第4章 ― 神社の記憶
朝の空気にはひんやりとした静けさが漂っていた。
春の朝に時折訪れる、あの澄んだ冷気だ。
凍えるほどではないが、何か羽織るものを持ってくればよかったと思わせる程度の冷たさだった。
晴輝と麗愛は、学校の駐車場に早めに到着していた。
麗愛はまだ半分眠っていて、寒そうに身を縮めている。
彼女の身体を包んでいたのは、昨日から勝手に自分のものにしている晴輝の黒いパーカーだった。
ファスナーは上までしっかりと閉められ、フードまで深くかぶっている。
普段の彼女なら決してしない格好だ。
すっぽりと隠れた姿は、どこか神秘的で、それでいて可愛らしかった。
いつもの黒いスカートを合わせているから、余計にそう見えるのかもしれない。
晴輝は思わず心の中で笑った。まるで「可愛い泥棒」みたいだ。
でも、この泥棒、他人のものを盗むどころか、堂々と自分のものにしてしまうんだから面白い。
その一方で、駐車場はすでにクラスの喧騒で満ちていた。
あちこちで声が飛び、誰と座るかの話題で楽しそうに盛り上がっている。
麗愛が制服以外の格好を見せるのはこれが初めてだった。
だからか、女子たちの間にはちらりと嫉妬まじりの視線が向けられ、ひそひそと噂が飛び交っていた。
――それにしても、こんなに静かな麗愛を見るのは初めてだ。
晴輝はそう思った。おそらく、まだ眠いだけなのだろう。
そのとき、朝の静けさを破るように、大きな声が響いた。
まるで騒がしい鳥が鳴き立てているかのように。
「おいおい、めっちゃ可愛いじゃん!」
大智だった。
彼はわざとらしく声を張り、周囲の生徒たちにも聞こえるほどに言い放つ。
「フードで顔を隠してるのに、他の女子がかすむくらい目立ってるぞ!」
晴輝は思わず大智を睨みつけ、背中を思い切り叩いた。
「……なんで俺は、こんな騒がしいやつとつるんでんだ」
前につんのめりそうになりながら、大智は笑って肩をすくめる。
「ちょ、ちょっと待てよ。俺はさ、みんなが心の中で思ってることを口にしただけだから!」
一方の麗愛は、フードに顔を隠したまま、眠気に取り憑かれたゾンビのように動かない。
しかしその沈黙の奥には、確かな苛立ちが漂っていた。
髪の下に隠れた耳が見えていれば、きっと小さくぴくぴくと震えていただろう。
麗愛は学校用のバッグを足元に置き、晴輝の隣で大きな白いバスをじっと見上げる。
その目は、まるで難解なパズルに挑むかのように細められていた。
「これが……あの伝説の教育用戦車……?」
声は真剣そのもの。しかし、半分あくび交じりで、ふんわり柔らかい響きが混ざっていた。
「……ただの普通のバスだろ」
晴輝は片眉を上げ、短く返す。
「ふむ……」
麗愛は顎に手を当て、まるで深遠な謎を解こうとするかのように考え込む。
「アニメで見た時は、もっと背が高いと思ってたのに」
大勢の人に囲まれて麗愛を連れ出すのはこれが初めてだった。
晴輝の胸に、そっと不安がよぎる――彼女の言動をうまく隠せるだろうか、と。
その時、山田先生がやってきて手を振り、二人を呼び寄せた。
普段はスーツで厳かな印象の先生も、今日は灰色のパーカーにスウェットパンツ。
まるでジムに行くような装いだが、それでもなお、自然と周囲に威厳を漂わせていた。
「一人ずつ順番に席に入ってください。座席の取り合いはなしですよ」
先生の声が響くと、晴輝には麗愛が次に何を言うかすぐに分かった。
「私、晴輝の隣に座る!」
フードから顔を出した麗愛が、勢いよく宣言する。
