第二章 – 砕けた記憶のかけら
家に戻る頃には、空はだんだん薄暗くなっていて、オレンジや紫の柔らかなパステル色に染まっていた。
帰り道、レナは少し黙り込んでいた。探検の高揚が疲労に変わったのだろう。足取りもゆっくりになり、耳も垂れている。
「疲れた?」
鍵を開けながら声をかける。
レナは言葉を発さずにうなずく。その尻尾はゆったりと、のんびりと揺れていた。
「色々あったもんな」
中に入る彼女に向かって言った。
「少し休んだほうがいいよ」
「眠りたくないにゃ…」
レナは小さく囁き、視線を下に落とす。
「眠っている間にもっと忘れちゃったらどうしよう…」
その言葉には、心配そうな響きが混じっていた。
答えは出なかった。ただ、温かい目で彼女を見つめて言う。
「だったら、俺ができる限り覚えていられるよう手伝うよ」
レナは数秒、予想以上にじっとこちらを見つめた後、慌てて顔を背けた。
「……人間って、変なの」
心の中で考えながらも、この子の優しさに少し戸惑う。出会ったばかりなのに、どうしてこんなに親切なのだろう。
人間はみんなこんな感じなのか、それとも自分だけに特別に親切なのか…。
考えを止めた直後、彼女はベッドに飛び乗った。猫のように遊び心で弾ける仕草だ。
くるくると体を丸め、柔らかい毛布に包まれると、シーツに触れた瞬間、ほとんど眠りに落ちた。
その夜、レナは再び毛布に丸くなり、ブランケットをまるで守りの繭のようにぐるりと巻きつけた。
耳が一度ぴくりと動いたあと、静かになり、言葉はほとんど発さず、かすかなあくびと小さなため息だけが聞こえた。顔を布に埋め、平穏で安らかな様子だ。到着して以来、こんな姿は初めて見た。
そっと周りを動き、電気を消し、カーテンを半分閉める。
そして前夜と同じように、数歩離れた場所に畳マットを広げる。床は足下でわずかに軋むが、レナはびくともしない。
毛布をかぶり、横向きで彼女に向かって横たわる。
窓から差し込む月明かりと星明かりは柔らかく白く、部屋の中に淡い光を落とす。
毛布の外にちらりと見える、彼女の尻尾のシルエットもはっきり見えた。
「なんだか、変な感じだな…」
思わずつぶやく。
水無月晴輝。
まだ高校生の俺は、女の子とほとんど話したことがなかった。
そんな俺のベッドに、突然かわいい猫耳の女の子がもたれかかってきた。
当然、もう自分のベッドで寝られるわけもない。
同じ家で暮らしている女の子の隣で眠るなんて、色々な意味で含みがありすぎる。
レナは特に気にしていないようだったけど、もしかしたら誰かと一緒に暮らすことに慣れているのかもしれない。
俺は、彼女が俺と一緒に暮らすことをどう思っているのだろう、と考えながら、ゆっくりと眠りに落ちそうになった。
まあいいか。少なくとも、女の子と友達になれたって言えるし――妖怪猫娘だけど、それでも女の子には違いない。
美しい猫娘がいるなら、女友達が全くいないよりはずっとマシだろう。
出会ったばかりの頃とは、俺たちの間の静けさも変わっていた。
もう気まずくはない。
温かい、心地よい、そしてどこか懐かしい静けさだ。
「おやすみ、レナ」
小さく囁く。
「……おやすみ」
かすかに、ためらうような声で返事をする。
何か言いたいことがあったのかもしれないけど、言葉が出なかったのか。あるいは夢の中で呟いただけで、俺が深読みしているのかもしれない。
目を閉じる。
俺は床に敷いた布団の上で、ゆっくりと眠りに落ちていく。
レナのベッド――いや、実際はレナが自分のものに決めた俺のベッドの隣で。
時間が過ぎるにつれ、彼女が小さく動く音が聞こえた。
毛布のやわらかなざわめき。
かすかなゴロゴロ。
鋭い息遣い。
そして再び静寂。
また、耳や尻尾がぴくりと動く。
