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第3章 学校の猫姫

第3章 学校の猫姫


目を開けると、窓から光が差し込み、雨の匂いはすっかり消え、澄んだ夏の朝の清々しさが漂っていた。

俺は体を起こし、首をさすりながら、レナが自分のもののように占領しているベッドの方へ目をやった。

レナはもう起きていた。

ベッドにあぐらをかいて座り、腰にはまだ毛布を巻いたまま。髪は乱れ肩に垂れかかっている。まるで遊び相手のネズミを狙う猫のように、こちらをじっと見つめていた。俺が目を覚ましたのに気づくと、耳がぴくっと反射的に動く。

そして素早く跳び上がり、ベッドの端まで這ってきて、端からこちらを見下ろしながら、目を輝かせて興奮したような顔をしている。

「おはよう」

とまだ眠そうに声をかけた。

「…おはよう」

彼女は柔らかく返す。

「よく眠れた?」

彼女はじっとうなずいた。しばらく間を置いてから、ぽつりと口を開く。

「夢を見たにゃ……」

声は囁くように小さい。「それとも……昔の記憶かもしれない」

その言葉を聞いて、僕は少し目が覚めた。背筋を伸ばして座る。

「どんな夢?」

彼女は僕の方を向き、黄金色の瞳で僕の目を探るように見つめる。

「…見たの。自分の記憶の破片を。記憶や感情のかけらが、ガラスみたいに私の周りを漂っていて……それが引き裂かれるみたいに消えていった」

声が少し震える。「まるで、私がバラバラにされてるみたいだった。魂を引き裂かれるみたいに」

俺は彼女を見つめた。

ただの夢なんかじゃない、と心の中で思う。

「それ、本当にあったことだと思う?」

俺は訊いた。「ただの想像じゃなくて?」

「わからない……」

彼女は囁く。「でも、夢みたいな感じじゃなかった。まるで……現実に起きたことみたいで。忘れていた何かが、戻ってこようとしているような感覚だった」

しばらく黙って、何と言うべきか考えた。

そういえば、彼女がどこから来たのか、ちゃんと考えたことなかった。

ここにいるはずがないという当然の事実を無視して、僕はただ、可愛らしい猫の女の子と暮らしていることをあっさり受け入れてしまっていたのだ。

もしかしたら、俺はこの状況が決して普通ではないという現実から目を背けたかったのかもしれない。

「神社に戻ったほうがいいかもしれない」と、ようやく俺は言った。

「まだ何か残っているかもしれない。手がかりになるものが」

「今?」

彼女はためらった表情で尋ねた。「どうしたらいいのか自分でもよくわからないにゃ…」

気まずい話題を切り出してしまったように感じた。まだ神社に戻る準備はできていないのかもしれない。

「無理に戻る必要はないよ。ただ、君が誰なのか、もう少し知る手がかりになると思っただけ」と、俺は落ち着いた声で伝えた。

レナの尻尾がゆっくり床に垂れ、まるで落ち込んでいるかのようにだらんとしている。

「まだ心の準備ができていないなら、それでいいんだ」

そう言うと、彼女は少し元気を取り戻したようで、尻尾がわずかに動き出す。

「それに、大学は待ってくれないからな」

レナは瞬きをした。話題が変わったことで、興味が湧いたように視線がぱっと変わる。

「……大学って何にゃ?」

レナは好奇心いっぱいに尋ねた。

俺は固まった。

「大学を知らないのか?」

思わず言ってしまった。彼女が普通の人間の女の子ではないことを忘れていた。

レナはわざとらしく腕を組んだ。

「私が誰だか忘れたの?」

耳をゆっくりとピクピクさせながら皮肉っぽく言う。ベッドの上で大きくふわふわの尻尾も揺れている。

「箸の使い方を教えなくて済むだけでも、あんたは幸運にゃ」

「まあ、そうだな」

苦笑しながら答えた。「大学ってのは、人間が歴史とか数学とか科学とか、そういうお堅いことを勉強する場所なんだよ」

「つまんなそう」

彼女はあっさり言った。

「まあ、そういう時もあるけどな」

レナは首をかしげ、乱れた髪の間から耳を少し持ち上げる。

「ふーん、楽しいの?」

俺は少し黙り込む。そんなこと、考えたこともなかった。

「……まあ、たまにはな。まだ自分が何をしたいのかよく分かってなくて。探してる最中なんだ」

「じゃあ、晴輝も迷子ってわけにゃ」

レナは半分微笑んで言った。

俺は彼女の方をちらりと見た。

「俺たち、二人してピースが足りてないみたいだな」

そのときふと、彼女が俺の大きめのTシャツを身にまとっていることに気づいた。布地は俺にはない曲線をすくい上げるように張りつき、自然と視線を引き寄せられてしまう。

