第8話:夜逃げ(2)
***
なにも見えない。
そして、なにも聞こえない。
リリスは不思議なほど落ち着いた心持ちで、己の存在を確かめるように、意識を内側へ向けた。
だが、何も感じられない。
確かに雷に直撃されたはずなのに、痛みも衝撃もなく、まるで最初から何も起こらなかったかのようだった。
これまでの雷とは違い、それは不思議なほどに「静かな」雷だった。
そんなものが実在するかは分からないが、あまりの静寂ゆえに、かえって耳を弄するほどの喧騒を感じる。
その暴力的なまでの静寂に、リリスの全身は完全に呑み込まれていた。
ふと、意識を失ったのだろうかと推測してみるが、どうもそれとは違う。
視覚も聴覚も奪われ、五感による情報のすべてが遮断されている。
しかし、意識だけはかつてないほど明瞭に、鋭く研ぎ澄まされていた。
外部からの刺激が消失した分、自我という一点に強制的に意識が凝縮されているような感覚。
そんな、夢心地とも虚無ともつかない浮遊感に浸っていると――
やがて徐々に視覚が戻り始めた。
視界を埋め尽くす、真っ白なホワイトアウト。
それが少しずつ色を取り戻していく。
続いて、細く長い耳鳴りが遠い海のさざ波のように、彼女の鼓膜へと近づいてくる。
そして、前触れもなくすべての感覚がリリスへと回帰した。
突如として世界を塗りつぶした激しい豪雨の音。
視界をさえぎる雨脚の感触と、自身の荒い呼吸。
熱を帯びているのか冷え切っているのかも判然としない混濁した体温。
乾ききった口内。
そして、リリスの鼻腔を突いたのは、雷撃のあとに漂う——焦げ付いた大気特有の、刺すような異臭だった。
幸いというべきか、先ほどまで全身を焼いていた高熱は引いていた。
頭部にわずかな熱が残っているものの、首から下はすっかり冷え切り、今はただガタガタと歯の根が合わないほどの悪寒に襲われている。
(寒い……)
震えが止まらない。
無理もなかった。
ずぶ濡れの体で、五月の嵐にさらされているのだ。
リリスはさきほど脱ぎ捨てたフードを拾い上げ、深く被ろうとした。
だが、その指先が布に触れる直前、鋭い声が飛び込んできた。
「あそこです!」
聞き覚えのある声だった。
つい先ほどまで一緒だった巡邏兵のものだ。
視線を向けると案の定、彼である。
彼は一人ではなかった。
後ろに十人にも及ぶ人たちが控えていた。
彼らが手に持っている灯火が、その姿をはっきりと照らし出す。
全員が、質の良さを感じさせる群青色のウールマントを羽織っている。
深く被ったフードの影から注がれる視線は、形容しがたい圧迫感を放っていた。
(いつの間に……これほどの人数を……)
リリスはまず、自分の体の状態を確かめた。
不思議なほど傷一つなく、体も正常に動く。
彼女は迷うことなく、彼らとは反対の方向へ向かって一気に駆け出した。
走りながら、ふと背後を振り返る。
マントの一団が自分を追ってくるのが見えた。
その足は、恐ろしく速い。
このままではすぐに追いつかれる。
路地裏へ潜り込み、嵐と闇に紛れるしかない——
だが、目指す路地の入り口はあまりに遠かった。
不運なことに、今いる場所は帝都で最も広大な、遮るもの一つない中央広場だった。
リリスが逃げ場を見出す間もなく、マントの一団は瞬く間に彼女を包囲した。
もはや、立ち尽くすことしかできない。
どうすることもできずに身をすくめるリリスを飲み込むように、一団は円を描きながら、じりじりとその包囲を狭めてきた。
リリスは一か八か、二人の間を強引に通り抜けようとした。
しかし、即座にその両腕を固められてしまう。
その瞬間、パチッ! と激しい火花が散った。
目に見えるほどの強烈な電撃が走る。
二人は驚いて、リリスから手を放した。
リリスがそのまま隙を突いて駆け抜けようとした、その瞬間だった。
二人は一切の躊躇を見せず、一斉に剣を抜いた。
鼓膜を刺すような鋭い金属音に、リリスの身体は凍りつく。
先ほど雷に打たれた時よりもなお激しい恐怖が、彼女の心を塗り潰す。
剣を突きつけられる、そんな境遇に自分が立たされるなんて。
悪夢を見ているかのように思える。
「来ないで……」
リリスは震える声を絞り出し、マントの一団へ告げた。
「いつ私の周りに雷が落ちるか分かりません。私から、離れてください!」
だが、その警告を素直に聞き入れる者など、巡邏兵以外にはには一人もいなかった。
「団長」
剣を抜いた二人のうち一人が、声を上げた。凛とした女性の声だった。
彼女は一段の中心の人物へと、静かに問いかける。
「斬ってもよろしいでしょうか」
問いかけに対し、その人物が静かに応じた。
「だめだよ、ディアナ」
それは、穏やかで落ち着き払った男の声だった。
「魔女は火刑に処すと決まっている。必ず、生け捕りにしなくては」
「一体誰が決めたんですか?そんなこと」
「皇帝陛下さ」
「……」
二人は静かに剣を鞘へと収めた。
「ですが」
