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第一章 ― 始まりの神社

プロローグ ― 去りし狐


すべては、一匹の狐から始まったと言われている。

黄昏と愛によって生まれた、優しい魂を持つ精霊。

その慈しみに満ちた心は、多くの者たちに正しく理解されることはなかった。

彼女は風のように軽やかに動き、柔らかな囁き声で言葉を紡ぐ魔法の存在だった。

その瞳には、幾千もの生涯を越えて刻まれた物語が宿っていた。

そして銀色の髪は、夜空を流れる天の川のように静かに輝きながら揺れていた。

彼女が人間の世界へ降り立ったのは、誰かを傷つけるためでも、誰かを騙すためでもなかった。

ただ――それよりも遥かに危険なものに導かれたのだ。

愛。


薄い境界の向こう側へ足を踏み入れた理由を、知る者はいない。


孤独に耐えられなくなったのかもしれない。

あるいは、ただ純粋な好奇心に突き動かされたのかもしれない。

それとも、何かが彼女を呼んでいたのかもしれない。

星々の下で踊る人間たちを眺め続けることに飽きてしまったのか。

彼らの胸の奥で燃える情熱に、いつしか惹かれてしまったのか。

もっと何かを求めて――彼女は定命の者たちが暮らす世界へと降り立った。

狐火から作られた絹の着物をまとい、月の光が静かに降り注ぐ夜。

彼女は一人の人間の男と出会った。

男は、彼女の尾を見ても身を隠さなかった。

彼女が放つ奇妙で強大な力を前にしても、怯えることはなかった。

ただ彼女の瞳を覗き込み、そこに見つけたのは――

愛するべき一人の女性だった。

二人は人の目から隠れるように、丘と丘の間にひっそりと暮らした。

そして毎日を、まるでそれが最後の日になるかのように大切に過ごした。

彼女は持てるすべての愛と献身を込めて、その男を大切にした。

そして、彼の不器用な仕草や、どこか抜けたところに何度も笑顔をこぼした。

二人は星空の下で互いを抱きしめながら生きた。

男は誓った。

命が尽きるその瞬間まで、彼女を守り抜くと。

やがて時が流れ、彼女の中には新たな命が宿った。

生まれた少年は、父親から受け継いだ優しい瞳を持っていた。

そしてその血の奥深くには、母から受け継いだ強大な魔力が流れていた。

しかし――

秘密というものは、永遠に沈黙していることはできない。

そして世界は、自分たちが理解できないものに対して、あまりにも残酷だった。

司祭たちが彼女のもとへ訪れた時、彼女の姿は青い光の炎の中へと消えていった。

彼女は精霊の世界へと帰ったのだ。

けれど、その前に。

残された我が子を守るため、自らの力を分け与え、その存在を隠した。

少年は成長していった。

自分が何者なのか、その本当の意味を完全には理解できないまま。

それでも、彼には分かっていた。

人々は自分を恐れている。

彼の血の中で何かが目覚めていることを、誰もが感じ取っていた。

彼は――彼らと同じ存在ではないのだと。

彼の母は、最初に境界を越えた者だった。

しかし、最後の者ではなかった。

そして今。

再び、境界は薄くなっている。



第一章 ― 始まりの神社


憂鬱で、終わりの見えない雨だった。

一日中、絶え間なく降り続いた雨は、もう諦めようと思ったその時になって、ようやく少しずつ弱まり始めた。

厚く空を覆っていた雲はゆっくりと消えていき、その隙間から太陽が顔を覗かせる。

長く伸びた黄金色の光が、森の小道一面に降り注いでいた。

ようやく田舎道での日課の散歩を楽しめるようになり、僕は今日はいつもより少しだけ森の奥へ入ってみることにした。

家の裏に広がる大きな山には、巨大な木々が立ち並び、誰にも知られていないような隠れた道がいくつも存在している。

僕は普段から時間を見つけてはこの場所を探索し、毎回違う道を選んで歩くようにしていた。

今日も特に変わったことはない――そう思っていた。

ただ、一つだけ。

森がまるで、僕がここへ探しに来た何かを見つけるのを待っているような、不自然な静けさがあった。

さらに奥へ進むにつれて、靴の下で砂利が荒々しく擦れる音が響く。

この奇妙な場所で、僕が一人きりなのだと気づかせる唯一の音だった。

森のさらに深い場所へ入ると、空気には新鮮な松の香りと、長い年月を重ねた苔の匂いが混ざっていた。

それに加えて、どこか甘い、不思議な香りも漂ってくる。

もし僕の勘違いでなければ――これは、焚かれたばかりの線香の匂いだった。

……おかしい。

ここを知っている人が、他にもいるなんて聞いたことはない。

黒いフード付きジャケットのファスナーを上げ、僕は荒れた道をさらに進んだ。