小動物のような愛らしさはいつも通りで、髪は黒いリボンでひとつに結ばれていた。どうやら別の女子から借りたらしい。
生徒たちは順番にバスへ駆け込み、座席を確保しようと小走りで移動する。
晴輝と麗愛もやがて乗り込み、麗愛は前に回って通路の真ん中で声を張った。
「窓側! 晴輝、ここ、私の隣!」
勝ち誇った小さな笑みを浮かべ、座席をぽんぽんと叩く。
麗愛は腰を下ろすと、両手を窓ガラスに押し当て、子どものような目を輝かせて外を見つめた。
晴輝も慌ててその隣に腰を下ろす。
麗愛は座席の大部分を使っていた。
決して体格が大きいわけではないが、腰から下のラインがしっかりしているため、シートに余裕がなくなる。
隣に座った晴輝と太ももが触れ合い、肩もそっと寄せ合うような距離になった。
こんなに近くで座るのは初めてだった。
足と足、肩と肩が触れ合う距離。晴輝にとっては少し気まずい――けれど、同時に、悪くない感覚でもあった。
全員が席につき、バスのドアが静かに閉まると、車体はゆっくりと駐車場を後にした。
――悪い選択じゃなきゃいいけど。
晴輝は心の中でそうつぶやいたが、もはや他に選択肢はなかった。
たとえここが、麗愛と出会った神社とは別だったとしても――やはり神社である以上、彼女の感情をざわつかせるには十分かもしれなかった。
街へと進むバスの窓の外では、自動販売機がずらりと並び、眠そうなサラリーマンが歩き、石垣の上では猫たちがひなたぼっこをしている。
景色が次々と流れ去る中、麗愛は窓に顔をくっつけ、夢中で眺めていた。
「絵本が動いてるみたい!」
小さな声で感嘆を漏らし、目を輝かせる。
晴輝は隣で身を落ち着けようと試みたが、結局は諦め、自然と肩を寄せるように身を寄せた。
麗愛はまったく気にしていない様子だった。
彼女は窓の外に目を釘付けにし、一つひとつの景色に注意を向けていた。
「こんなにたくさんの乗り物、見たことある?」
「ぷっ……そんなわけないじゃん。だって、私、霊界の渦から落ちて……落ち葉の山にワープしてきたんだよ?
でもこっちの方が、うん、楽しい」
「今はそう思ってても、渋滞になったら……」
「にゃあ! あれはなに?」
麗愛は言葉をさえぎり、指をさした。道路を走る配送トラックだ。
「配送トラック」
「じゃあ、あれは?」
「バイク」
「ケーキみたいな建物は?」
「結婚式場」
「じゃあ、あそこで手を振ってる女の子は?」
晴輝は肩をすくめ、好奇心にあふれた声に答えた。
「ただの子どもだよ。バスが珍しいんだろ、お前と同じで」
周囲の生徒たちは麗愛の声に耳を傾ける。
冗談なのか、本気なのか――街のことを知らないのかどうか、判断がつかないようだった。
「おぉっ、晴輝! 長い蛇のロボットが空を……すごい! 危なくないの?」
「あれは電車。町まで行ける乗り物だ」
「えっ、本当に!? 絶対連れてってよ、晴輝! 空飛ぶ蛇に乗りたい」
「……いつか、な」
――これは質問攻めの旅になりそうだな。
少なくとも去年みたいに、大智の隣で退屈することはなさそうだ。
晴輝はそう思った。
「なぁ、麗愛って大丈夫か? 普通のことにめちゃくちゃ興味あるみたいだけど。どこ出身だっけ?」
ちょうどそのとき、大智が通路を挟んで隣の席から声をかけてきた。
彼の隣には、黒髪でおとなしい雰囲気の可愛らしい女の子が座っていた。明らかに、座るのが気乗りしない様子だ。
「田舎だよ。小さな村で育ったんだ」
晴輝は迷わず答えた。
「なるほど、村娘か。そりゃ可愛くて純粋なわけだな!」
大智は満面の笑みを浮かべ、からかうように言った。