気がつけば、強調されたその曲線に目を奪われていた。

「ふふ、そんなに気になる?」

彼女はいたずらっぽく笑いながら言った。視線を上下に走らせていたのを見抜かれてしまったらしい。

Tシャツ一枚に、下はショートパンツ……だと信じたい姿でベッドに膝をついている。そんな彼女から目を逸らせなかった。

ハッと我に返った。

「あ、えっと……ごめん。俺の服を着てるんだなって思って」

「あー、そう! 自分の古い服にはもう飽きちゃったし、あなたの匂いの方が落ち着くにゃ」

「それに、なんか安心する気がして……だめ?」

「いや、もちろん大丈夫だけどさ……でも、この部屋で着替えたの?」

言いながら、ベッドの端に彼女の他の服が散らばっているのに気づいた。ひょっとすると、彼女は部屋の中を裸で歩いていたのかもしれない――そんな考えが頭をよぎる。

「うん、もちろんここで着替えたよ、ねえ、もしかして見てたにゃ?」

ベッドの上でぴょんと跳ね、くすくす笑う彼女。

「そんなわけないだろ!」

寝ている間に彼女が裸で自分の部屋にいたと知り、思わず顔を赤らめながら返した。

「そんなにムキになっちゃて」

そう言って彼女はベッドから跳ね上がり、両腕を後ろに伸ばした。

「心配しないで、元の服に着替えるにゃ」

そう言いながら、振り返ってシャツを持ち上げる――

「じゃあ、朝ごはん作ってくるから――」

俺はそれ以上見ないように、急いで部屋を出た。少なくとも、ショートパンツを履いていてくれたことが、唯一の救いだった。

──────────────────────────────────────────────────────

朝食の時間──今回は焼き鮭に味噌汁とご飯──で、レナは一口ごとにどんどん元気になっていった。朝の彼女は、より生き生きとしているように見える。あるいは、単にお腹が空いていただけかもしれない。

俺は、麗愛が茶碗の最後の数粒のご飯を必死にすくおうとする姿を、つい笑いをこらえながら見ていた。真剣すぎて、どこかコミカルだった。

「本当に食べるのが好きなんだな?」

「食べ物だけは、忘れていないの」彼女は誇らしげに言った。「世界一番の発明品にゃ」

「君の故郷では、普段は食べ物って食べないのか?」と、俺は純粋に好奇心から尋ねる。

「もちろん食べてたにゃ」彼女は説明もせず、口いっぱいに頬張りながら答えた。「「でも、ここのご飯はちょっと違う気がする…なんとなくだけど」

俺は少し考え込んだ。彼女がもともとどんなものを食べていたのか。何であれ、魚には相当執着している様子だったが、まあそれも彼女が猫の血を引いているからかもしれない。

ふと手を止め、恥ずかしそうに俺の方をちらりと見た。

「で……その『大学』っていう場所なんだけど」

「ん?」

「一緒に行ってもいい?」

俺は瞬きをした。

「君が? 大学に行くの?」

「いいじゃん…..一日中出かけちゃうんでしょ。退屈になっちゃう。もし私が勝手にどこか行っちゃったらどうするにゃ?」

彼女は皮肉っぽく、でも説得力を持たせようと必死に言った。その愛らしい瞳で、挑発するように俺を見つめている。

「……絶対に面倒を起こすなよ」

「ちゃんとするにゃ!」

と彼女は素早く言った。「約束する」

俺は頭をかきながら考え込んだ。悪くはない案だ。だが、それじゃあまるで、神社の巫女がショッピングモールを歩いているみたいに、悪目立ちしてしまう。

「変装する必要があるな。君が外の世界から来たと知られたら困る」

「変装? 仮装みたいな?」

「いや、もうその格好自体がある意味仮装みたいなもんだ」

と俺は冗談めかしてからかった。

「というか、むしろ交換留学生みたいな感じだな」

俺はにやりと笑いながら言った。

「外国から来てる人、ってことにすればいい。ちょっと変に振る舞っても誰も突っ込まない」

レナの目が輝いた。

「楽しそうにゃ!」

「まずは耳を隠さないと。絶対に目立つ。それと尻尾も……普通の女の子はぶら下げて歩いてないだろ」

彼女は反射的に耳に手をやり、ため息をひとつついた。結んで隠さなければならないのを思い出したらしい。

「そっか、そうだった……」

俺は机の引き出しからヘアゴムを取り出し、彼女の元へ歩いた。

「これで髪を耳の上に持っていって結べばいい。髪の量が結構あるし、うまくやれば隠せる」

レナは鏡の前に膝を折り、背に黄金の髪を垂らした。正座に近い可憐な姿勢は、無垢でありながらどこか魅惑的でもあった。黒いスカートが太ももに沿い、前かがみになるとほんのわずかに布の奥がのぞいた。

