第7話:夜逃げ
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外に出た瞬間、猛烈な雨風がリリスを叩きつけた。
天候は悪化の一途をたどっていた。
フードが引きちぎられそうなほどの豪雨。
もはや嵐と言っていい。
扉を閉めて十秒も経たぬうちに、全身がずぶ濡れになる。
まともな人間なら、この嵐の中、ましてやこんな深夜に外へ出ようなどと考えもしない。
あまりの悪天候に、リリスの口元から自嘲気味な笑みが漏れる。
だが、だからこそ、かえって安心できた。
(……この嵐なら、誰にも気づかれないはず)
そんな楽観が、冷え切った心をわずかに温める。
リリスは深く息を吐き、決意を固めて一歩を踏み出した。
街灯の火は全て消えている。
数少ない家々から漏れる微かな灯りだけが、通りを頼りなく照らしていた。
最初は視界もままならなかったが、次第に目が暗闇に慣れてくる。
リリスは、あらかじめ暗記しておいた地図を思い返した。
院長からもらった、帝都の裏道へ続くルート。
目的地はそう遠くない。
問題は、その後のことだった。
帝都の外へは一度も出たことがない。
壁の向こうに何があるのか、リリスには全くわからなかった。
がむしゃらに歩いたところで、どこかの村や街に辿り着けるのだろうか。
(道端で飢え死にするかもしれない……)
もらったお金はそれなりにある。
だが、携帯できる食料は一切持っていない。
こんなに不安になるくらいなら、院長にもっと根掘り葉掘り聞いておけばよかった。
後悔が胸をかすめるが、もう遅い。
とにかく、行くしかないのだ。
不安、焦燥、そしてかすかな希望。
混沌とした感情を抱えながら、リリスは一歩ずつ、着実に嵐の中を進んでいく。
思考に耽っていたせいか、あるいはただ放心していたのか。
人目に付くはずがないという油断もあったのだろう。
警戒が薄れ、ぼうっと足元だけを見て歩いていた、その時だった。
不意に、硬い衝撃が頭を打った。
「……っ!」
リリスは慌てて後ずさり、反射的に頭を下げた。
「ご、ごめんなさい!」
そのままそそくさと走り去ろうとしたが、案の定、鋭い声が飛んできた。
「君!」
むやみに逃げれば、かえって事態が悪化する。
結局リリスは足を止め、おそるおそる声の主の方へ向き直った。
「……はい」
そこに立っていたのは、昼間もよく見かける巡邏兵だった。
ガラスで火が守られた頑丈なランタンを提げている。
兵士はその灯りを、リリスの顔へと近づけた。
リリスの顔を確認すると、さらに声を厳しくする。
「……こんな時間に、一体どこを歩き回っているんだ。しかもこの嵐の中を」
「あ、あの……」
リリスは必死に言い訳をひねり出した。
「頼まれごとをして……届け物を」
「こんな真夜中に?」
「……」
「嘘を吐くな。君、まだ成人前だろう。ガキじゃないか」
「ごめんなさい」
巡邏兵は面倒くさそうに舌打ちをした。
「家はどこだ? どんな事情かは知らんが、とにかく帰るんだ。家まで送ってやる」
「あ……はい」
リリスはあっさりと諦めた。
ここで逃げれば、余計に怪しまれる。
幸い、この兵士に深く詮索する気はなさそうだった。
とにかく、大人しく従うしかない。
一度孤児院に戻り、脱出は明日に延ばそう。
そのまま踵を返し、兵士と共に歩き出そうとした、その時だった。
唐突に、近くで雷が落ちた。
辺り一面が、真っ白な閃光に包まれる。
数拍遅れて、空を割るような轟音が炸裂した。
音が物理的な圧力となって五体を揺さぶる。
大気を強引にひき絞るような凄まじい衝撃に、リリスは度肝を抜かれた。
これほどの雷鳴は、かつて経験したことがない。
隣にいた巡邏兵もさすがにたじろぎ、呆然と空を見上げる。
「……なんてこった」
震える声で、彼はそう呟いた。
リリスは、今夜のうちに帝都を発つことは無理だと理解した。
この荒天は、逃走の手助けになるどころか、命を危険にさらしかねない。
我に返り、巡邏兵が問いかける。
「……おい、もう行くぞ。家はどこだ?」
リリスが答えようとした、その瞬間だった。
強烈な予兆が、稲妻のように彼女の脳裏を貫いた。
確信に近い直感、あるいは、ある種の「予知」だった。
(また、落ちる……!)