「お前……女のこと以外、頭にないのか?」
「他に考えることなんてあるか? 晴輝、お前が恋愛に興味ないからって、俺まで世界の麗しきレディたちを無視しろってか?」
隣の女子はあきれ顔で視線をそらし、聞こえないふりをした。
「……はぁ」
晴輝は小さくため息をつき、再び麗愛の質問に答える方へ意識を戻した。
少なくとも、大智とやり合うよりは彼女の相手をしている方がずっとマシだった。
―――――――――
やがて街並みが少しずつ途切れ、丘と森が窓の外に広がっていった。
バスのざわめきも落ち着き、あの大智すらもついに黙った。
麗愛も自販機を数えるのをやめ、前の座席に顎をのせて窓の外を眺めていた。
その表情は先ほどよりも穏やかで、森の景色やそこに潜む生き物たちに心を奪われているようだった。
長い道を森の奥へと進んでいくうちに、麗愛はふいに黙り込み、スカートの裾を指でつまみながら、か細い声でつぶやいた。
「ねぇ……神社って……人を見てる気がしない?」
「どういう意味だ?」
晴輝は、先日の“神社は何かを覚えている”という話を思い返し、眉をひそめた。
「なんでもない」
そう答えた麗愛は口元に笑みを浮かべたが、その笑みは瞳には届いていなかった。
――晴輝はまだ気づいていない。
妖の血を引く彼女が、人には触れられない“何か”と常に繋がっていることを。
彼女の耳には、普通の人間には決して届かぬ囁きが届いていたのだ。
バスはやがて幹線道路を外れ、霧のまとわりつく丘を、重々しく登っていった。
楓の枝葉がざわめき、木漏れ日がかすかな光の斑を森に落とす。
その光景は美しくも、どこか幻のようで現実味を欠いていた。
速度を落とした先に、木立に囲まれた古びた社殿が現れる。
石段が入口へと伸び、両脇の狐の石像がじっとこちらを見据えている。
その眼差しは、ただの石とは思えぬほど冷たく鋭かった。
砂利道に停まったバスが「シューッ」と不気味に音を立てた。
生徒たちは好奇心に突き動かされ、座席から身を乗り出す。
窓の外に広がるのは、深い森。
高く聳える楓が無言の摩天楼のように並び立ち、朝靄は低木のあいだから這い寄るように流れていた。
まるで意志を持っているようだった。
湿った空気には、かすかに甘やかな楓の匂いが漂っていた。
山田先生が最初にバスを降り、生徒たちが続く。
そのとき、ドアが開いた瞬間、麗愛の鼻がぴくりと動いた。
彼女は反射的に外へ飛び出し、神社前の広場に立つ仲間の列へ駆け込んでいった。
「……匂いがする。甘い……不思議な匂い」
小さくつぶやく。
「まるで誰かが台所でお菓子を焼いたみたい」
「……いやに具体的だな。楓の匂いを食べ物で例えるあたり、麗愛らしいけど」
晴輝は呆れたように返す。
もっとも、出発前に朝食を食べていないのだから驚くことでもなかった。
麗愛は答えず、目を細めて木々の向こうを探るように視線を走らせていた。
神社へ近づくにつれ、なぜか温かく歓迎されているような気配を感じていた。
広場に全員が集まったところで、担任の山田先生が一歩前へ出た。
片腕にクリップボードを抱え、無表情のまま。
「コツ、コツ」とペンの尻で板を叩くと、ざわめきはすっと消えていった。
声は大きくないのに、生徒たちを自然と沈黙させる響きを帯びていた。
「はい、ここが稲荷空神社です。この神社は千年以上の歴史を誇り、重要文化遺産にも指定されています。ですから――像に登ったり、怪しいものを拾って持ち帰ったり、ましてや天照大神の御名にかけて『古代の力を呼び覚ます』なんてことは、絶対にしないでくださいね」
