動の小さな記事が踊っていた。

 向かい側では、純子がブラウスにタイトスカートというOLの制服姿で、コーヒーをすすっている。


「お前、そんな笹の葉みたいなもんで力が出るか」

「朝からご飯なんて重いからいいの」

 純子はトーストをかじり、腕時計に目をやった。

「あ、もうこんな時間。ごちそうさま。行ってきます!」

 嵐のように立ち上がり、純子はハイヒールの音を響かせて玄関を出ていった。

「世の中、落ち着かんことばかりだ」


 正一がため息をついたとき、勝手口のほうから「ガラガラ」と重たい音がした。

 春子が青いポリバケツを引きずり出そうとしている音だ。

「おい、何してる」

「今日、生ゴミの日なのよ。ちょっと重くて……」

 春子が額の汗を拭う真似をする。

 正一は新聞をパタンと閉じ、大げさに立ち上がった。

「どけ。お前じゃ日が暮れちまう」

「ごめんなさいね、助かるわ」


 春子はすっと身を引き、バケツの取っ手を正一に譲った。

 ずしり、と重い。

 生ゴミに新聞紙が被せられたポリバケツは、底に水気が溜まっていて持ちにくい。

「ふんっ。こんなもん、俺に任せとけ」

 正一は肩で風を切るようにして、青いポリバケツを両手で持ち上げた。

 どたどたと下駄を鳴らし、勝手口から外へ出ていく。


 朝の三丁目は、活気に満ちている。

 舗装されたばかりのアスファルトの道を、牛乳配達の自転車がチリンチリンと音を立てて走り抜けていく。

 角の豆腐屋からは、プープーというラッパの音が聞こえる。


「あら、神田の旦那さん。おはようございます」

 ゴミの集積所で、竹箒を持ったタエが声をかけてきた。

 隣に住む五十代の主婦だ。

 パーマを当てた頭に、花柄の割烹着を着ている。

「おお、タエさん。朝から精が出ますな」

 正一の声は、家の中よりワントーン高く、そして驚くほど愛想がよかった。

「旦那さんこそ。毎朝ゴミ出しなんて感心ねぇ。うちは新聞読んでるだけですよ」

「いやいや、うちのは手際が悪くてね。こういうのは男がやらないと」

 正一はポリバケツをドンと置き、腰に手を当てて笑った。

「春子さんが羨ましいわぁ。本当に優しい旦那さんで」

「よしてください。家長として当然の務めですよ。ハッハッハ」

 正一は鼻高々と胸を張り、空になったポリバケツを抱えて家路についた。

 その背中を見送りながら、タエは箒を持つ手を止め、クスッと笑いを漏らした。

(相変わらず、わかりやすい人だこと)

 タエは知っている。

 正一が外ではペコペコと愛想を振りまき、近所の評判をひどく気にする「内弁慶」であることを。

 そして、その裏で春子がどれだけ彼を上手く操縦しているかを。


 一方、神田家の台所。

 正一が外でご機嫌に喋っている頃、キヨと春子は朝食の配膳を終え、二人でお茶をすすっていた。

「今朝も、コロッと持っていったねぇ」

 キヨがシワだらけの顔をほころばせる。

「お義母さん、人聞きの悪い。本当に重かったから……」

 春子が口元を袖で隠す。

 その目は、明らかに笑っていた。

「あれはね、三十年前から私の仕込みさ」

 キヨは遠くを見るような目をした。

「正一がまだ平社員だった頃だよ。仕事で怒られてばかりで、家で八つ当たりして威張ってたんだ。だから、わざと重い米俵を運ばせたのさ」

「男手がいないと回らないよ、っておだてたんですよね」

「そうさ。あの子、鼻の穴を膨らませてね。それから力仕事は全部自分がやるって」

 キヨはカラカラと笑った。

「男はね、頼りにしてるって思わせるのが一番の特効薬さ。外で自信をなくしてる男にはね」

「勉強になります」

 春子が深々と頭を下げる。

 嫁と姑。

 血の繋がりはないけれど、二人の間には「不器用な男を支える」という強固な同盟が結ばれていた。


「おい、帰ったぞ」

 玄関から、正一の大きな声が響いた。

 ドタドタと足音を立てて居間に入ってくると、ドスンと胡座をかく。

「いやぁ、タエさんに捕まってな。春子さんは幸せね、なんて言うから困っちまったよ」

「まあ。またお世辞を真に受けて」

 春子は呆れたように笑いながら、熱いお茶を差し出した。

「お世辞じゃないさ。実際、俺がいなきゃゴミ一つ片付かんのだからな。もっと感謝しろ」

「ええ、本当に助かってるわ」

「まったくだ。頼りになるねぇ」

 春子とキヨが、示し合わせたように深くうなずく。

 正一は満足げに鼻を鳴らし、ズズッとお茶をすする。

「よし、飯だ。今日は卵焼きか」

 機嫌を直した正一が、箸を割る。

 その向こうで、春子とキヨが一瞬だけ、パチンと目配せをした。


 昭和四十四年の朝。

 木造平屋の神田家は、今日も女たちの見事な手綱さばきによって、平和に一日が始まっていく。

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