鏡に映るその姿は、静かな部屋にしては禁断めいた光景だった。女の子が自分の部屋にいることに慣れていない少年にとって、目を逸らすのは容易ではなかった。

やがてレナはゆっくりと髪をすくい上げ、耳を覆うようにかぶせていく。その動作は一見のんびりしているのに、一つひとつが意図的で丁寧だった。指先が金色の束を集め、数瞬後には首の後ろでふんわりとしたお団子を結い上げる。顔周りには数本の髪が遊ぶように垂れ、少女らしい愛らしさと、秘密を隠した目的が同居していた。

耳を隠したレナは、誇らしさと照れを混ぜた表情でこちらを振り向く。黄金の髪がリボンのように顔を縁取り、普通の女の子のように見えた。

「どう?」

と、少し恥ずかしそうに首を傾けて微笑んだ。

俺が返事をする勇気すら出せないうちに、彼女は膝をついて前に身を乗り出し、両手を床についた。まるで四つん這いの姿勢だ。

顔を上げながら、指先で頬にかかった髪を耳の後ろへとかす。その拍子にスカートが揺れ、太ももの上のほうがちらりと見えた。

後ろでは、猫が遊ぶ前のように、尻尾がふわりふわりと揺れている。

俺の視線がどこに向かっているか気づいているのかいないのか、彼女の唇がからかうように弧を描いた。

「……で?」

それが質問だと気づくまで、少し時間がかかった。目の前の光景に圧倒されていたからだ。

「……すごく、似合ってる」

なんとかそう答えた。情けなく聞こえないように必死で。

すると彼女は、今度は少し力を抜いた笑みを浮かべた。

「よかった」

──────────────────────────────────────────────────────

家を出るころ、太陽は屋根の上に顔を出したばかりで、街はすでに朝の活気に包まれていた。

遠くで響くエンジン音、路地にこだまする人々の声、そして木陰から聞こえる蝉のミーンミーンという声が、夏の朝を彩る。

そして隣を歩いているのは――本来なら存在しないはずの少女だった。

「また見てる」

はっとして、慌てて視線を逸らす。

「見てない」

――必死に取り繕う。

「見てたもん!」

レナはぷくっと頬を膨らませる。

思わずもう一度彼女に目をやると、にやりと笑っていた。

目を逸らすのは難しかった。まるでアニメから飛び出してきたかのような可愛い女子大生に見えたからだ。

レナが身にまとっているのは、昔サークルのイベントで使った制服。

黒いスカートに白いブラウス、襟元にはきちんとリボンが結ばれている。髪は緩くまとめられ、黒いリボンで留められ、その下に猫耳を隠していた。本来ならサイズが合わないはずの服なのに、なぜか彼女にぴたりと馴染んでいる。