笑う者と、笑えずに押し黙る者。
生徒たちの反応は二つに分かれた。
その後、山田先生は肩を回して軽くストレッチし、場違いなほど気楽にその場でジョギングを始めた。
普段の堅い印象からはかけ離れた姿に、誰もが一瞬戸惑う。
眼鏡を押し上げ、先生は木立の向こうへ視線を走らせる。
まるで、ここを何度も訪れたことがあるかのように。
そして――ほとんど何気ない口調で、続けた。
「……それから、もし急に寒気を感じたり、自分の名前を誰かに囁かれたように聞こえても――慌てないこと。山の風は、不思議な動きをするものです」
生徒たちの間から、小さなざわめきが漏れる。
晴輝は横にいる麗愛に身を寄せ、少しでも安心させようと囁いた。
自分自身も、山田先生の言葉にはどこか違和感を覚えていたのだが。
「……みんなを怖がらせようとしてるだけだろ」
しかしその瞬間、麗愛の表情がぱっと変わった。
「嘘じゃない」
彼女はそう言い切ると、慌てるように晴輝の手をぎゅっと握った。
――そういえば、前に「手を繋いでないと」と言っていたな。
晴輝は一瞬驚いたが、彼女の気持ちを支えたいと思い、抵抗はしなかった。
ただ、その光景は当然ながら周囲の視線を集める。
道中、彼女はほとんどずっと晴輝と話していたため、二人の関係は親友以上に見えていた。
そして今――人前で手を繋いでいるのだから。
「おいおい……手を繋いで神社参拝って、もう付き合ってるってことだろ」
後ろから、大智が耳元で囁いた。
「っ……!」
晴輝は周囲の視線に気づき、思わず身を強張らせた。
「違う、レナが迷子にならないように気をつけてるだけだ」
小声で必死に弁解する。
そんな二人の様子に、山田先生はちらりと視線を向け、事情を察したように言葉を選んで助け舟を出した。
「はい、それでは皆さん、二人か三人のグループになってください。はぐれると危険ですからね」
そう言いながら、苔むした石段の方へゆっくりと歩を進める。
木々の間に続くその階段は、神社の本殿へと誘う。
「この先には本殿があります。途中の小さな石像や古い遺物には触れないでください。
教科書に載っている以上に古いものばかりで、かつてのものすべてが人に触れられることを望んでいるわけではありません」
生徒たちは古社の空気に胸を高鳴らせながら、石段を上がり始める。
「うわぁ」「すごい……」
思わず声をあげる。
やがて、誰かが口を開く。
「ここって、本当に幽霊の話とかあるんですか?」
「ええ、たくさんあります」
山田先生は即答する。
「もっとも――幽霊話などは所詮、伝承に過ぎません。大抵の場合は、ですが」
再び、あの妙な調子の声が森に溶けるように響いた。
「――君たちは学生らしく、節度を持って行動してください。森の獣の群れではないのですから。……さあ、進みましょう」
晴輝は心の奥でつぶやく。
――けれど、麗愛こそが森に潜む妖そのものだ。もちろん、それを知るのは俺だけだ。
生徒たちは小さな集団に分かれて石段を登っていく。
晴輝は麗愛のすぐ傍らに寄り添った。鳥居が近づくにつれ、彼女の指先の力が強くなるのが伝わる。
朱は剥がれ、年を経た木肌には深いひび割れが走っている。
二人が鳥居をくぐったその瞬間――麗愛の身体がぴくりと硬直した。握る手はさらに強くなる。
「……大丈夫か?」
その顔には怯えの影が差していた。
小声で問うと、麗愛は顔をしかめて囁いた。
「……おかしい。結界が……壊れてる。ひび割れてるのかも」
晴輝は周囲を見回した。