伸び放題になった枝が、まるで鋭い爪のようにこちらへ伸び、進むのを阻もうとしている。

濃く茂った草木を押し分けるたび、長い髪に枝が絡みついた。

何度も引っかかりながら、それでも前へ進み続け、僕はようやく森の奥へと入り込んだ。

この森には、小さな廃れた神社があり、そこには場違いなほど巨大な鳥居がある――そんな噂があった。

こうした人の目から隠された珍しい場所は、昔から僕の興味を引いていた。

その神社の場所を教えてくれたのは、村に住む少し年老いた女性だった。

彼女は僕にこう言った。

「その神社の精霊たちを邪魔してはいけないよ。あそこにいるものたちは、今でもまだ眠りにつけずにいるからね」

僕はいつも、人々が昔から信じてきたこうした古い伝説を聞くたびに笑っていた。

生まれてからずっと神社の近くで育ってきたというのに、神様や精霊なんてものを本気で信じたことは一度もなかった。

さらに植物をかき分けながら進んでいくと、やがて僕は不思議な空間へと辿り着いた。

そして――

そこにあった。

崩れかけた巨大な鳥居が、小さな神社を見下ろすように立っていた。

蔦や棘に覆われたその姿は、どう考えても過去から取り残された遺物だった。

今にも崩れ落ちそうなほど古びていて、この場所に存在していること自体がどこか不自然だった。

似たような神社なら、これまでにも見たことがある。

でも、ここは違った。

理由は分からない。

ただ――空気の中に何かを感じていた。

近づいてよく見ると、色褪せた赤い鳥居には、かすかな彫刻が刻まれているのが分かった。

雨に削られ、長い年月にさらされたせいで、その記号はほとんど読み取れない。

鳥居の足元には、大きな石灯籠がいくつも置かれていた。

ひび割れた灯籠の内部では、普通ではありえない青白い光が、静かに脈打つように明滅していた。

僕は冷たい空気を深く吸い込み、疑う気持ちを抑えようとした。

何か理由があるはずだ。

きっと説明できる何かが――

そう思った瞬間だった。

空気が突然、重くなった。

僕の吐息は白く濁り始め、周囲の温度が急激に下がっていく。

顔を上げると、鳥居の柱の間に、かすかな光が浮かんでいるように見えた。

――バキィィッ。

ガラスが砕け散るような音が、静寂を切り裂いた。

鳥居の下にある何もない空間が、波紋のように揺らぎ始める。

最初ははっきりとは見えなかった。

けれど、そこには確かに何か円形のものが形作られ始めていた。

紫と藍色の光が空を染める。

そして鳥居の間に、巨大なポータルが開いた。

その中からは聞いたことのない異様な音が響き、中心からは電気が悲鳴を上げるように走っている。

これは、僕が今まで見たどんな嵐とも違った。

風が激しく吹き荒れ、木々から葉や枝を次々と吹き飛ばしていく。

空に広がる色鮮やかな光はさらに強さを増し、やがて目を逸らすことすら難しいほど輝き始めた。

雷が鳥居の中心を貫き、火花が弾ける。

まるで――

現実そのものが破られ、解き放たれるべき何か巨大な力が溢れ出しているようだった。

恐怖に押されて後ろへ下がりながら、僕は何が起きているのか理解できずにいた。

近くの茂みに手を伸ばし、体を支える。

その瞬間、風が森を引き裂くように吹き抜け、僕は不意を突かれた。

すべての轟音が、頭の中の思考をかき消していく。

――何の前触れもなく。

ドスンッ。

何か大きなものがポータルから落ちてきた。

それは僕の目の前の地面へ叩きつけられるように現れた。

一見すると、普通の少女に見えた。

けれど――何かが明らかに違っていた。

まるで長い間水の中にいたかのように、彼女は必死に空気を求めていた。

柔らかな地面に膝をつき、息を整えようともがいている。

長い金色の髪が乱れ、身体の周りへ流れ落ちていた。

彼女が身につけているのは、巫女装束によく似た古い伝統的な衣服。

けれど、最も目を引いたものは――

髪の間から伸びる、一対の柔らかな猫の耳だった。

淡い金色の毛に覆われた耳は、彼女の頭の上で小さく震えていた。

彼女が僕を見上げる。

その金色の瞳には、強烈な感情が宿っていた。

恐怖、混乱、そして警戒。

背後では、ふわりとした黄色い尾が不規則に揺れている。

それは彼女の動揺そのものを映し出しているようだった。

目が合った瞬間――

彼女は突然怯えたように後退し、四つん這いのまま驚くほどの速さで距離を取った。

石灯籠の根元へ身を押し付けると、濡れた苔の地面へ指を深く食い込ませる。

そして震える声で言った。

「こ……ここは、どこなの……?」

息を切らし、混乱に満ちた声。

その話し方には、僕の知らない不思議な訛りがあった。