尻尾はスカートの下で黒いリボンに結わえられており、外からは見えないが、知る者にはそこにあるとわかる。

一見、普通の少女。

――いや、あまりにも普通すぎる。

「似合ってるよ」

俺は素直に口にした。

レナは片眉を上げ、にやりと笑う。

「それって褒めてるの? それとも耳が恋しいの?」

俺は首の後ろをかきながら答えた。

「……両方、かな」

彼女の頬がうっすら赤く染まり、金色の瞳がわずかに逸れる。小さく息を吐く。

「……耳ならまだあるもん。隠してるだけ。猫忍者みたいでしょ」

「忍者でも、興奮したら尻尾がぶんぶん動くんだけどな」

俺はからかう。

「ちょ、ちょっと! 目立たないように頑張ってるんだから!」

彼女は慌てて声を潜める。

俺は笑いながら軽く背中を叩き、大通りへと角を曲がりつつ言った。

「大丈夫さ。フェンスだけは登らないようにな」

「……わ、私は飼い猫じゃないんだから!」

わざと俺に肩をぶつけてくるレナ。

そんなやり取りを交わしながら、二人は賑やかな街の中心を歩いていく。

店のシャッターが次々と上がり、自転車で通勤する人々や、制服姿の学生たちが大学の門へ急ぐ。

レナは俺の隣にぴたりと寄り添い、目を輝かせながらその光景を見つめていた。

「ねぇ、あれは何?」

と指をさす。

「マンションっていうんだ」

「こんなに高いにゃ? あんな上にも人が住んでるの?」

「ああ、中にはエレベーターがついてるところもある」

「エレベーター……つまり空まで運んでくれる魔法の乗り物ってことね!」

彼女はそれを、まるで空飛ぶ装置でもあるかのように語った。

そして、自動販売機の横を通りかかったとき、レナがぴたりと足を止め、目を丸くした。

「ちょっと待って。これ……中に飲み物が入ってる箱だよね? 勝手に貰っていいのかな?」

「そんなわけないだろ。お金を入れて買うんだよ」

俺は苦笑しながら説明した。

「……ほんとに? 勝手に持ってっちゃダメなの?」

「なんでそんなに自販機に驚くんだ?」

「だって、飲み物をタダでくれるんじゃないの?」

俺は思わず大きくため息をついた。

彼女が自販機に詰め寄って秘密を暴こうとする前に、無理やり腕を引っ張った。

レナはぶつぶつ文句を言いながらも、宝物のようにバッグを両手で抱え込み、しぶしぶついてきた。

「この世界ってほんと…変にゃ。すごく騒がしいし、箱だらけで、ピカピカしてて……」

「慣れれば平気だよ。」

レナは遠くにそびえる高層ビルを見上げた。

「……でも、慣れたくない。あたし、自分の世界を、忘れたくないの。」

その声は不思議と柔らかかった。悲しいわけじゃない。ただ……遠くを見ているような響きだった。

俺は何も言わなかった。

代わりに歩調を落として、レナの隣を並んで歩いた。

やがて大学が視界に入ってくる。

ガラス張りの新しい校舎と、蔦の絡まる古い建物が並び、学生たちがすでに足早に講義へ向かっていた。

門の前でレナは立ち止まった。

「……ほんとに大丈夫かな?」

声はさっきより小さい。

「俺が一緒にいる。大丈夫だよ。」

レナがもう一度、俺を見上げた。

結んだ髪の毛先が、そよ風にふわりと揺れる。

その一瞬、彼女の瞳の奥に、温かなものが宿ったのが見えた。信頼、と呼べるような光。

「……うん」

彼女は小さくささやいた。

「行こ、センパイ」

俺は固まった。

「やめろ。二度と、そう呼ぶな」

レナはにやりと笑った。

まるで、わざと言ったと知っているかのように。

こうして俺たちは校門をくぐった。

人間の俺と、妖怪の猫娘。

数百人もの学生に紛れ、誰も気づかないまま――すでに何か魔法のような日々が始まっていることに。

……一体、俺はなんでこんなことになってるんだ。

猫の精霊を学校に連れてくるなんて、正気の沙汰じゃない。

――頼む、これが大惨事になりませんように。

なんとかチャイムが鳴る直前に間に合った。