まるで猫そのものだけど、同時に人間らしい動きでもある。
彼女は落ち着かない様子だった。
見えない何かが、心の奥深くで彼女を引っ張っているかのように。
俺は仰向けになり、天井を見つめる。
彼女が大丈夫かどうか、それを気にしている自分も眠れない。
きっとここでの生活は、彼女にとって相当奇妙なことなんだろう。
「疲れてるだけだ」
暗闇に向かって囁く。
でも心の奥では、それを信じきれていない自分がいた。
やがて、眠りと心配の間で揺れながら、俺は意識を手放した。
気づかぬうちに、ほんの数歩先で、レナの意識はもう夢を超えた世界へと滑り込んでいた。
闇。
無重力で、冷たい。
彼女は色のない虚空の中に漂っていた。体は形を持たず、まるで砕けた水晶の欠片のように散らばっている。声が届かない距離でささやく。柔らかく、遠く――まるで別の人生の残響が、忘れ去られた記憶の端にそっと触れるかのように。
そして――
脈打つ鼓動。
閃光。
突然、彼女は両世界の間に宙吊りになった自分を見た。腕を大きく広げ、口は無言の叫びで開かれている。
周りのあらゆるものが、崩れ落ちていく。
彼女は空間を落ちていく――二つの世界をつなぐ光のポータル。紫色に輝き、眩しいほどの光。落ちるたび、彼女は自分の欠片を向こう側に残していった。
欠片。
鮮やかな青い光を放つそれらは、まるで水晶の破片のようだった。
自分の一部――笑い声、悲しみ、名前。
どれもガラスのようにひび割れ、覚醒した世界には存在しない色で輝く。
ひとつひとつが感情で脈打ち、感覚で光る。
ただの記憶ではない。――それは、彼女そのものだった。
温かい手。
銀色の水晶の鍵。
額に触れるキス。
炎。
叫び声。
走る足。
落ちる身体。
破片たちは彼女の周りを回転し、次第に速度を増していく。そして、夢の中心に渦巻く渦――ポータルへと引き寄せられていった。
「いや…行かないで…待って…!」
手を伸ばす。
だが指先は空をすり抜け、無力で、重みのないままだった。
そして、レナ自身が落ち始める。
最後に残ったひとかけら。そこには笑顔のわたしがいた。
目を閉じ、穏やかに微笑んで――そして深淵の中に消えた。
レナは、その欠片と共に落ちていった。
はっと息をのんで目を覚ます。胸は激しく上下し、心臓はまるで本当に落ち続けていたかのようにバクバクしている。体は温かく、シーツに絡まったまま。かすかに木々の香りと夜風の残り香が空気に漂っている。月明かりが窓から差し込んでいた。部屋は静かだった。
彼女はゆっくりと起き上がり、髪を肩に垂らしながら、耳を不安げにピクピクと動かす。前日のままの服が少し汚れてきていた。
「夢……?」
でも、それは夢のようには感じられなかった。本物のようだった。何か神聖なものが、ただ奪われただけでなく、粉々に砕かれ、散らばってしまったかのような感覚。彼女は胸に手を当て、呼吸を整えようとした。
髪はベッド中に散乱し、尾は慌てて動き回り、心のざわめきを映していた。やがて目が床の方へと向く。彼女は下のマットにいる人影を見つめた。
まるで夢の中の出来事のようだった。人間と一緒に暮らし、人間の隣で眠っているなんて。でも、彼は確かにここにいる。本物だ。助けてくれたあの少年が。落ち着かない心を抱えつつ、そう思った。
彼は薄い畳のマットにぎこちなく丸まって寝ている。折りたたんだ毛布を枕代わりに、腕を組み、片脚をマットの端から垂らして。
穏やかで、無防備。
「また、私のそばにいてくれたんだね……」
彼女は小さく呟いた。視覚の残像に心を揺さぶられながらも、毛布を体にきつく巻きつける。だが胸の奥の何かが、少し柔らかく、温かくなるのを感じた。
「不思議な人間にゃ……」