僕はできるだけ早く答えようとした。

でも――

目の前で起きている出来事を前に、僕は何一つ言葉にすることができなかった。

「――ねえ、待って。あなたは、誰なの?」

彼女は再び答えを求めるように問いかけた。

けれど、次の言葉を口にする前に――

突然、彼女の身体から力が抜けた。

そのまま濡れた苔の上へ崩れ落ち、ゆっくりと意識を失っていく。

そして彼女は、静かに目を閉じた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーー


しばらくの間、僕はあまりにも長くその光景を見つめ続けていた。けれど、ようやく我に返り、目の前で何が起きているのかを理解した。


地面に倒れ、意識を失っている少女。


巫女のような服を身にまとった猫の耳を持つ少女が、あの鳥居から落ちてきたのだ。


落下の衝撃で衣服は破れ、泥や土で汚れている。その装束は、どう見てもこの場所のものではなかった。


金と赤の模様で縁取られた不思議な衣服。

その片方の袖は裂け、傷ついた肩が露わになっていた。

きっと、あの鳥居を通り抜けた時に怪我をしたのだろう。

僕は彼女の隣に膝をつき、生きているかどうか確かめた。

すると、彼女が短く息を吐くたびに、頭の上の耳が小さく震えるのが見えた。

地面に横たわったまま、時折身体をぴくりと動かすその姿は、まるで悪い夢にうなされている猫のようだった。

大きな尾は泥で汚れながら彼女の隣で丸くなり、眠りについた彼女と同じように、力なく横たわっていた。

つい先ほどまで激しく吹き荒れていた風は、いつの間にか止んでいた。

空に存在していたはずのポータルも、ほとんど何の痕跡も残さず消えている。

ただ、鳥居が触れた周囲には、かすかな焦げ跡だけが残されていた。

けれど何よりも――

その鳥居の下には、僕が今まで一度も見たことのない少女が残されていた。

彼女は、人間と猫、その両方の特徴を持っているように見えた。

半分は人間。

半分は猫。

そんな存在だった。

もしかして……伝説に出てくる妖怪なのか?

僕は自分の信じてきたものと向き合いながら、どうにか別の可能性を探そうとした。

けれど、目の前にある証拠をどう説明しようとしても、答えは見つからなかった。

僕は認めざるを得なかった。

これは、普通の出来事ではない。

そして彼女が、この近くのどこかから来た存在ではないことも明らかだった。

「……こんなの、現実じゃない」

本能が僕に告げていた。

逃げろ、と。

彼女を置いていけ、と。

そして、何も起きなかったことにすればいい、と。

来た道を戻るのは簡単だった。

これはただの夢だったのだと、自分に言い聞かせることもできた。

でも、僕はもう一度彼女を見た。

彼女は怯えていた。

傷ついていた。

彼女をここへ送り込んだものが何であったとしても、それは彼女自身の意思ではない。

……このまま彼女を一人で置いていくことなんてできない。

再び雨が降り始めた。

そして、もうすぐ暗くなる。

この判断が正しいのか分からないまま、僕は身をかがめ、彼女の身体の下へ腕を差し入れた。

そっと抱き上げる。

すると、彼女は思っていたよりもずっと軽かった。

抱きしめるように支えた身体からは、温かな熱が伝わってきた。

――熱が出始めていなければいいけど。

彼女の頭を僕の肩へ預け、僕は立ち上がった。

そして、来た道を戻り始める。

抱えたまま転ばないよう、慎重に足を進めた。

途中で一度立ち止まり、後ろを振り返る。

そこには、僕が見つけた時と同じように、神社が静かに佇んでいた。

まるで、何も起きなかったかのように。

誰も、ここで何かが起きたなんて疑うことはないだろう。

家へ着く頃には、空はまるで洪水のような激しい雨を降らせ始めていた。

雨は波のように屋根へ叩きつけられ、遠くでは雷が響いている。

それでも、その音は不安を感じるほど近くに聞こえた。

靴を脱ぎ、肩でドアを押して閉める。

彼女は帰り道の間ずっと眠ったままだった。

けれど、首の後ろに感じる規則正しい呼吸が、彼女がまだ生きていることを教えてくれていた。

階段を上るのは思った以上に大変だった。

それでも何とか自分の部屋へ辿り着き、僕は彼女をベッドの上へそっと寝かせた。

すると、彼女の耳が再び小さく動き始めた。

絶え間なく響く雨音に反応しているようだった。

少しためらいながら、僕は手を伸ばし、湿った髪を彼女の額からそっと払った。

体温は、まだかなり高い。

「……もしかして、これが妖怪ってものなのか?」

でも、彼女は一体何者なんだ。

そして僕は、何をこの家へ連れてきてしまったんだ?