ディアナと呼ばれた女が、食い下がるように言葉を継ぐ。
「先ほども目撃された通り、この者の体には電気が流れています。生け捕りにするのは、非常に困難かと」
「どうかな」
団長と呼ばれた男が、事も無げに言う。
「やる前から無理だと断じるのは、騎士の流儀とは言えないよ」
「信じてください……!」
リリスは二人のやり取りに割って入った。
「本当なんです。もうすぐ、また私の近くに雷が落ちます。それが、分かるんです。危ないですから、お願いです、私から離れてください!」
リリスの必死の訴えに、一番近くにいた二人がたじろぎ、やがてゆっくりと後退りし始めた。
それを合図にするかのように、周囲の者たちもじりじりと彼女から距離を取っていく。
だが、たった一人だけは違った。
団長と呼ばれた男だけは、怯むどころか、むしろリリスの方へと一歩、足を踏み出した。
その迫りに気圧されるようにして、今度はリリスが後ずさる。
この男には、どんなに言葉を重ねても通じない――そう強く感じた。
説得を諦めたリリスは、再びその場から逃げ出そうと身を翻した。
だが、地を蹴ろうとした刹那、背後から声が届く。
「君が――『悪魔の子』なのかい?」
「……」
リリスが立ちすくんだまま沈黙でそれに応じると、男は静かに言葉を継いだ。
「電気を操る魔女がいるという噂を、かねがね聞いてはいたけどね。単なる作り話だと思っていたが……どうやら本当だったみたいだ」
男がさらに一歩、また一歩と歩み寄ってくる。
リリスは怯えて、胸元の襟をぎゅっと握りしめて身を固くした。自分を守ろうとする、せめてもの抵抗だった。
逃げ出そうという気力は湧いてこなかった。
この男を前にしては、どこまで逃げたところで無意味ではないか――そんな抗いがたい予感が、彼女の足を縫い止めていた。
実のところ、リリスは分かっていた。
この男が何者であるのか、気づいてしまっていた。
もちろん初めて聞く声だった。深く被ったフードのせいで、その素顔もまだ見えない。
だというのに、彼女の直感ははっきりと、目の前の男の正体を告げていた。
それをまるで、答え合わせでもするかのように――
男はゆっくりとフードを後ろへ撥ね退け、隠されていたその貌を露わにした。
「……イヴァヌエル」
リリスの唇から、その名がぽつりと零れ落ちる。
彼女の目の前に立っている男。
帝国の聖騎士団を統べる団長、イヴァヌエルその人であった。
(やはり……この人は、怖い)
リリスは、静かに戦慄した。
昼、雑貨屋の窓越しに眺めた時の印象と、寸分違わない。
「貴様……」
突如、先ほどディアナと呼ばれた女騎士が、再び前へと進み出た。
「団長の名を軽々しく口にするとは。その不敬、命で償う覚悟はできているだろうな!」
ディアナが再び剣に手をかけようとした。
するとイヴァヌエルが振り返ることなく、ただ片手を上げるだけで彼女を制した。
彼はリリスを見据えたまま、自分の部下に言葉を投げかける。
「この子の言う通りだよ、ディアナ。危ないから、下がっていなさい」
「で、ですが……」
「ディアナだけではない」
イヴァヌエルは声を張り上げ、周囲の者たち全員に言い渡した。
「全員、もっと下がるんだ。雷に打たれたくないのならね」
「ですが、それを言うなら団長だって同じはずです!」
ディアナが声を荒らげた。
「団長こそ、その者から離れてください」
「私は大丈夫だ」
「そんなわけないじゃないですか!」
ディアナが心底心配そうな顔で力説する。
「いくら団長が、帝都中の女性が惚れ込むほど格好良くて、前のリザードマン襲来事件をほぼお一人で食い止めたほどお強いとはいえ……流石に雷に打たれては、無事では済みません!」
「ディアナ副団長」
イヴァヌエルはようやくリリスから視線を外し、ディアナを見た。
そして、少し声を低めて言った。
「私は大丈夫だと、言ったはずだよ」
「……」
ようやく、ディアナが口を噤んだ。
イヴァヌエルがディアナの方を向いているため、リリスから彼の表情を窺うことはできない。
だが、その視線に晒されたディアナの顔から、みるみるうちに血の気が引いていくのを、リリスは感じ取っていた。
やがてディアナは「……申し訳ありませんでした」と、会釈とも目礼とも取れる仕草で謝罪し、そのまま素直に引き下がった。
彼女が退くと、他の部下たちもそれに倣って後退する。
リリスとイヴァヌエル以外の全員が、二人から十分な距離を置いた場所で待機することになった。
こうして、リリスとイヴァヌエルだけがその場に残される。
しばらくの沈黙。
どうしていいか分からず、リリスが立ちすくんでいると、やがてイヴァヌエルが先に口を開いた。
「雑貨店で見かけた時にも感じたけれど……」
彼が、リリスの方へさらに顔を近づける。
リリスは後ずさることさえ忘れ、目前に迫る彼の顔を、何かに魅入られたかのようにただ見つめるばかりだった。
「君」
イヴァヌエルが言った。
「私と、同じ色の目をしているね」