静かで、冷たく、苔に覆われ――ただの神社の参道にしか見えない。
「俺には何も感じないけど……」
否定にはならぬよう、声を抑えて答える。心の奥では、彼女のように“感じてみたい”と願っていた。
「そこが問題なの。神社で“何も感じない”なんて、本来ありえないのに」
麗愛の言葉に胸がざわめく。
少し先で山田先生が立ち止まっていた。
分かれ道に沿って清流が流れ、鏡のように空を映す。
冷えた空気には楓の香が混じり、時折、線香を思わせる煙の匂いが漂った。
先生は苔むした古い狐像の前に立ち、摩耗した顔を仰ぎ見る。
やがて台座に指を置き、誰に告げるでもなく小さく呟いた。
「……もう封じ直されていると思ったのだがな」
次の瞬間には振り返り、いつもの笑顔を浮かべる。
「はい、皆さん。本殿はもうすぐですよ」
麗愛は晴輝の耳元に唇を寄せ、囁いた。
「……知ってる。あの人、何か知ってるのに隠してる」
俺は思わず山田先生を振り返った。
本当にそうなのか、それとも彼女がちょっと疑心暗鬼になっているだけなのか、分からなかった。
麗愛は晴輝の腕に縋りつくようにして歩いていた。
甘えるのではなく、必死に掴んでいる。その指先から伝わる震えに、晴輝は何も言えなくなった。
彼女が本気で怯えているのは明らかだったからだ。
やがて木々の隙間が広がり、白い霧に包まれた境内が目の前に現れた。
そこに――稲荷空神社の本殿が静かに佇んでいた。
千年の時を経た沈黙の古社。
風雪にさらされた木材は灰色に変わり、屋根瓦は歪み、石灯籠は苔むしてひび割れている。
それでもなお、この場所が守り続けてきた歳月の重みがひしひしと伝わってくる。
両脇の狐像は霧を纏い、石でありながら生命を宿したかのような存在感を放っていた。
その厳粛さに、生徒たちは言葉を失った。
「……うわ」
背後で大智が息を呑む。
「映画みたい……」
隣の女子が小さく囁いた。
山田先生は境内の正面に立ち、全員を見渡した。
「この神社は、かつて“異界との境”を守るために建てられたと伝わっています。
修験者たちは霊的な均衡を保つため、異界から持ち帰った“断片”――力の欠片をここに祀ったのです」
「断片?」「どんな断片?」「境って何の境?」
生徒たちが次々に声を上げる。
先生は淡い笑みを浮かべ、肩をすくめてみせた。
「古い伝承にすぎません。
ただ――もし断片が散逸すれば、人と妖の世界を隔てる境界は綻び始める、とも言われています」
そう言うと、手にしたクリップボードを「コツ、コツ」と叩き、話題を切り替える。
「はい、伝説はさておき……ノートを取ってください。
建築のスケッチも忘れずに。境内からは出ないこと」
クラスはばらばらに散り、境内の端に並ぶ石像を眺めたり、拝殿をのぞき込んだりしていた。
何人かは賽銭箱に小銭を投げ入れては「ガシャン!」と音を立てた。
だが、麗愛だけは動かなかった。
彼女は鳥居をじっと見つめたまま、石のように固まっている。
「……おかしい、晴輝……ここ、いやだ」
声は小さく、それでいて切羽詰まった響きを帯びていた。
さらに身を寄せてきて、今や彼女は晴輝の胸にしがみついている。
「静かすぎるの。……静かすぎる。でも、こんなはずない」
麗愛は一歩踏み出し、髪の下で耳をぴくりと震わせた。
「……何かが……息をしてる」
その瞬間、晴輝も異変に気づいた。
鳥のさえずりは途絶え、風に揺れていたはずの葉は凍りついたように動かない。
ついさっきまで境内に差し込んでいた陽光さえ、灰色の帳に覆われたように沈んでいた。
――あれは……光?