本当に彼女は、別の世界から来た妖怪なのか。

それとも、空に開いた穴から落ちてきた精霊の少女なのか。

答えの出ない疑問ばかりが頭の中を巡った。

僕はクローゼットから予備の畳を引きずり出し、ベッドの横の床へ敷いた。

薄い畳を通しても、木の床の冷たさが伝わってくる。

外の嵐の影響で、家全体が揺れているように感じた。

……今夜、眠るのは難しそうだ。

目を閉じ、頭の中を駆け巡る考えを何とか追い払おうとする。

けれど、何時間経っても眠ることはできなかった。

何度も寝返りを打ち続け――

午前3時頃。

ようやく雷の音は遠ざかり、雨も弱まり始めた。

疲れ果てて、もう目を開けるaことすら難しい。

それでも、僕は必死に意識を保とうとした。

やがて長い夜は、静かな朝へと溶けていく。

そして、僕の意識が途切れる、その直前。

彼女の瞳が、ゆっくりと開いた。


Part 2


木製の雨戸の隙間から、柔らかな朝日が静かに差し込んでいた。

その光は、部屋の中のものをかろうじて確認できる程度の明るさだったが、布団の上で何かが動いているのははっきりと分かった。

僕はすぐに身体を起こした。

すると、床で一晩過ごしたせいか、首や肩が固まったように痛みを感じ、思わず顔をしかめる。

嵐はすでに遠ざかっていた。

残されたのは、雨上がり特有の新鮮な匂いだけ。

もし――

僕の隣にいる存在がいなければ、昨日の出来事すべてがただの夢だったのだと思っていたかもしれない。

猫耳の少女は、すでに目を覚ましていた。

金色の髪は寝起きでひどく乱れ、布団は腰のあたりで丸まっている。

大きな琥珀色の瞳は好奇心に満ちていて、僕の部屋の隅々まで興味深そうに見回していた。

「……起きたんだね」

僕と目が合う。

互いの瞳には、同じように疑問が浮かんでいた。

僕たちはしばらくの間、何も言わずに見つめ合った。

すると彼女は怯えたように手を胸元へ伸ばし、服の布地を強く握りしめた。

背後では、大きな尾が不安そうに揺れている。

「わ……私……ここ……?」

声は少しかすれていた。

昨夜の出来事から、まだ完全には回復していないようだった。

「ここはどこなの!?」

「僕の家だよ。昨日、森の中の神社で倒れている君を見つけて、ここまで連れてきたんだ」

「……」

「森の中の……神社……?」

「鳥居の真下に突然ポータルが開いて、そこから君が落ちてきたんだ。空からいきなり落ちてきたから、正直かなり驚いたよ」

彼女は自分の服へ視線を落とした。

破れて泥まみれになった袖。

傷ついた身体。

それを見つめた瞬間、彼女の表情から感情が消えた。

そして、後頭部へ手を伸ばす。

何かを探すように触れ――

「……分からない」

「落ちた時に頭を打ったとか、何かあのポータルを通った時に起きたのかもしれない」

「分からない……何も……」

「じゃあ、名前は?」

彼女はゆっくりと首を横に振った。

そして目を閉じ、必死に何かを思い出そうとする。

「ごめんなさい……分からない。どれだけ集中しても……何か、大切な記憶が抜け落ちているみたいで……」

彼女は僕を見つめた。

その瞳の奥には何もないように見えた。

混乱と不安だけが浮かんでいる。

「……私は、誰なの?」

その問いに、僕は何も答えられなかった。

何を言えばいいのか分からなかった。

僕にできることなんて、ほとんどない。

それでも――

「一緒に探そう」

そう言うことだけはできた。

彼女は少しためらった。

僕の言葉を信じていいのか、迷っているようだった。

しばらく考えたあと、彼女は小さく頷いた。

「……分かった」

「それなら、きっと役に立つものがあると思う」

彼女を一人にして、僕は階段を下りた。

朝食を作るためだ。

昨日から何も食べていなかったことに気づいたし、彼女もきっと空腹だろうと思った。

数分後。

階段を下りてくる小さな足音が聞こえた。

柔らかく、静かな足取り。

まるで家の中を歩く猫のようだった。

階段の途中で彼女は立ち止まり、手すりの向こうから顔を覗かせる。

僕が台所で準備をしている様子を、興味深そうに眺めていた。

そのふわふわした尾は、楽しそうに揺れている。

「降りてきてもいいよ。……お腹空いてる?」

「にゃぁ……お腹、空いた?」

それが、彼女から初めて聞いた猫のような声だった。

小さな「にゃぁ」という響き。

まるで彼女だけの独特な話し方のようだった。

「うん……空いてる」

「分かった。何か作るよ」

少し恥ずかしそうに階段を下り、彼女は部屋へ入ってきた。

そして行儀よく椅子に座る。

僕が冷蔵庫の中を探している間、彼女は興味津々にその様子を眺めていた。

そして新鮮なマグロと卵を取り出した瞬間、彼女の表情が少し明るくなる。

カウンターに置かれた食材の匂いを感じ取ったのか、耳が嬉しそうに動いた。

一人暮らしをしていたおかげで、料理くらいはできるようになっていた。

母さんがここにいなくて本当に良かった。

もしこの状況を説明することになったら、きっと大変なことになっていただろう。

僕は簡単な朝食を作った。

ネギトロ丼。

ご飯の上に刻んだマグロを乗せ、そこへ新鮮な青ネギと卵を添える。

最後に甘い醤油を少し垂らして完成だ。

「本当に運が良かったね。君を見つけたのが僕で」

僕は器を彼女の前へ置いた。

「ほら、食べてみて。きっと気に入ると思う」

彼女は目を大きく見開いた。

顔を近づけ、まるで初めて見るものを観察する子猫のように料理を見つめる。

何度か匂いを確かめたあと、ようやく納得したように耳を立て、料理へ手を伸ばした。

「これ……本当に……私の?」

「この部屋にいる猫娘は、君しかいないからね」

僕の言葉に、彼女は少しだけ力の抜けた笑顔を見せた。

その表情には、純粋な感謝が浮かんでいた。

「……こんなもの、食べたことがある気がしない」

彼女は横に置いてあった箸には一切触れず、そのまま器から食べ始めた。

僕に見えるのは、金色の髪と、口に運ぶたびに揺れる耳だけだった。

あっという間に食べ終えると、彼女は椅子にもたれ、満足そうに息を吐いた。

……食べ物が好きだったことだけは、覚えているのかもしれない。

「ありがとう……」

「もしかして、箸を使ったことない?」

彼女の耳がしゅんと下がる。

急に自分の行動が恥ずかしくなったようだった。

「ごめんなさい……それが何なのか分からなくて。それに……すごくお腹が空いていたから……」

「はは、今回は許すよ。でも次は覚えてもらわないとね」

「……うん」

僕たちはしばらく沈黙した。

まるで、気まずい初対面の二人が向かい合っているような空気だった。

「それで……何か少しでも思い出した?」

僕がそう聞くと、彼女はまっすぐ僕を見つめたまま首を横に振った。

その表情が少し暗くなったのを見て、僕は聞いたことを少し後悔した。

「……何も思い出せない。たぶん……どこか別の場所にあった感情や気持ちだけは、少し残っている気がする。でも、どれだけ頑張って思い出そうとしても……全部ぼやけていて……」