俺が教室の扉を押さえると、レナが中へ足を踏み入れる。

その瞬間、教室はしんと静まり返った。

男女問わず、すべての視線が彼女へと向けられる。

レナは最初、気づかないふりをしていた。

いや、気づいてはいたのかもしれない。ただ、無視しただけだろう。

彼女の目は机の列、眩しい蛍光灯、半分消しきれていない数式や漢字が残る黒板を順に見渡していく。

握りしめたスクールバッグが、ほんの少しきゅっと強くなる。

外から見れば落ち着いているように見えるだろう。

けれど俺にはわかった。――スカートの下で、きっと尻尾がぶんぶん暴れているに違いない。

俺は身をかがめて、声を潜めた。

「練習したこと、思い出せ。お前はレナ。……そうだな、ヨーロッパの名門校から来た留学生ってことにしておけ」

「ヨーロッパ? それなに?」

と、困惑した声。

「いいから、言うとおりにしろ」

レナが一歩前へ出たちょうどそのとき、教師が教室に入ってきた。

眼鏡を指で押し上げ、好奇の目をこちらに向けてくる。

「おや。新しい生徒かな?」

驚きを隠そうと、丁寧に抑えた声色。

しかし眼鏡を繰り返し直す仕草が、逆に動揺を物語っていた。

「はい、先生」

俺はすぐに応じた。

「こちらはレナです。……留学生で、転入してきました」

山田先生はわずかに首をかしげ、薄く眉を寄せる。

机に書類をどさりと置くと、首筋をさすりながらぼそり。

「変だな……留学生なんか聞いてないぞ。メールをまた見落としたか?」

半ば独り言のようで、でもクラス全員に聞かせるような調子だった。

「直前だったんです。ご両親がヨーロッパから急に引っ越してきて」

俺はできるだけ自然に装って答える。

「ほう、ヨーロッパか。なるほどな……」

顎に手をあて、感心したふうを見せるが、その目はまだ疑念を消しきれていない。

山田先生はなんでも疑う人だ。

ただ、その態度はいつも穏やかすぎて、逆に不気味なほどだった。

レナは教壇の前に立った。

黄色いリボンのついた制服をきちんと着こなし、髪は丁寧に整えられ、黄金色の絹糸のように身体を包む。

結ばれた大きな青いリボンは、耳を隠すためだったが、むしろ彼女の可愛らしさを引き立てていた。

黒いスカートはやや短めで、太ももや曲線をほかの女子生徒よりも際立たせている。

彼女は大きく息を吸い、すっと背を伸ばす。

そして、角度も時間も完璧な、お手本のようなお辞儀をした。

ざわり、と教室全体が前のめりになる。

「おはようございます。彩咲麗愛あやさき れなです。海外から来た留学生です。みなさんと一緒に勉強できるのが楽しみです」

声は落ち着いていて、明るく、それでいて驚くほど丁寧。

迷いも揺れもなく――自信と愛嬌の絶妙な調和。

後方から小さな囁き。

「……すっげぇ、かわいい」

「髪……モデルかよ?」

女子たちも身を寄せ合って小声を交わす。

「肌めっちゃきれい!」

「リボンかわいい、どこで買ったんだろ」

「髪のツヤやばっ」

「スタイルよすぎ、うらやましい……」

「――では、彩咲さん。ようこそ我がクラスへ。どうぞ、好きな席に座りなさい」

先生は後方を指さし、机に目を落とす。

後方を指さしつつ、机に目を落とす先生。ひとつため息を漏らすだけで、この“謎の生徒”が生むであろう書類の山を、すでに想像していることがわかる。

麗愛は振り返り、ちらりと俺を見た。

俺は机の下から、親指を立てて合図する。

「――さあ、彩咲さん。どうぞ、お好きな席に」

先生は教室の後方を指しながら促した。

教室中の視線が一斉に彼女に注がれる。

誰もが、自分の隣に座ってほしいと期待しているようだった。

「わたし、晴輝のとなりに座ります!」

麗愛は嬉しそうに声を弾ませた。

髪を揺らしながら優雅に歩き、スカートを整えて、窓際の机にすっと腰を下ろす。

俺の隣――ちょうど窓際の席だった。


2:

授業の残りの時間は、まるで奇妙な夢の中を漂うように過ぎていった。

麗愛が教室に溶け込んだから――それだけではない。

彼女は、圧倒的だった。

数学の問題では、黒板をほとんど見もせずに即座に解き終える。

国語の小テストも、当然のように満点を取る。

英語の朗読では、一度だけ先生の発音を丁寧に直し、その瞬間、先生は驚いたように目を見開き、深く頷いた。

「留学生にしては、随分と博識だな」

答案用紙を見つめたまま、先生が小さくつぶやく。

「そうでしょうか?」

麗愛は小首をかしげた。

「ただ……思ったとおりに答えただけです」

彼女は決して誇示しているわけではなかった。

むしろ、注目を浴びることに戸惑っているように見えた。

まるで身体だけがすべてを覚えていて、頭のほうはその理由を理解できていないかのように。

――あのジャンプのときと同じだ。直感が、記憶を凌駕している。

昼休み、何人かの女子が麗愛に近づき、笑顔と好奇心を向けてきた。

「ねえ、一緒に食べない?」

「どこに住んでるの?」

「スキンケア、何使ってるの?!」

「今度、髪編んでいい?」

麗愛は瞬きし、圧倒されていた。

こんなに注目されるとは予想していなかったのだ。

「えっと……わたし、彼と一緒だから」

と、指を俺に向けて言った。

十組の視線が一斉に俺の方を向く。

教室中が、問いかける目で俺を見つめていた。

普段、俺は一人で勉強して、放課後だけたまに友達と過ごしたりしていた。

だが今日は、学校で一番人気のある女の子と一緒にいる。

どんな説明も、この状況を納得させることはできそうにない。

俺は立ち尽くし、呆然としたまま、麗愛が公然と「私、彼と一緒」と宣言したことをまだ処理しきれずにいた。

教室は、まるでミツバチの巣のようにざわめき、女子たちは席に戻りつつひそひそと囁き合う。

数人の男子は、信じられないような表情や、羨望を隠せないまなざしで俺を見つめる。

首筋にじんわりと熱が上ってくるのを感じた。

麗愛は空気の変化を察して、首をかしげた。

「……言っちゃいけなかったかな?」

と小声で囁く。

「いや」

俺は呟いた。

「かなり効いたな」

さらに学生たちが近づく前に、俺は手で合図した。

「さ、昼ごはんはもっと静かな場所に行こう」

麗愛は瞬きし、両手でお弁当袋を握りしめ、嬉しそうに頷き、俺の後ろに続いた。

俺たちは横のドアから抜け、廊下を進み、狭い階段を上る――屋上に通じる場所だ。

立ち入りは禁止だが、施錠は一年生のときから壊れたままだ。

ここは、一人になりたいときの秘密の場所だった。

重い金属の扉は、錆びた軋む音を立てて開く。

太陽に照らされた開けた屋上が現れる。

低い手すりが縁を囲み、ここは風が強めだ――暖かく、柔らかい風が遠くの桜や日光で乾いたコンクリートの香りを運んでくる。

麗愛は一歩踏み出して、息を呑んだ。

「わあ……」

ゆっくりと一回転し、目を見開く。

屋上からは、街が四方に広がっている――屋根、線路、遠くに光る川の水面。

鳥が時計塔の上空でゆったりと旋回している。

交通の音や学生のざわめきは遠くに感じられた。

「まるで別の世界みたい」

麗愛は静かに言い、手すりの方へ歩み寄った。

俺も後ろからついて行き、彼女が手すりに寄りかかるのを見守る。

スカートがそよ風に揺れ、襟元のリボンも踊るように揺れる。

お団子も少し崩れ、顔を縁取るように数本の髪がこぼれ落ちていた。

学校を見渡す彼女の金色の瞳は、光を映して輝いている。

「綺麗だろ」

俺は声に出して言った。

屋上で彼女は頷いた。

「下はうるさいけど、ここだと……ゆっくりできるね」

麗愛はお弁当袋を宝物のように両手で抱え、慎重に壁にもたれつつ、隣の場所を軽く叩いた。

俺もそばに座り、肩に陽の暖かさを感じながら腰を下ろす。

彼女はお弁当を開いた――三角に整ったおにぎりが二つ、玉子焼き、漬物。

少し古風な弁当箱に詰められていて、どう見ても市販品ではない。

「これ、自分で作ったの?」

と俺は驚いて訊いた。

誇らしげに胸を張り、笑顔を輝かせる。

「うん、スマホで作り方の動画を見たの」

「なるほど、どうりできれいな形なんだな」

「晴輝が寝てる間に四つも動画見たんだからね!」

麗愛は、どこか言い訳するような口調で胸を張った。

「そのうちひとつは変な方言でさっぱりわからなかったけど……でも、ちゃんと作れたよ」

俺は思わず笑みを浮かべ、バッグからジュースの缶を取り出して手渡した。

「……ていうか、俺のスマホ使ったのか?」

「うん! 使い方覚えるのに、すっごく時間かかったんだから!」

彼女は苦労の痕跡を誇らしげに見せる。

「そうか……じゃあ、今度は麗愛用のスマホを用意しないとな」

もう勝手に触らないように、やんわりと釘を刺す。

「ほんと?!」

深い金色の瞳がぱっと輝き、ほとんど飛びかかってくる勢いで喜びを示した。

「魔法の動画箱を、私に買ってくれるんだね!」

「もちろん……そうすれば、好きなだけ料理動画が見られるだろ」

