第1話 ぬるい味噌汁とちゃぶ台
木造平屋の軒先で、風鈴がちりんと鳴った。
昭和四十四年、九月。
夕暮れの風にはまだ少しだけ夏の熱気が残っている。
開け放たれた縁側から、蚊取り線香の煙が細くたなびき、庭の植え込みで鳴き始めた鈴虫の音に混じっていた。
「おい、帰ったぞ」
玄関の引き戸がガラガラと重たい音を立てて開く。
神田正一は、土間に革靴を乱暴に脱ぎ捨てた。
くたびれた背広の肩を落とし、ネクタイの結び目を荒っぽく引き下げる。
五十五歳。
白髪交じりの頭を無造作に掻きながら、どかどかと廊下に上がり込んだ。
「おかえりなさい、お父さん」
割烹着姿の妻、春子が小走りで出迎えた。
正一から無言で差し出された革鞄と上着を、慣れた手つきで受け取る。
「風呂だ。すぐ入れるか」
「ええ、沸いてるわよ。着替えを出しておくわね」
春子はふわりと微笑んだ。
正一は短く鼻を鳴らし、ドスドスと足音を立てて居間へ向かう。
「まったく、今日も鈴木のやつが……あいつら若いもんは、何考えてんだか」
ブツブツと独り言をこぼしながら、正一は胡座をかいた。
居間の中心には、丸いちゃぶ台が鎮座している。
その奥、白黒テレビのブラウン管の中では、巨人の王貞治がバットを構えていた。
扇風機が首を振りながら、生温い風を運んでくる。
「正一や。今日も一日、ご苦労だったねぇ」
縁側に置かれた藤椅子から、しわがれた声がした。
正一の母、キヨである。
御年八十。
湯飲みの縁に両手を添え、庭の夕闇を眺めたまま、ゆっくりと振り返った。
「ああ、おふくろ。……腰の具合はどうだ」
正一の尖った声が、少しだけ丸くなる。
「ぼちぼちさ。お前が毎日こうして帰ってきてくれるから、安心していられるんだよ」
「当たり前だ。俺がこの家の主だからな」
正一はふんぞり返り、扇風機の風を胸元へ送った。
キヨは目を細め、音もなく小さく笑った。
「お父さん、冷えないうちにどうぞ」
湯上がり。
湿った手ぬぐいを首にかけた正一の前に、夕飯が並べられた。
塩鮭の焼き物に、ほうれん草のおひたし。
そして、豆腐とわかめの味噌汁。
春子がちゃぶ台の端に正座し、キリンの大瓶ビールの王冠を、シュポッと栓抜きで開ける。
グラスに注がれる琥珀色の液体が、シュワシュワと白い泡を立てた。
「おう」
正一はグラスをひったくるように持ち上げ、一気に煽る。
喉仏が大きく上下した。
「……ぷはぁっ。冷えてるな」
「氷柱でしっかり冷やしておいたから」
春子が控えめにうなずく。
正一は満足そうに口元を拭い、箸を取った。
塩鮭をつつこうとした手が、ふと止まる。
「おい、純子はどうした?まだ帰らんのか」
「今日は会社の同僚の人と、映画を観てくるそうよ」
「映画だと? 女だてらに、フラフラと夜遅くまで」
正一の眉間に深いシワが寄る。
「今夜は加山雄三の新作だそうだから」
「若大将だろうが何だろうが、門限は十時だぞ。俺の目の黒いうちは……」
「そうね。お父さんの言う通りだわ」
春子は少しも逆らわず、静かに相槌を打つ。
正一は勢いを削がれたように口を噤み、味噌汁のお椀を持ち上げた。
ズズッ。
一口すする。
途端に、正一の顔がしかめっ面になった。ダンッ、と乱暴にお椀をちゃぶ台に置く。
「おい、春子!」
「はい。どうしたの?」
「なんだこの味噌汁は。ぬるいじゃないか!」
テレビの実況中継が、急に遠のいた気がした。
正一は目を吊り上げ、春子を睨みつける。
「味噌汁ってのはな、火傷するくらい熱々をフーフー言いながら飲むのが美味いんだろうが!」
「ごめんなさい。よそってから、少し時間が経っちゃったみたいで……」