「ごめん……それは辛いよね」

「……うん」

再び長い沈黙が流れた。

僕は、これ以上この話を続けるのは良くない気がした。

少しでも空気を変えて、彼女の気持ちを軽くしてあげたかった。

「それなら――名前を決めないとね」

そう言うと、彼女は少しの間考え込んだ。

すると、耳がぴんと立ち、いたずらっぽく笑う。

「にゃあ〜! まあ、それもそうだよね。いつまでも『猫娘』って呼ばれるわけにはいかないもんね」

彼女の皮肉に思わず笑いそうになるのをこらえながら、僕は微笑んだ。

少し考えてから、突然テーブルから立ち上がる。

そしてテレビの方へ歩いていった。

最近見た番組の中で、ある名前が頭に浮かんだ。

長い金色の髪を持ったヒロイン。

その名前は、なぜか彼女によく似合う気がした。

「分かった。じゃあ……麗愛っていうのはどう?」

その瞬間、彼女の大きな尾が嬉しそうに揺れ始めた。

目を細めながら、彼女はその名前をゆっくり考える。

「麗愛……うん。悪くないと思う」

小さな笑顔が彼女の顔に浮かんだ。

まるで大切な贈り物を受け取ったように、彼女は僕を見つめていた。

僕がしたかったのは、ただ彼女が自分を見失ったままにならないようにすることだった。

名前を与えることは、そのための大切な最初の一歩だと思った。

「本当の名前じゃない気はするけど……でも、いい響きだね」

「じゃあ、麗愛で決まり」

「ありがとう、人間さん。私に名前をつけてくれて」

少しからかうような声色で、彼女は意味ありげに僕を見つめた。

その瞬間、僕は大事なことを忘れていたことに気づく。

「そういえば……僕の名前を言ってなかったね」

「僕は晴輝」

「にゃあ〜。分かった、人間さん。晴輝だね」


朝食を食べ終えたあと、麗愛は僕についてきて、裏庭へ続く引き戸の前まで来た。

彼女の小さな裸足が、床の上を軽やかに進む。

そこで僕は気づいた。

彼女は靴を持っていない。

それどころか、着替えの服すらない。

……これは、どうにかしないといけない問題だ。

引き戸を開けると、太陽の光が一気に差し込んできた。

暖かな光が肌を包む。

麗愛は僕の後ろから外へ出ると、眩しそうに目を細めながら辺りを見回した。

「すごく……明るい!」

彼女は尾を持ち上げて目元を隠し、その隙間から慎重に外の世界を覗いている。

そしてしゃがみ込み、水たまりへ指を伸ばした。

不思議そうに触れながら、初めて見る世界を確かめるように観察している。

「何もかも……違って見える……」

少し間を置いて、彼女は呟いた。

「……少なくとも、そんな感じがする」

その時だった。

突然、一群の鳥が庭へ降りてきた。

草の上にいた一匹の虫を取り合うように、鳥たちは急降下してくる。

次の瞬間――

麗愛の姿が消えた。

いや、正確には。

彼女は一秒にも満たない時間で庭を駆け抜けていた。

軽やかに柵へ飛び乗り、まるで何事もなかったかのように完璧な姿勢で着地する。

柵の上でバランスを取りながら、彼女は鳥たちを見つめていた。

まるで遊び相手を見る猫のような目で。

僕は、今起きたことに言葉を失った。

「……麗愛!」

自分が何をしたのか気づいたのか、彼女は気まずそうに僕を見下ろした。

驚いた鳥たちは、慌てて飛び去っていく。

「ご、ごめん! わざとじゃないの……なんというか、勝手に身体が反応して……」

彼女は柵から飛び降りる。

そして、草の上へ音もなく着地した。

ゆっくりこちらへ歩いてくる彼女の尾は、まだ嬉しそうに揺れている。

僕は驚きを隠せなかった。

「今……2メートルくらい跳んだよね?」

「うん……私も、そんなことできるなんて知らなかった」

僕は思わず笑った。

彼女の猫のような一面を見るのは、なんだか不思議で面白かった。

同時に、彼女がここへ来る前はどんな存在だったのか、ますます気になった。

「つまり……君には何か力が――」

僕を見上げながら、彼女は少し誇らしそうに微笑んだ。

その視線は、ほんの一瞬だけ僕の上に留まる。

「……何?」

「いや……君、僕よりずっと背が高いよね」

「それに、僕よりずっと高く跳べるってこと?」

彼女は小さく笑い、照れたように顔を隠そうとする。

「人前では、今みたいに飛ばないようにしないとね」

「にゃあ〜……でも、なんで?」

「人間の世界では、妖怪を見ることに慣れている人なんてほとんどいないからね。可愛いふわふわした耳や尻尾がある女の子がいたら、少し変に思われるかもしれない。それに、空高く跳んだりしたら……さすがに怪しまれると思う」