「やったー! 約束する。すっごく美味しい料理、作ってみせるから!」

俺はほっと胸をなで下ろした――

麗愛が料理を心から楽しんでいることと、もう俺のスマホを勝手に使わないこと、その両方に。

しばらくのあいだ、二人は静かに弁当に向かった。

箸が弁当箱に触れる小さな音と、遠くのグラウンドで旗が揺れる音だけが、静けさの中に溶けていた。

しばらく沈黙が流れたのち、麗愛がふいに口を開いた。

「……ねえ、私のこと、変だと思わない?」

彼女の視線は俺に向けられず、足元の木々をすり抜けていく風のほうを追っていた。

「だって――」

彼女は小さく息をつぎ、言葉を続ける。

「私が他の人と違うのは明らかだし、過去の記憶だってない。

ここにいる理由もわからない。

……でも、どうしてだろう。今日だけは、不思議とここにいたいって思えたの」

俺はしばし考え込み、それから静かに答えを口にした。

「君は他のみんなと違う。でも、それは悪い意味じゃない。

むしろ……面白い。いや、勇敢だ」

俺がそう言うと、麗愛はじっとこちらを見つめ、探るように目を細めた。

「……勇敢?」

「学校のことなんて何も知らないまま来て、

『ヨーロッパから来た』って言い張って、

しかも数学の小テストで満点を取って、クラス全員の心をつかんだんだ。

十分すぎるほど度胸があるだろ」

麗愛は小さく笑みをこぼし、耳にかかった髪を指先でそっと払った。

「失敗して、恥をかくって思ってたのに……

でも、自然と全部できてしまったの。

もう知っていたみたいに。頭じゃなくて、体が先に覚えているような感じ」

「たぶんそういうことなんだろう」

俺は静かに答える。

「君の本能が、記憶より先に働いてる」

麗愛は首を傾げ、考え込むように視線を落とした。

「……じゃあ、わたしは変じゃないのかな」

「大丈夫だよ」

言葉のあとに訪れた沈黙は、むしろ心地よかった。

風がふたたび吹き抜け、校舎裏の木から花びらが舞い上がる。

ひらひらと漂うひとひらが、やがて彼女の膝にそっと落ちた。

麗愛はそれを見つめ、それから俺に視線を移す。

「どれだけここにいられるのか、いつ全部を思い出せるのか……わからない。

でも……ありがとう。今日、こうしてここにいさせてくれて」

何と答えればいいのかわからず、俺はただ頷いた。

そのとき、不意に彼女が俺の肩に頭をもたせかけてきた。

全身が一瞬で固まる。

「……こうしててもいい?」

小さな声が、すぐ耳のそばで震える。動く気配はない。

「……ああ、うん」

ようやく言葉を絞り出す。

二人の影が、陽だまりの壁際で寄り添うように揺れていた。

そのひとときだけは、俺たちは場違いでも、おかしな存在でもなかった。

ただ、ここにいることが許されていた。


――まるで最初からそこに潜んでいたかのように、高橋大智が唐突に姿を現した。

茶目っ気たっぷりで、大胆、そしてほんの少し鬱陶しい。

こいつは俺の親友だ――やっかいごとの塊であるにもかかわらず。

大智は背が高く、細身の体に長い茶色の髪。

細縁の眼鏡をかけ、どこか映画俳優のような風貌をしている。

だが、いつも自分に酔ったような顔をしている男だ。

「おっと、学校中で話題の色男さんじゃねぇの」

腕を組み、大げさに足を広げて俺と麗愛の前に立ちはだかる。

「お前、こんな可愛い子を俺から隠せると思ったのか?甘いな。だって俺は――お前の親友だからな!」

……その瞬間、俺はもう聞くのをやめた。

「晴輝、この人……誰?」

麗愛が不安そうに、怯えを含んだ声で尋ねてきた。

「ただの厄介者だ。気にするな。行くぞ」

俺は立ち上がり、彼女の手を取った。

だが、大智はすぐに前へ回り込み、道を塞ぐ。

「麗愛――いい名前だな。自己紹介させてもらう。俺は晴輝の親友、大智――」

「もういい、行くぞ、麗愛。授業に戻ろう」

俺は彼の声を遮った。耳に入ってくるのは、雑音のような言葉だけだった。

「晴輝! おい晴輝! どうしてこんな綺麗な子を俺に紹介してくれなかったんだよ!」

麗愛は俺の後をついて階段を降りていく。

そのとき、俺はまだ彼女の手を握っていることに気づいた。

指先に残るぬくもりが妙に意識される。

「えっと……。彼って友達なの?」

背後から、大智の声が廊下にこだまし、空気を揺らしていた。

「ちょっと待って……! じゃあ、あの子は俺たちの友達ってこと? それとも……どういう関係なんだ?」

麗愛が俺を見上げる。困惑を滲ませた瞳に、俺は小さく息を吐いた。

「大智は……俺の親友だ。ただ、俺たちの関係を誤解されたくない」

麗愛はそっと手を握り返す。

「……どんな誤解?」

唇にかすかな笑みを浮かべていた。

「お前らが付き合ってるってことに決まってるだろ!」

大智が突然、俺たちに追いつき、俺の背中を軽く叩く。

麗愛は顔を赤らめ、視線をそらす。

大智の言葉が、まるで彼女の胸の内を映し出したかのようだった。

「俺たちはただの友達だよ」

そう説明しながらも、その言葉は自分の口から出るのが妙にぎこちなく感じられた。

「ま、とにかく――」

大智は満足そうに笑う。

