第32話:電気の力
「……浄水?」
リリスは、アダムが口にした言葉をただ呆然と繰り返した。
意味自体は理解できる。
だが、これまでの人生で自らその単語を口にしたことは一度もなかったのではないかと思えるほど、どこか他人事のように感じられる言葉だった。
「浄水、だと?」
リリスがただ立ち尽くしていると、傍らの村長が関心を示してきた。
「あの汚れ切り、腐臭を放つ泥水を浄化すると、そう言ったのか?」
「はい、そうです」
アダムは頷いた。
「ちなみにお聞きしたいのですが、この村ではあの井戸の水を浄化しようと試みたことはなかったのですか?」
「無論、手をこまねいていたわけではない」
村長は僅かに語気を強めて言い返した。
「村の者全員が必死になり、領主様も率先してあらゆる策を講じてくださった。だが、何をしても全て徒労に終わったのじゃよ」
「例えば、どのような方法を試されたのでしょうか?」
村長は忌まわしい記憶を呼び起こすように、重苦しい口を開いた。
「細かい砂や砕いた木炭を何層にも敷き詰めた樽を作り、そこで水を通したり……不浄を祓うとされる神聖な薬草や白樺の樹皮を煮出し、混ぜ合わせたり……神父様の祈祷とともに、清められた銀の十字架を一晩中水に浸けたりもした。しかし、どれだけ手間をかけても、すべて無駄だった……」
語るにつれて、村長の顔はみるみるうちに歪んでいく。
幾度も繰り返された失敗の記憶。
その度に突きつけられた絶望が、ありありと脳裏に蘇ったのだろう。
「……皆様は、今できる限りの努力を尽くされたのですね。そのお疲れは痛いほど分かります」
アダムは深く頷き、言葉を続けた。
「木炭や砂を用いた濾過の試みは、非常に理にかなっています。しかし、あの強烈な匂いから察するに、原因は単なる泥や砂の混入ではありません。おそらく、動物の死骸や大量の植物といった有機物が水の中で腐敗し、その悪臭の成分や毒素が水そのものに溶け込んでしまっているのでしょう。そうした目に見えない汚れは、通常の物理的な濾過だけでは通り抜けてしまい、浄化するには限界があるのです」
ぼうっとした顔で説明を聞いていた村長は、みるみるうちに怒りで顔を赤く染めていった。
「一体何なんじゃ、君は……よそ者の分際で知ったような口を叩きおって!」
アダムのあまりにも冷静な口ぶりに、小馬鹿にされたように感じたのだろう。
リリスには、村長の抱いた苛立ちが何となく理解できる気がした。
「まあまあ、村長。どうか落ち着いて」
ふと声がした方を見ると、神父がすぐそばまで歩み寄ってきていた。
静かな声で村長を宥める。
そして、たちまちアダムさながらの冷静な表情を浮かべ、彼に向かって問いかけた。
「では、あなたはあの水を正しく浄水する方法をご存じだということですか?」
「はい。そうです」
アダムがあまりにも躊躇なく即答したため、村長も神父も一瞬言葉を失った。
リリスでさえ、その自信満々な様子に胡散臭さを覚えてしまったほどだ。
そして、彼は神父や村長ではなく、なぜかリリスの方へ真っ直ぐに視線を向けた。
それは極めて意図的な動作だった。
村長と神父、いや、広場にいる村人全員にわざと聞こえよがしにするかのように、彼はリリスを見つめたまま、声を張った。
「リリス様の電気の力があれば、浄水できます!」
その言葉が広場に響き渡った瞬間、全員の視線が一斉にリリスへと集中した。
またしても、無数の目を一身に浴びる羽目になる。
だが、今回向けられた視線の性質は、先ほどまでのそれとは少しばかり異なっていた。
地面に踏みにじられていた時に浴びせられたのは、魔女に対する恐怖や怒りといった、負の感情一色だった。
その憎悪の重圧をはっきりと感じ取れることが、リリスにはできる。
しかし今の視線からは、そうした明確な負の感情が幾分か薄らいでいた。
これまでの人生で、彼女は常に敵意ばかりを向けられてきた。
だからこそ、向けられる憎悪の強弱を本能的に測る術が身についている。
そんなリリスにとって、今のは、全く経験したことのない未知のものだった。
期待、困惑、あるいは……
その得体の知れない視線の集中は、かえってリリスの背筋に、ぞっとするような冷たい悪寒を走らせる。
「電気の力……ですか」
神父が戸惑いを孕んだ声で応じた。
「具体的に、その力を用いてどのように水を清めるというのでしょうか」
その問いに、アダムは神父だけでなく、広場にいる村人全員へと聞かせるように、よく通る声で丁寧な説明を始めた。
「電気の力を、水の中に直接流し込むのです。そうすることで、水に溶け込んだ目に見えない腐敗の元や、悪臭を放つ毒素を根本から分解し、焼き尽くすことができます。さらに、細かな汚れ同士を寄せ集めて塊にし、底へと沈み込ませることもできます。そうして泥や汚れを分離させれば、あの濁った水も必ず澄んだ姿を取り戻すはずです」