少し頬を赤くしながら、麗愛は視線を横へ逸らした。

その耳が小さく震えている。

彼女は僕から目を逸らしたまま、小さな声で独り言のように呟いた。

「……分かった。晴輝が可愛いって思ってくれるなら、それでいい」

「それはそうと、怪しいと言えば……君の服の問題もどうにかしないとね。なんというか……かなり特徴的というか……」

僕の言葉を聞いて、麗愛は自分の服へ視線を落とした。

もともと露出の多い不思議な衣装だったが、今はさらに破れていて、泥や汚れまでついている。

この格好のまま外へ出るのは、さすがに問題がありそうだった。

「でも……他に何を着ればいいの?」

「とりあえず僕のパーカーを貸すよ。それなら、少なくとも迷子になった巫女さんには見えないと思う」

僕は麗愛を連れて部屋へ戻り、階段を上って自分の部屋へ向かった。

クローゼットを開ける。

何か新しいものを見つけるのが楽しみなのか、麗愛はすぐに目を輝かせ、最初に目に入った黒いジップパーカーを手に取った。

「にゃあ〜! これがいい!」

幸い、その大きめのパーカーなら彼女の身体のほとんどを隠すことができた。

問題は下に履くものだった。

何を渡せばいいか少し考える。

「ちょっと待ってて。すぐ戻るから」

鏡の前で自分の新しい服を確認する麗愛を残し、僕は部屋を出た。

そして廊下を挟んだ向かい側――妹の部屋へ向かった。

正直、あまり頻繁に入ることは好きではなかった。

そこに入ると、どうしても彼女がいなくなったことを実感してしまうからだ。

明るい色でまとめられた部屋を見回し、僕は引き出しの中から黒いジャージの短パンを取り出した。

伸縮性があるものだから、きっと麗愛でも履けるはずだ。

電気を消し、僕は部屋を後にする。

静かな空気だけが、いつものようにその部屋へ戻っていった。

自分の部屋へ戻ると、麗愛はまだ鏡の前にいた。

服がどんな風に見えるのか確認するように、いろいろなポーズを取っている。

大きすぎる袖を触ったり、フードを引っ張ったりしながら、彼女の表情には純粋な好奇心が浮かんでいた。

そしてフードを頭まで被ると、片足を後ろへ上げるようなポーズをしてみせる。

「これ……好きかも!」

「それなら良かった。じゃあ、今度は汚れた服を脱いで、それも履いてね」

僕が短パンを渡すと、麗愛はそれをじっと見つめた。

そして意味を理解したように、小さく頷く。

僕は着替えるために部屋を出た。

しばらくして――

「晴輝……準備できた」

声が聞こえた。

「よし。暗くなる前に町へ行こう」

僕はそう言って彼女を見る。

「もっと普通の人間の服も必要だし、それ以外にも色々揃えないとね」

僕たちはその後一時間ほどかけて、町の端からゆっくり歩き回った。

本来ならもっと早く終わるはずだった。

けれど、麗愛は目に映るすべてのものに興味を奪われていた。

「にゃあ〜! あれは何!?」

「自転車に乗っている人だよ。まあ、乗り物みたいなものかな」

「難しそう……」

「実際はそれほど――」

「なんであの建物、自分で動いてるの!?」

「あれは自動ドアっていうんだ。近づくと勝手に開いて、中に入れるんだよ」

「そっか……。生きてるのかと思った」

麗愛は僕の隣を歩きながら、僕の腕にしっかりと掴まっていた。

何かに驚くたびに――そしてそれはかなり頻繁に起こった――彼女はびくっと身体を跳ねさせ、僕の肩の後ろへ隠れる。

見つけた赤いヘアゴムで、彼女の耳は髪の下に隠していた。

けれど、無理やり押さえつけるように結んでいるせいで、耳の部分が頭に当たっているらしく、その周辺の髪が変な方向へふくらんでしまっている。

どうやら本人はかなり気に入らないようだった。

数秒おきに、彼女は不満そうに髪を直している。

「にゃあ〜……! かゆい……本当に隠さないとダメなの? なんか頭の中をぐちゃぐちゃに結ばれてるみたいな感じがする……」

「外にいる間だけ我慢して。誰かに耳や尻尾を見られるわけにはいかないから」

幸い、尻尾を隠すのは簡単だった。

大きめの黒いパーカーの中へしまえば、ほとんど目立たない。

よく見ようとしなければ気づかない程度だった。