「これからは麗愛も俺たちの仲間だ。溜まり場にも連れてこいよ」

その瞬間、チャイムが鳴った。まるで合図のように。

俺は慌てて麗愛の手を放す。

「そろそろ授業に戻るぞ。今日はこのくらいでいいだろう」

***

中庭を無言で歩く。

しばらくして、ようやく俺は口を開いた。

「……麗愛、学校でいちばんの人気者になったな」

「わたしが?」

麗愛は目を大きく見開き、驚きの声を漏らした。

「ああ。どうやら俺まで有名になったらしい。全部、麗愛のせいだな」

「どうして? なんで晴輝まで?」

「……ノーコメント」

――これ以上突っ込まれたくなくて、言葉を濁す。

麗愛はくすくすと笑った。その声は透き通り、無垢そのものだった。

「まだ、自分がどこから来たのかも、何も思い出せない。

でも……今日は、ここにいる自分が、自然に思えたの」

俺は陽光に揺れる彼女の髪を見つめながら、ぽつりと呟く。

「思ったより、うまくやれてるみたいだな」

「晴輝が一緒だから」

迷いなく言われて、心臓が一瞬跳ねる。

「ありがとう。私が全て思い出すその日まで、そばにいて欲しい」

***

家に戻ると、夕陽はすでに沈みかけていた。

借りていた靴を脱ぐと、麗愛は大きくあくびをして体を伸ばす。

そのまま俺の部屋に駆け込み、ベッドに飛び込み、大げさに転がった。

長く隠していた尻尾がようやく自由を取り戻し、ぱたぱたと揺れる。

耳も解放され、ぴんと立った。

「なんとか生き延びたにゃー!」

麗愛は体をぐっと伸ばし、誇らしげに声をあげた。

「生き延びたどころか、怖いくらい完璧だったぞ」

俺は鞄を下ろしながら、笑み交じりに返す。

「ふふ……もしかして、わたし、天才?」

枕に顔をうずめたまま、麗愛は小さく囁く。

「それとも、女神だったりして?」

「いや、テストの解き方を覚えた猫だな」

「それでも、合格にゃ!」

その後、麗愛はほとんど口を利かず、静かに俺の手元を見つめていた。ときおり窓の外へ視線をやり、夜空から何かを聞き取ろうとしているように。

やがて彼女は、ちょうど台所がよく見えるソファに移動した。両手で顎を支え、膝をついて身を乗り出すようにしながら、料理ができていく様子をじっと眺めている。

ソファに身を預け、食事の準備を見守りながら、麗愛は今日の出来事を思い返した。やがて腕を伸ばして大きくあくびをし、長い1日から解き放たれたようにスカートの下から尻尾がひょいと飛び出し、気ままに揺れていた。

そして麗愛の視線は、優雅に料理をする晴輝に釘づけになる。香ばしい匂いが鼻先をくすぐって、目を離すことができなかった。

「学校、楽しいにゃ!」麗愛は誇らしげに宣言した。まるで壮大なクエストをやり遂げた勇者かのように。「でも、数学だけは呪いだにゃ」

晴輝は小さく笑いながら、料理の上に乗せるためにネギを刻む。「まあ、初日を無事に乗り切ったんだ。明日も大丈夫だろ」

麗愛は瞬きをして問いかけた。「毎日こんな冒険に行くの?」

「まあな。ただ、明日は……遠足みたいなもんだ」

「遠足……?」麗愛は小首を傾げる。

俺はうなずきながら、今朝の連絡を思い出す。「学校で、山の奥の森にある場所へ行くんだ。文化学習とかそういう名目で」

彼女の目は、何か怪しいものを見つけたかのように細くなった。「……それって、人間がする妙な親睦の儀式?」

晴輝は、空中で飯茶碗を持ったまま一瞬止まった。「は?」

説明する前に、麗愛はまた質問をした。「じゃあ……みんなのためにお菓子を持っていくんだよね?」

その無邪気な勘違いに晴輝は思わず笑ってしまった。その反応に麗愛はさらに混乱する。

「な、なんで笑ってるにゃ!そんなに楽しいことなの?」彼女は本気で困惑した表情だ。

「いや、そういうんじゃない。ただの課外学習だよ。稲荷空神社に行くんだ。特別な場所で、天狐に関する神話がたくさんあるらしい」

その瞬間、麗愛はぴたりと固まった。今日ずっと浮かべていた笑顔が、ふっと消える。「神社……?」

突然、彼女の空気が一変し、口をつぐんだ。

麗愛は神社に行くことをあまり考えないようにしていた。神社で彼女は異世界へと繋がる門をくぐるという恐ろしい体験をしたからだ。

「どうした?神社アレルギーとかじゃないだろうな」晴輝は冗談めかして言った。神社という場所が彼女を動揺させるかもしれないことを、つい忘れかけていた。

麗愛は目をそらす。「ううん……ただ……神社は嫌なの。思い出してしまうから」

その言葉の意味を測りかねながらも、晴輝は口を開いた。「……けれど、それが君にとって良いことになるかもしれない。何かを思い出す助けになるかも」

麗愛は再び言葉を止めた。

「かも……でも、その間ずっと手は繋いだままだよ!」

麗愛は勢いよく立ち上がり、胸の前で腕を組んで、揺るぎない決意を示した。

晴輝は少し気恥ずかしく、しかし誇らしい気持ちもあって、麗愛の言う通りにすることにした。

「わかったよ」できるだけ迷いがないふうに言った。



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