本殿の奥から、かすかな赤い輝きが滲み出ている。
幻覚かもしれない。だが視界の端で確かに、何かが脈打っていた。
晴輝はそれ以上近づく勇気を持てず、拝殿の前で立ち止まった。
麗愛は彼の腕に顔を埋め、震える息を吐き続けている。
そのとき――
「――おぉぉぉ、ラブボーイ!」
大智が突然、二人の前に飛び出した。
「にゃっ!?」
「うわぁっ!」
二人は同時に叫び、心臓が跳ねる。
「大智、やめろ!」
晴輝は苛立ちを隠せず声を荒げる。
「へへっ、悪かったな。……ビビりすぎだろ、お前ら」
だが冗談を言っている場合ではなかった。
周囲の霧が急に濃くなり、神社全体がまるでホラー映画のワンシーンのように包まれていく。――そして。
「パキィィィン!」
鋭い破裂音が、本殿の奥から響いた。
全員が一斉に振り返る。
続けて――
「ミシィィッ!」
木が裂けるような音が梁から響き、驚いた鳩たちが一斉に羽ばたき飛び立った。
次の瞬間、低いうなり声が境内を満たした。
自然の音でも、機械の音でもない。
形を持たない声が、頭の奥に直接触れるように忍び込んでくる。
「な、何だよ今の……」
誰かが囁く。
「録音じゃねぇのか?」
大智が無理やり笑おうとする。
だが麗愛は違った。
まるで幽霊を目撃した猫のように、目を大きく見開き、全身を硬直させていた。
「……人間じゃない」
麗愛は本能的に晴輝の前に立ちふさがる。
「古くて……記憶を宿す何か」
もし彼女の尻尾が見えたなら、それは空に突き立ち、耳はぴたりと頭に伏せられていたに違いない。
彼女は晴輝の手を放し、前へと進み出た。
低いうなりはますます大きくなる。
賽銭箱が震え、鈴縄が風もないのに揺れる。
そして――
梁に結ばれた御札が、突如として内側から燃え上がるように灰へと散った。
「ぎゃあああ!」
「呪われてる!」
「死ぬ、死ぬぞ!」
「霊だ!」
境内を埋め尽くす悲鳴。
生徒たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ惑った。
「落ち着いてください!」
山田先生の声が裂けるように響く。
「皆さん、後ろに下がってください!
ただの風です。建物の隙間を通ると音がすることもありますし、動物もいます。冷静に!」
普段の落ち着いた顔に、わずかな揺らぎが見えた。
それでも先生は平静を装う――しかし晴輝には、何かを知っている空気が伝わった。
その瞬間、隣を見れば麗愛がいない。
慌てて視線を走らせると、彼女は皆より一歩前に出て、神社の正面に立っていた。
瞳は拝殿ではなく、空を貫く一点を見据えている。
「麗愛!」
晴輝は駆け寄り、手を握った。
「何を見てるんだ?」
――本当は、聞きたくなどなかった。
麗愛は沈黙したまま、空を凝視している。
やがて、かすれた声で囁いた。
「……空に、ひびが入ってる。――私だけに見えてる」
Part 2
バスがごとごとと街へ戻ってきたとき、太陽はすでにビルの影に沈み、空には橙と紫の縞模様が広がっていた。
帰りの道中、誰も多くを語らなかった。
普段は騒がしい生徒たちでさえ、声を潜め、窓に額を寄せたり、スマホを弄ったりして時間を潰す。
――あの神社での出来事は、信じるかどうかを超えて、誰の心にも微かに残っていた。
何かがまだこちらを見ているような気配が。
バスを降りたとき、ようやく大智が口を開いた。
「なあ、アレってやっぱ誰かの仕掛けだろ? 隠しスピーカーとか磁石とかさ」
「鈴縄が勝手に揺れただろ」
「俺は御札が燃えるの見た。スピーカーじゃねえ」
「いや、ドローンでマッチでも落としたんだよ」
大智は大げさに身振りをして茶化した。
その間も、麗愛は異様なほど黙り込んでいた。
帰りの道も、ずっと晴輝の手を握ったまま。
怖がっているわけではない。ただ、心の奥でざわついているのが分かった。
窓の外をぼんやり見つめる横顔は、どこか遠くに意識を置いているようだった。