後ろから見れば、太ももまで隠れるほど大きなジャケットを着ている女の子にしか見えない。

急いで揃えた服だったけれど、結果的にはかなり様になっていた。

「どうして人間は、そんなに厚い服を着るの?」

麗愛は自分の服を見ながら首を傾げる。

「なんだか、熱いタオルに包まれているみたい……」

僕は少しいたずらっぽく笑いながら彼女を見る。

「だって、君みたいに最初からふわふわしたものを持ってる人ばかりじゃないからね」

「私はそんなにふわふわじゃない……」

そう言いながら、麗愛の顔は少し赤くなった。

彼女は隠している尻尾をそっと掴む。

その時、スカートの後ろで何かが動いた。

隠れているはずの尻尾が、彼女の感情を表すように勝手に揺れている。

町の中心へ近づくにつれて、麗愛はさらに僕へ寄り添うようになった。

車が横を通るたび。

バスが大きな音を立てて走り抜けるたび。

彼女は不安そうに僕の腕を強く握る。

それでも、彼女の瞳は驚きと好奇心でいっぱいだった。

周囲のものすべてを、細かく観察している。

特に彼女が強く興味を示したのは――

自動販売機だった。

彼女はまるで獲物を見つけた猫のように、そこへ視線を固定していた。

「なんであの箱、光ってるの? 中に瓶が入ってる……」

「自動販売機っていうんだよ。それぞれの中には違う飲み物が入ってるんだ」

「人間の魔法みたい……」

そう呟きながら、彼女は建物の横にある金属製の手すりへ指を滑らせた。

そのまま近くにあるゲームセンターの窓越しに、中を覗き込む。

そして、何かに気づいて足を止めた。

そこに並んでいたのは、景品が入ったクレーンゲームの列だった。

中に詰まったぬいぐるみや玩具を見た瞬間、麗愛は驚いたように息を飲む。

アームが降りていくたびに、彼女は嬉しそうに身体を跳ねさせた。

まるで自分がゲームに挑戦しているかのように夢中になっている。

結局、僕は彼女をそこから離れさせるために、少し強引に引っ張る必要があった。

そのまま歩道を進んでいくと、日向でのんびりしている猫たちの集まりを通り過ぎた。

すると、不思議なことが起きた。

猫たちは一斉に身体を起こしたのだ。

麗愛の姿を見た瞬間、すべての視線が彼女へ向けられる。

彼女が通り過ぎても、何匹かはその姿を追い続けていた。

そのうちの一匹は、興味深そうに後ろをついてくる。

麗愛は猫たちに聞こえてしまうのではないかと思ったのか、僕の耳元へ顔を寄せ、小声で囁いた。

「にゃあ〜……なんであの子たち、ずっと私を見てるの?」

「もしかしたら、君が王女様みたいに見えるんじゃない?」

「まあ……優雅って感じがするのかもね、私」

そう言って、彼女は顎を少し上げ、誇らしげに歩き始めた。

けれど――

次の瞬間。

縁石につまずき、危うく郵便受けへ突っ込みそうになる。

「本当に優雅だね、猫のお姫様」

倒れる前に腕を掴んで支えると、麗愛は頬を膨らませながら体勢を整えた。

「違うの! あの猫たちに気を取られてただけ!」

ようやく町の市場エリアへ辿り着く。

そこには古い屋根の下で、いくつもの提灯がゆらゆらと揺れていた。

木の床が軋む、落ち着いた雰囲気の店が並んでいる。

頭上では柔らかな音楽が流れ、この場所だけは昔ながらの伝統的な空気を今も残していた。

静かな衣料品店へ入ると、そこには様々な服やアクセサリーが並んでいた。

麗愛の瞳が輝く。

期待と、少しの戸惑いが混ざった表情だった。

彼女にとって、見たことのないものばかりだったのだろう。

たくさんの情報に圧倒されているようにも見えた。

それでも僕の腕をしっかり掴んだまま、彼女は耳元で囁いた。

「これ……全部何なの……? ここで服を手に入れる場所なの?」

少し不安そうな表情で、彼女は見慣れないものを慎重に眺めていた。

どれか一つを手に取ることさえ迷っているようだった。

「にゃあ……すごい……」

「お店っていうのはね、気に入ったものを選んで、試してみる場所なんだよ」

「じゃあ……何を選べばいいの?」

「君が好きなものを選べばいいよ。ただ……あまりにも『魔法の猫娘です』って感じが出すぎるものは避けた方がいいかな」

「でも……その方が楽しいのに!」