「たるんどる。俺が外でどれだけ汗水流して働いてると思ってるんだ。せめて温かい飯くらい、まともに出せんのか」
「ええ。気をつけるわね」
春子は軽く頭を下げた。
その表情に、反発の色は微塵もない。
「まったく……。これだから女は」
正一は毒づきながら、再びお椀を持ち上げた。
文句を言った手前、不機嫌そうな顔は崩さない。けれど、その椀を傾けるペースは早かった。
(……味はいいんだ、味は)
心の中でひっそりと呟く。
カツオの出汁がしっかりと効いていて、豆腐は崩れていない。
塩加減も絶妙だ。
ただ、温度だけが気に入らない。
正一はわざと大きな音を立てて、ぬるい味噌汁を飲み干した。
「おい、飯のおかわりだ」
「はいはい、ちょっと待ってね」
春子がお櫃からご飯をよそう間、正一はテレビのチャンネルのダイヤルを、ガチャガチャと回した。
「どいつもこいつも、俺がいなきゃ何もできんのだからな」
王貞治が空振り三振をした画面を見つめながら、正一は誰に言うともなく吐き捨てた。
「春子さん」
夜九時。
正一が寝室へ引き揚げた後、居間にはキヨと春子だけが残っていた。
洗い物を終えた春子が縁側へ出ると、キヨが手招きをした。
「はい、お義母さん。あたたかいお茶を淹れたわよ」
「いつもすまないねぇ」
キヨは両手で湯呑みを包み込むように持ち、ふう、と息をついた。
庭の暗闇に、鈴虫の涼しい鳴き声が響いている。
「さっきは、あの子が大きな声を出して悪かったね」
「ううん、いつものことだから」
春子は縁側の端に腰を下ろし、夜風に当たった。
「味噌汁、今日もちょうどよかっただろ?」
キヨの言葉に、春子は小さく吹き出した。
口元を隠し、声を出さずに笑う。
「ええ。お椀によそってから、五分だけ待って出したのよ」
「そうだろう、そうだろう」
キヨは目を細め、しわくちゃの顔にいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「あの子はね、昔からひどい猫舌なんだよ。熱々の味噌汁なんて出したら、舌を火傷して半ベソかくに決まってる」
「そうね。結婚したばかりの頃、知らずに出しちゃって……お父さん、三日くらい味がわからないって不機嫌だったもの」
春子も懐かしそうに目を伏せた。
「自分から『冷ましてくれ』なんて、口が裂けても言えないプライドの塊さ。だから、あんたがちょうどよく冷ましてやってるのに……『ぬるい』と文句を言うことで、自分が偉いと確認してるんだよ」
「お父さんも、外ではきっと大変なのよ。会社では頭を下げてばかりだって、こないだ鈴木さんから電話で聞いたし」
春子はそっと、自分の湯呑みに口をつけた。
ぬるめのお茶が、ゆっくりと喉の奥へ落ちていく。
「男ってのは、本当に面倒な生き物だねぇ」
キヨが空の湯呑みをちゃぶ台に置いた。
「でもね、春子さん」
「なあに?」
「ああやって威張らせておけば、あの子は明日も必死に働いてくる。あんたは一枚も二枚も上手になって、あの子を手のひらで転がしてやりなさいな」
「転がすなんて、そんな……」
春子は困ったように首を振るが、その瞳には柔らかな光が宿っていた。
「今日もいいお点前だったよ、春子さん」
キヨがパチンと片目をつぶる。
春子は頬に手を当て、もう一度だけ、くすくすと笑った。
家の奥から、「おい、布団が敷いてないぞ!」と正一の怒鳴り声が聞こえた。
「はいはい、今行くわよ」
春子は立ち上がり、割烹着の皺を軽く伸ばした。
昭和四十四年の秋の夜。
神田家のちゃぶ台の上には、いつもと変わらない、温かな空気が漂っていた。