間髪を入れず、二度目の雷が閃光を放った。
今度は遠くではない。
リリスたちのすぐ近くだった。
視界を焼き切るほどの光柱が、数ブロック先の地面を直撃する。
間を置かず、空間を裂くような爆鳴が追いすがる。
落雷を受けた石畳は砲弾を浴びたように爆砕し、激しい衝撃波が周囲をなぎ払った。
予感していたリリスは何とか耐えたが、巡邏兵はあまりの威力に腰を抜かし、無様な悲鳴を上げた。
たとえ屈強な成人男性であっても、抗いようのない恐怖を刻み込む一撃だった。
巡邏兵は辛うじて我に返ると、引き攣った表情のままリリスの安否を確かめようとした。
「君、大丈夫か!?」
彼がリリスの肩に手を伸ばした、その時だった。
リリスの体から電気が漏れ出し、触れようとした巡邏兵の手を弾き飛ばす。
「……うわっ!」
ピリッとする衝撃に、巡邏兵は手に持っていた提灯を取り落とした。
火が消えたが、なぜかあたりは暗くならなかった。
空を見上げたリリスは、その理由を悟った。
上空で絶え間なく空気が唸り、紫電が火花を散らしている。
その明滅のたびに、帝都の街並みが赤黒く、断続的に浮かび上がる。
狂ったように瞬く光の下で、リリスは巡邏兵の顔を見た。
そこには、隠しようのない恐怖の色が張り付いていた。
「君……まさか……」
彼は聞いた。
「悪魔の子、なのか?」
その言葉で、リリスは自らの異変に気づく。
いつの間にか髪を結んでいた紐が解けている。
金色の髪が逆立ち、猛々しくうねっていた。
弁明する気にはなれなかった。
正体を見られたしまったこともあるが、それ以上に、そんな余裕はどこにもなかったからだ。
(また来る……)
雷の予感は、まだ終わっていない。
(まずい。次は、もっと近い)
突然、体中の毛穴が逆立つような悪寒に襲われた。
総毛立つ肌に、無数の針を突き立てられるような、ひりつく感覚。
耳元でパチパチと放電音が鳴り響く。
そしてリリスが予見した通りの場所に、三度目の雷が炸裂した。
至近距離だった。
砕け散った石畳の破片が、足元まで転がってくる。
その時になってリリスは、ようやく気付いた。
(……私が、引き寄せてる?)
理屈ではない。
肌で感じられた。
渦巻く夜空の怒りが、今、自分一人に絞られていくのを。
リリスはふと、自分の足元を見下ろした。
巡邏兵はいつの間にか、彼女の前で蹲ったまま動けずにいる。
恐怖に完全に支配され、立ち上がる気力さえ失っているようだった。
(このままだと、この人が巻き込まれる)
リリスは冷徹に状況を測る。
まず自分の体の中には、常に電気が流れている。
だからこそ、あの雷に打たれても、おそらく耐えられる。
根拠はないが、確信に近い予感があった。
だが、この男は違う。
先ほどのような雷に打たれれば、ひとたまりもなく即死するだろう。
決断を下したリリスは、それ以上迷うことなく駆け出した。
まずは一刻も早く、巡邏兵から距離を置かねばならない。
しばらく走り続け、十分な距離を稼いだところで、リリスは一度後ろを振り返った。
巡邏兵はようやく立ち上がったようだが、逃げ去るリリスを追ってくる気配はない。
追うどころか、彼は彼女とは正反対の方向へ、なりふり構わず猛烈に逃げていた。
雷光が明滅するたび、その必死な後ろ姿が間欠的に浮かび上がる。
安堵したリリスは、走る速度を落とした。
どのような形であれ、巡邏兵を撒くことには成功したわけだ。
このまま目的地である帝都脱出の裏道へと直行すればいい――
そう思った矢先、
リリスはいきなり動けなくなり、その場に足を止めた。
身体が、内側から激しく熱を帯び始めたからだった。
「……熱い」
それは、風邪などの病による発熱とは明らかに異質だった。
リリスには、空中を流れる電気の激しい流れが、目に見えない糸のように自分に絡みついてくるように思えた。
逃れようのない芯からの熱が、すべてを焼き尽くすように襲いかかる。
あまりの熱さに、立っていることさえままならなくなる。
意識が混濁し、視界がぐらりと歪む。
激しい嵐の中でずぶ濡れになっているというのに、肌を伝う冷や汗がはっきりと自覚できるほど、ひどい悪寒が彼女を襲った。
(身体が……爆発しそう)
心底、そう思った。
熱い。
熱すぎて、感覚が麻痺していく。
リリスは堪らず、被っていたフードを荒々しく脱ぎ捨てた。
少しでも嵐の冷気に身を晒して熱を逃がそうとしたが、焼け石に水だった。
冷えるどころか、熱は刻一刻と増していく。
体内に溜まり過ぎた電気の魔力が、限界の水位を超えようとしているようだった。
そして、そこに最後の一滴を落とすかのように――
四度目の雷撃が、リリスの身体を真上から貫いた。