「遠足はこれで終わりです。誰も怪我をしなくて何よりでした。……ただし、幽霊の噂をSNSに流すのはやめてくださいね」
そして一瞬、足を止め、声を落として告げる。
「……そして、あそこにはもう戻らないように。もし行くなら、必ず保護者と一緒に」
その視線が一瞬、晴輝を捉える。
まるで、何かを知っていることを認めるかのように。
そしてまた、いつものように冷静で、何も掴ませない態度で去っていった。
「先生、なんでいつも何か知ってるみたいなんだろうな」
大智が背中を叩きながら呟く。
もう夜が迫っていた。
誰も弁当を広げる勇気はなかった。――あんな神社の前で食べるなんて、考えただけで背筋が寒くなる。
「なあ!」
大智が手を叩いた。
「腹減ったやついる?」
「じゃあ、ラーメン食べに行こうよ。死の神社から生還したんだし、ご褒美に一杯くらい、いいでしょ」
一人の女子の声に、次々と賛同が重なった。
その横で、麗愛はまだ思索に沈んだまま、晴輝の隣に立っていた。
「麗愛、行くか? 飯食おう」
晴輝はそっと彼女の手を握り、気持ちを切り替えさせようとする。
美味しい食事なら、きっと心も少し和らぐはずだ。
「……ごはん?」
ぽつりと呟いた麗愛の耳がぴくりと動いた。
まるで魔法の言葉に反応したかのように。
晴輝はそのまま手を握り返し、静かに歩き出す。
――もう隠す必要など、なかった。
クラスの大半は、もうすでに勝手に「答え」を想像していることだろう。
だが――こうして彼女と一緒にいられることが、そんなに後ろめたいことだろうか。
そう思いながら、二人は手をつないで歩き出した。
後ろには数人のクラスメイトが続き、自然と大きなグループの寄り道となった。
太陽はまだ雲間にオレンジ色の光を落とし、街灯が灯るにはまだ少し早い時間だった。
「なあ、麗愛?」
「にゃ…なに、晴輝?」
麗愛は柔らかい声で応じる。
「今日は色々あったけど、調子はどうだ?」
麗愛はそっと手を握り返し、微かな笑みを浮かべた。
「大丈夫、晴輝。ずっと一緒にいてくれて、ありがとう」
みんなで大きなグループになって、にぎやかに言葉を交わしつつ歩くこと数分、ようやく目的地に着いた。
店内は騒がしく、熱気に包まれ、人でぎゅうぎゅうだった。
窓は立ちのぼる湯気で白く曇り、店員たちは厨房へ向けて威勢よく注文を飛ばしている。
漂ってくる香りだけで、ここが絶対に美味い店だと分かる。
奥の笑顔の男性が手を振り、角のテーブルへと案内してくれる。
皆が席につくと、麗愛はぴょんと晴輝の隣に座り、テーブルの下で彼の手を握った。
指先から伝わる温もりに、心がほっと沈む。
「ここ……天国みたいにいい匂い」
麗愛の目は輝き、音や匂い、厨房から立ち上る香りのすべてに胸を躍らせていた。
さっそくメニューをめくる様子は、新しい漫画を読むような楽しげなものだった。
「わあ、こんなに味の種類があるの! 晴輝!『地獄の龍火ラーメン』ってなに!? すっごく美味しそう!」
「それ、多分内臓が溶けるぞ」
晴輝は注意を促したものの、麗愛にとっては脅しにならない気がした。とにかく念のためだ。
「大丈夫、私なら平気!」
麗愛は軽くテーブルを叩きながら宣言した。
「普通のやつの方がいいんじゃないのか」
慎重に提案し、危険を回避しようとした。
「わかった……じゃあこれにする」
麗愛はナルト入りの塩ラーメンを指さした。
「ナルト多めで!」
大智が反対側から身を乗り出す。
「ね、麗愛ちゃん。お箸は使えるんだ?」
「もちろん!」
彼女は誇らしげに答える。
「昨日ここに来たんじゃないんだから」
箸を手に取り、まるで短剣のように大智に向けて構える。
その妙な迫力に、見ている方は思わず笑ってしまう。
「だめだ、クナイみたいに持ってる!」
大智は慌てて声を上げた。
「じゃあ、指南を頼もうじゃないの、未熟者よ!」
箸を軽くテーブルに置き、挑戦的に言い放った。