尾を膝の周りに巻きつけると、自分を抱きしめているような安心感があった。
「でも……優しい人。」
しばし、彼女はただ彼の寝息や、体が動くたびに漏れるかすかな鼾を見つめていた。そして、ほんのり微笑むと、再び横になり目を閉じる。
「……レナ。この名前は、忘れないようにする。」
彼が与えた名前。それは特別で、この世界で唯一、自分のものだと感じられる何かだった。
夜はほぼ明けかけていた。レナは長い間、用意されたベッドに座ったまま、ただじっと目を覚ましていた。
眠ろうとしても、今回はなかなか眠りに落ちることはできなかった。胸の奥に、夢の断片がこだまのように残っている――。
最後に残ったのは、自分の笑顔だけが、あまりに鮮明に焼き付いた記憶だった。それは、説明できない痕のように胸に刻まれていた。
彼女はゆっくりと立ち上がる。隣で眠る者を起こさぬよう、動作は優しく慎重だった。呼吸はゆっくり、規則的。穏やかで、人間らしい。
部屋は依然として静かで、窓から差し込む低い月光が淡い青と灰色の影を壁に落としていた。空気には、まだ語られぬ記憶のように埃が漂う。
しばし、彼女は胸に腕を組み、夜の静寂に耳を傾けた。セミの声は消え、世界は……まるで止まったかのようだった。時間さえも息をひそめているかのように。
そっと、彼女は床を滑るように歩く。まるで忍び寄る家猫のように。音は立たず、尾は思慮深く床に垂れ、スーっと後ろを引きずった。
彼女は自分がいる部屋を見渡した。思い出せないせいか、まるで自分の家とは別世界にいるように感じられた。
部屋は広く、大きな木枠の窓が開け放たれていて、外の草原が見える。その先には森が広がっていた。
レナは窓の外に目を向けた。外はすべて緑に包まれ、満月の光に照らされていた。草原は広く、草は背丈ほどに伸びている。背景の森は濃く深かった。その景色は、どこか彼女がもと居た場所に似ている気もした。
再び部屋に視線を戻すと、彼女はその奇妙な物たちや持ち物を探るように見回した。
ベッド脇の棚のそばには、漫画本が不揃いに積まれていた。半開きの引き出しからは、折りたたまれたシャツがちらりと顔を出している。部屋の隅の棚には小さな鉢植えが置かれていて、手入れされずに葉が垂れていた。ここにあるすべてのものが、彼女には見知らぬ世界のもののようで、まったく異質に感じられた。
レナは木の床を静かに歩きながらクローゼットへ近づいた。扉をそっと開くと、かすかに軋む音がした。
中にはさまざまな服が並んでいた。ほとんどはTシャツや色あせたダークカラーのパーカーだった。しかし、ひとつだけ彼女の目を引くものがあった――無地の白いTシャツ。少ししわが寄り、長年の着用で生地は柔らかく伸びている。大きく見えた――彼女には少し大きすぎる。……でも、そういうものなのかもしれない。
彼女は手を伸ばし、生地に指を触れた。温かい。どこか懐かしい。綿にはかすかに彼の匂いが残っていた――清潔で、杉の香りと、何か説明のつかない、人間らしい香り。
なぜか理由はわからなかったが、彼女はそのシャツを手に取り、胸に押し当てた。安心できる、そしてどこか懐かしい感覚があった。――借りても、きっと怒らないよね。
しばらくして、彼女は自分の借り物のトップスを脱ぎ、月光が肌や曲線をすっかり覆うのを許した。冷たい銀の光が鎖骨に沿い、背中の曲線を辿る。それはまるで夜そのものの指先が触れるかのようだった。
長い金色の髪は肩に波打ちながら流れ、月光に照らされてまるで絹の糸のように輝いている。しばし、彼女は窓から差し込む柔らかな光に包まれて立ち尽くした――裸でありながら、恥じる様子はなく、ただ思索にふけり、迷っているような表情で。
尾が静かに揺れる中、彼女はシャツを頭からかぶった。