「……分解?」
神父も村長も、そして周囲を取り囲む村人たちも、まるで理解できていない様子で呆然としていた。
それはもちろん、当のリリスとて同じである。
「はい、電気で汚れを分解するのです」
彼らの困惑を容易に察したか、アダムが砕けた口調で説明を続けた。
「そもそも電気とは、万物を形作るとても小さな粒同士を結びつけたり、逆に引き離したりする強い力のことです。この世界のあらゆるものは、水であれ汚れであれ、目に見えないほど小さな粒が手をつなぐようにしてできています。そこに雷のような強い電気を流し込むと、その繋がっていた手が強制的に切り離される。それが『分解』という現象です」
ここでアダムは間を置いたが、割り込む声がなかったため、続ける。
「この力を水に用いれば、水の中に溶け込んでいる悪臭の元や腐敗した汚れの粒だけを引き剥がし、無害な気体にして空中に逃がすことができます。つまり、電気の力で汚れの結びつきを断ち切ることで、元の澄んだ水だけを取り戻せるというわけです」
「……なるほど。粒、ですか」
ひとまず合点がいったという様子で、神父が応じた。
彼は思案するように顎に手を当て、小刻みに、何度も頷きを重ねる。
聖職者とは神の教えを説くだけでなく、この世界の理を探求する学者でもある――リリスはかつて、そんな話をどこかで耳にしたことがあった。
その噂を裏付けるように、今の神父の顔からは先ほどの困惑が消え去っていた。
代わりに浮かんでいるのは、未知の知識を前にした熱心な学徒のような、真剣でありながらもどこか目を輝かせたような色だった。
彼が身を乗り出すようにして、アダムへと問いを重ねる。
「万物が極小の粒から成るというその説……確かに、過去に書物で目にしたことはあります。もっとも、それは教会の禁書に指定された古い異端の書であり、私自身、密かに頁をめくったに過ぎませんが。てっきり空理空論の類、ひとつの仮説に過ぎないと考えておりました。しかし、あなたはそれが事実だと、紛れもない真実だと言うのですね?」
「そうです、神父様」
アダムが眩い微笑みを浮かべて答える。
「その詳細を語ればひどく長くなってしまいますので、要点だけをお話ししましょう。この世界を形作り、常に活発に動かしている根源的な力は、大きく分けて四つ存在します。その四つの力の中で、電気の力こそが最も際立って特徴的であり、極めて重要な役割を担っているのです。他の三つの力は、星々を惹きつけ合うような巨大すぎる力であったり、逆に物質の奥底に閉じ込められた手出しできない力だったりします。ですが、電気の力だけは違います」
リリスは途中から全く話に追いつくことができなくなっていた。
しかもとにかく説明が長い。
たが、神父があまりにも熱心に聞いているものだから、黙って聞き続ける。
「電気は、水に溶けた不純物を分けたり、熱を生み出したり、光を放ったりと、我々の身の回りで起こるあらゆる劇的な変化起こします。先ほどお話しした、万物を形作る極小の粒の結びつき――それを唯一、我々の手で直接引き離し、自在に組み替えることができる力。それこそが、電気というエネルギーの持つ最大の特性なのです」
そしてアダムは、まるで決め台詞でも言い放つかのように、こう締めくくった。
「つまり、魔法のような力なのです!」
その言葉を聞いた瞬間、リリスはビクッと肩を震わせた。
アダムはただ純粋に、自分が知る電気という力の素晴らしさを熱弁しているだけなのだろう。
だがこの場においてその言葉はあまりにも不用意に思えてくる。
だが、リリスの不安を余所に、場の空気が険悪になることはなかった。
渇きのせいか、みんなもう怒る余裕すらなくなったのだろう。
それどころか、神父はなんだかひどく嬉しそうな様子を見せている。
「実に興味深い……」
神父の頷きに、段々と力がこもっていく。
「あなたはいったい何者なのですか? どこかの学者殿ですか?それとも、異端者? ……ああ、あなたとは今すぐにでも山のように語り合いたいところですが、残念ながら今の我々には、悠長に学問の議論を交わしているような余裕はありません。もし本当に、電気の力で井戸の汚水を浄化できるというのなら……どうか今すぐ、それを行っていただけないでしょうか」
「ええ、そうですね。今は長話をしている暇はありませんから」
アダムも真面目な顔で相槌を打つ。
もう十分すぎるほど長話したでしょうと、思わず突っ込みを入れたくなるりりすだったが、ぐっと飲み込む。
ともあれ話はあっさりとまとまり、二人の間では今すぐにでも浄水作業が始まりそうな前向きな空気が流れていた。
しかしそこへ、横から唐突に反発の声が飛んでくる。
「何を血迷っておられるのですか、神父様!」
村長だった。