その混乱の最中、店員がやってきて眉をひそめる。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
「地獄の龍火ラーメン!」と麗愛が即答する。
「ちょ、待て――」
晴輝は一瞬麗愛に言いかけたが、すぐに店員に向かい直す。
「いや、塩ラーメンでナルト多めにお願いします」
「ひどい……」
麗愛は目を細めてつぶやく。
注文が通ると、まず飲み物が届いた。麗愛はメロン味のソフトドリンクを頼んでいた。
「わあ、これって何てすごい飲み物なの!?」
彼女は声を上げ、ひと口飲む。
「メロンソーダだよ」
「晴輝、これ家でも飲みたい!」
晴輝は、周りに悟られないよう麗愛の発言をさえぎるようにして、慌てて自分のアイス烏龍茶を差し出した。
「こっちも……飲んでみて、ね!」
麗愛は嬉しそうに、両方の飲み物を口に運ぶ。
もはや、学校外で二人が一緒にいることを隠すのは難しいと晴輝は悟った。
他の女子たちは冗談だと笑っていたが、麗愛はいたって真剣だった。
料理が届き、丼がテーブルにどんどん並べられると、会話は幽霊の話から成績や週末の予定に移っていった。
何時間も食事をとっていなかったので、皆ほっとしている様子だった。
麗愛の前に丼が置かれる。
透明なスープに、ナルト、卵、海苔が静かに佇み、その美しさに彼女は見入った。
「きれい……にゃあ」
湯気の香りを嗅ぎ、鼻をピクピク動かしながらそうつぶやく。
「やっぱり、元気が出るのはいつだって食べ物だな」
晴輝はそう言ったが、なんだか微妙に複雑な気持ちになった。
自分より食べ物の方が麗愛を喜ばせているのか、それとも安心していいのか、よくわからなかった。
――これからは、さりげなくおやつを鞄に忍ばせて、彼女の気分を少しでも保てたらいいな、と思った。
普段は晴輝と毎日箸を使っているので、もう扱いに不自由はないはずだった。
しかし、ときおり不思議な動作を見せることがある。
例えば、食べ物が大きすぎると、彼女はそのまま突き刺して口に運ぼうとするのだ。
餃子が目の前に運ばれると、案の定、彼女は箸を突き立てた。
「こら、刺しちゃだめだ」
晴輝は耳元で小さく注意する。
「でも、こっちの方がやりやすいんだもん!」
麗愛は嬉しそうに声を弾ませた。
食卓に夢中な周囲の人々は、麗愛の奔放な行動に気づくことはなかった。
だが、彼女の笑顔は確かに戻っていた。
神社で見せた、遠くを射るような目は消え、いつものきらめく瞳が輝いている。
「少しは元気になったみたいだな」
晴輝が声をかける。その脇で、大智は辛さに涙を浮かべつつラーメンと格闘していた。
麗愛は晴輝をじっと見つめた。
「私はあの場所、あんまり好きじゃない……何かが待ってる気がしたの」
「何を待ってたんだ?」
「……私かもしれない」
箸先でラーメンを軽くつつきながら、彼女は付け加える。
「でも、これを食べてると、なんだか心がほっとする」
晴輝は自然と笑みを浮かべた。
その瞬間、世界は再び平穏な日常の色を取り戻す。
夜が静かに過ぎていく中、皆は笑いながら食事を楽しみ、穏やかな時間を過ごしていた。
やがて遅くなり、皆が会計を済ませ、それぞれの道へ向かって別れた。
大智は先ほどバスで隣になった黒髪の女の子にちょっかいを出しつつ、家まで送ると申し出た。
彼女は少し戸惑いながらも、礼儀として愛想笑いをするだけだった。
麗愛と晴輝は手をつなぎ、静かな夜道を歩いた。
雨に濡れた舗道は街灯に照らされ、黄金色の光を揺らめかせる。
麗愛はそっと身体を寄せ、歩くたびに腕が触れ合った。
恐怖ではなく、ただ側にいたいという気持ちで腕を絡めているのが伝わる。
麗愛はわずかに微笑み、見上げる――普段は見せない、柔らかな笑顔で胸が高鳴った。
頭のあたりからかすかな振動が伝わり、猫が喉を鳴らすような音が聞こえる。
「にゃあ」
麗愛は満足そうに腕にすり寄った。
晴輝には、今の二人の関係の正確な形は分からなかったが、特に気にする必要もないように思えた。