生地はゆったりと体を覆い、裾は太ももの上部をかすめる。大きめだが、ところどころで体に沿う。綿は胸の膨らみに優しく沿い、首元は鎖骨の繊細なラインをわずかに見せる。袖は肩を越えてたゆみ、ゆったりと心地よく、胴回りはしっかり寄り添いながら、腰からは自然に落ちていく。
彼女は自分の姿を見下ろした。
大きすぎる――でも、なぜか完璧に自分に合っているように感じられた。
頬がわずかに紅潮した――恥ずかしさからではなく、胸の奥に生まれた不思議な温かさからだった。胸の奥で小さく弾むような感覚。彼女は無意識に裾を引っ張り、生地が曲線の上で揺れる感触を確かめる。自分でも、この感覚が何なのかよくわからなかった。
それでも、嫌な気はしなかった。
そっと窓へ歩み寄り、引き戸をゆっくりと開ける。
窓枠にもたれかかるように身を寄せ、外を見渡す。今、彼女のシルエットは星明かりと柔らかな綿生地に縁取られていた。草原の向こうに広がる森が、再び彼女を呼ぶ――今度は柔らかく、静かに。まるで森も、変化に気づいたかのように。
そしてほんの一瞬――この世界に属するという感覚がどんなものか、想像してみた。
彼の服を着ること。
この静けさの中で生きること。
ここに留まること。
夜明けの気配が空を淡く染め始めたが、草原の先に広がる森は、まだ影に包まれていた。木々の間を漂う霧が、まるで手の指のように彼女へ伸びてくる。柔らかく、誘うように……あるいは、警告するように。
――これが、かつての私の世界の姿だったのだろうか……
答えを期待しているわけではない。ただ胸の奥にまた、あの奇妙な痛み。「私」と「忘れてしまった私」の間にある距離。
再び部屋の中に目を戻すと、視線は机に止まった。
一本のペンが、古びたノートの横に斜めに置かれている。表紙は折れ、色あせ、角は長年の使用で反り返っていた。どうやらかつて学校で使われていたものらしい。最後の数ページはまっさらなままだった。
彼女はそっと手を伸ばし、その頼りなさそうなノートを、そっと手に取った。
白紙のページを開き、じっと見つめた。紙はどこか威圧的に感じられた。
そして、慎重に指を動かしながら、書き始めた。
レナ
最初はただ、その名前だけ。
そして、また。何度も。
レナ
レナ
レナ
そう書くたびに、その文字の線に迷いはなくなり、書くたびに自分のものになっていくように感じられた。
ページに手を置き、指先でインクをたどる。
「レナ」
「たとえ忘れてしまっても……これがあれば……」と、彼女はそっと呟く。
この大事な名前を失いたくなかった。
この名前は特別で、彼女にとって意味があった。助けてくれた少年がくれた、新しい自分の名前だった。
夢は、すでに朝霧のように端から薄れはじめていた。
しかし、あの感覚は残った。
大切な何か、尊い何かが、すり抜けていくような感覚。
ページをめくり、もっと書こうと手を動かすと、手はわずかに震えた。
しかし、出てくるのは半ば途切れた言葉ばかりだった。
あいまいな音。
確かなものは何もない。
真実も、何も。
もどかしさに、彼女は筆を止めた。
ノートを胸に抱きしめ、そっとつま先で布団まで戻る。再び同じ場所で丸くなり、ノートを慎重に枕のそばに置いた。まるで忘れないためのお守りのように。手はノートの上にそっと置かれたまま、離せずにいた。
そして、ようやく、彼女は再び目を閉じた。
「……レナ」
今度はもっと小さな声で、そっとつぶやく。
「これが、私……だよね?」
外では、そよ風がかすかに吹き抜けた。
そして一瞬、遠く暗闇のどこかで柔らかな鈴の音が響いた。
今度は、眠りに落ちても、悪夢は追いかけてこなかった。しかし、あの重み――見たものの余韻――は、まだ胸の中にあった。




