第9話:電撃逮捕
「見て……いたんですか? あの時」
リリスはようやく、そう口を開いた。
頭に浮かぶのは、あの時の光景。
雑貨店の二階から、馬上の彼が女性たちの人だかりを縫うように進んでいくのを、ただ見下ろしていた。
その時、ほんの一瞬だけ、彼と目が合ったけれど。
ただの意味のない、刹那のすれ違いだと思っていたのに。
「もちろん、覚えているよ」
イヴァヌエルが言った。
「あんなに凄まじい無表情で睨みつけられたら、誰だって印象に残るさ」
「……」
リリスはあらためて記憶を掘り起こしてみる。
あの時はむしろ、彼のあまりの美しさに圧倒され、我を忘れて見惚れていたはずだった。
自分なりにかなり驚き、感情を揺さぶられていた自覚もあったのに……。
それでも長年染みついてしまった無表情を薄めることはできなかったということになる。
リリスはなんだか無性に気恥ずかしく、そして切なくなった。
帝都で最も熱狂的な人気を誇り、時の人となっている『イヴァヌエル様』が、ほんの数瞬目が合っただけの自分のことを覚えていてくれたというのに、喜びの感情は微塵も湧いてこなかった。
逃亡の身でありながら、場違いな感傷にぼうっと浸ってしまう。
そんなリリスの意識を引き戻すように、イヴァヌエルの声がさらりと重なった。
「では大人しく、ついて来てくれないかい?」
とにかく、この男はまったく怯えていない。
リリスはそれを確信した。
先ほどのディアナや他の騎士たちは、リリスの体に電気が走っていること、そして彼女の傍に雷が落ちるかもしれないと知った途端、一様に緊張の色を隠せなかった。
だが、このイヴァヌエルという男には、そういった気配が一切感じられない。
リリスはふと不思議に思う。
この人は、命が惜しくないのだろうか。
いや、単なる虚勢かもしれない。
だが、少なくともリリスの目から見る限り、彼の表情にそのような色は欠片もうかがえなかった。
抵抗も説得も無駄であることを、リリスは理解した。
結局のところ、逃げるしかない。
その瞬間、再び雷の予兆が訪れた。
体の芯から突き上げるようなピリピリとした刺激が悪寒となって走り抜ける。
まるでそれを合図にするかのように、リリスは彼に背を向け、すぐさま再び逃げ出した。
「それが答えなんだね……」
背後から、独り言のようにイヴァヌエルの声がぽつりと響いた。
どこか、悲しみに沈んでいるようにも聞こえる。
それを振り切るように、リリスは無我夢中で駆け出した。
だが、すぐさま手首を掴まれる。
「放して……!」
叫ぶように声を上げる。
リリスが必死に振りほどこうと抵抗しても、彼の手はびくともしなかった。
まるで大人の男に掴まれた三歳の子供のように、リリスはただ圧倒的な無力感に包まれた。
緊張のあまり、リリスの体内から電気が漏れ出してしまう。
止めなければと思っても、もはや制御は効かなかった。
電流は、リリスの手首を掴んでいたイヴァヌエルの手に伝わり、そのまま彼の全身へと直に流れ込んだ。
感電――
彼の全身を走る電気のバチバチとした音が、リリスの耳にはっきりと届く。
だが、
「……え?」
リリスはすぐに異変を察知した。
手首を掴むイヴァヌエルの力が、いっこうに緩まない。
感電した衝撃で筋肉が硬直しているだけかとも思ったが、そうではなかった。
見ると、イヴァヌエルは全身から電気の火花を散らしていながらも、相変わらず悲しげな表情でリリスを見下ろしているだけだった。
意識を失う様子など見受けられない。
身長差ゆえに見下ろすような形で、彼の明澄な眼差しがぶれることなくリリスへと注がれていた。
「どうして……平気なの?」
リリスは思わず問いかけた。
驚きというよりは、ただ純粋に不思議でならなかったのだ。
「痛くないの? 怖くないの?」
すると、イヴァヌエルは淡々と答えた。
「平気なわけではないよ。痛いし、怖い。ただ……」
一瞬、彼はためらうような素振りを見せたが、すぐに言葉を継いだ。
「我慢強いだけだよ」
――そして、雷がもう一筋、落ちた。
何度目なのか、もう数えることすらできない。
とにかく確かなのは、これまでとは音も威力も桁違いで、あまりに激しい一撃だったということ。
悲鳴を上げることさえ許さない鋭い衝撃が、全身を縛り上げるように貫く。
轟音が鼓膜を突き破り、耳を伝って血管まで侵入してくるような、不可解な感覚に侵される。
次第に意識が遠のいていく。
ついさっき打たれた時は視界が真っ白に染まったが、今度は、すべてが真っ黒に塗り潰されていった。
「……?」
ふと、リリスは意識を取り戻した。
気を失ったという自覚さえないほど、一瞬のうちに意識を刈り取られていたらしい。
そして気がつけば、リリスはイヴァヌエルの腕の中に抱きかかえられていた。
慌てて逃れようとしたが、体にまったく力が入らない。
もはや指一本動かすことさえできなかった。
体から電気が漏れ出した際に、生気までもが一緒に流れ去ってしまったかのような、ひどい脱力感に襲われていた。
一方で、不思議と顔に雨が当たっていない。
嵐は一向に収まる気配がなく、激しい雨音が鳴り響いているというのに。
うっすらと目を開けて見上げる。
すると、イヴァヌエルが自分のマントを広げ、降り注ぐ雨を遮ってくれているのが見えた。
そのマントの下で、彼の体温と、清潔な匂いと、微かな獣臭が混じり合い、リリスの鼻をくすぐる。
「気がついたかい?」
イヴァヌエルの声が、甘く耳へと届く。
「死んでしまったのかと思ったよ」
「……」
『そのまま死んでしまったほうがましだっただろうのに』
と、なぜかリリスには、彼の言葉がそんな風に聞こえてならなかった。
リリスはもう抵抗することを諦めた。
何もかもを投げ出してしまいたい気分になったし、そもそも抗う力など残っていない。
もう、どうにでもなればいい――
ただ、ふと疑問が一つ浮かんだ。
それがどうしても拭えず、リリスは風前の灯火のようにわずかに残った気力を振り絞って、彼に問いかけた。
「さっき、同じ目の色をしているって……それ、どういう意味ですか?」
なぜなら、今こうして手を伸ばせば届く距離で見つめる彼の瞳は、どう見てもリリスのとは違ったからだ。
昼間の雑貨店で見たときと変わらない、琥珀色。
リリスの緑色の瞳とは、まるで異なる。
すると、イヴァヌエルはその悲し気な琥珀色の瞳を、さらに深く曇らせた。
そして、慈しむような優しい口調でこう告げるのだった。
「私の口が滑ったようだ。気にしなくていいよ」
「……」
気にしなくていい、か。
どうせ君はもうすぐ死ぬのだから――
リリスの耳には、彼の言葉がそんな風に響いた気がした。
けれど、知りたかった答えは聞けた。
もう思い残すことはないと、リリスは思う。
ふっと、憑き物が落ちたような潔い心地がする。
極限まで張り詰めていた緊張の糸が、一気に解けていく。
このまま死ぬのだろうな、という予感だけが静かに横たわる。
せめて最期が、こんなにも美しい男の腕の中なのだから、まだマシだと言えるのかもしれない。
そんな自嘲を心の中で呟きながら、リリスは抗いがたい眠気に身を任せ、重くなる瞼を閉じた。
そのまま、深く暗い意識の底へと落ちていった。