少し緊張がほぐれたのか、麗愛は並んでいる服を見始めた。

そして一枚のベージュのセーターを手に取る。

「ほら、これなんてつまらないと思わない……?」

そう言って、冗談っぽく舌を出した。

「私だって、この世界の可愛い女の子みたいに見られたいんだから」

その後も何度も服を見比べ、理想の組み合わせを探していた。

そして、もう見つからないかもしれないと諦めかけた、その時だった。

彼女の目に、一つの服が映った。

細い肩紐の黒いタンクトップ。

少し大胆な首元のデザイン。

麗愛はそれを手に取り、自分の胸元に当てながら僕を見る。

眉を少し上げて尋ねた。

「これ……どう?」

「シンプルだけど……君が気に入ったなら、いいと思う」

「なんだか大胆で、ちょっとドキドキするにゃあ〜!」

いたずらっぽく笑いながら、彼女はその服を抱きしめた。

そして次の瞬間。

何かを思いついたように目を輝かせ、ラックから黒いプリーツスカートを取り出した。

少し制服のような雰囲気がある。

ただ、少し丈が短い。

それでもタンクトップと合わせると、カジュアルさの中に可愛らしさがある組み合わせだった。

「これも! 可愛いし、動いた時に綺麗に流れそう」

「試着してみる?」

僕が試着室を指差すと、麗愛の身体が少し固まった。

そして、不安そうな顔でそちらを見る。

「……あそこに?」

「うん。サイズが合うか確認した方がいいから。僕は外で待ってるよ」

「……嫌」

小さな声だった。

彼女は床へ視線を落とす。

「一人で入るの……嫌なの」

「気持ちは分かるけど、僕は一緒には入れないよ。でも、気に入ったならそのまま買おう」

「……分かった」

僕は彼女へ手を差し出した。

残りの時間を、もっと楽しいものにしたかった。

さっき彼女を困らせてしまったことが、少し申し訳なかった。

今まで経験したことのないことが、彼女にはたくさんある。

そのことを、僕はちゃんと分かっていなかった。

「行こう。君に必要なもの、もう少し探そう」

麗愛は数秒ためらった。

けれど、ゆっくり顔を上げる。

僕と目が合った。

そして――

小さな手を、そっと僕の手に重ねた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

麗愛は、まるで冒険のクエストを一つ達成したかのように、買い物袋を誇らしげに抱えていた。

片手にはメロンソーダ。

もう片方の手では、小さな猫のキーホルダーを嬉しそうに弄っている。

それは店員さんがサービスでくれたものだった。

麗愛はそれを気に入り、可愛らしく「ミスター・ウィスカーズ」と名付けていた。

「そろそろ帰らないと、遅くなるよ」

そう声をかけると、麗愛は少し前までの緊張した様子とは違い、すっかり落ち着いた表情で柔らかく笑った。

どうやら、彼女の気持ちを少しでも軽くするという僕の目的は、うまくいったみたいだった。

僕たちは市場を出て、来た道を戻り始める。

人通りの少ない町外れの道を歩きながら、麗愛は静かに僕の後ろをついてきた。

周囲の景色を眺めながら、ゆっくり歩いている。

「君の世界って、不思議だね……」

しばらくして、彼女がぽつりと言った。

「でも……私は、たぶん好きかも」

「そのうち慣れると思うよ」

そう答えると、麗愛は少しだけ黙った。

僕たちは町の外へ向かって歩き続ける。

そして、家へ戻るための荒れた道へ差しかかった頃には、空の光は少しずつ薄暗くなり始めていた。

夕暮れが森の奥へ静かに沈んでいく。

「……ありがとう」

「ん……何が?」

僕が振り返ると、麗愛は少し迷うように視線を落とした。

「私のことを……変なものみたいに扱わなかったこと」

「……」

「この世界にいるべきじゃない、みたいに思わなかったこと」

僕は足を止めた。

そして振り返り、彼女の方を見る。

「君は、そんなんじゃないよ」

そう言った瞬間。

金色の髪の下で、彼女の耳がゆっくりと動くのが見えた。

麗愛は顔を上げる。

そして、少し照れたような、小さな笑顔を浮かべた。


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