第31話:クエスト
汚水を飲んだ男が息絶えてから、どれだけの時間が過ぎただろうか。
ふと、神父が静かに歩き出した。
彼は、屍へと近づき、男の妻子の傍らで片膝をつく。
そして目を閉じ、静かな声で祈りを捧げ始めた。
その時だった。
男の妻が唐突に手を伸ばしたのは。
彼女が掴もうとしたのは、男の命を奪った濁水がなみなみと入った桶だった。
すぐさまそれに気づいた娘と神父が、慌てて彼女の腕を押さえ込む。
「放して! 私も……私もあの人の後を追うの……!」
血の気のない顔を振り乱し、妻は泣き叫んだ。
そんな光景をただただ眺めているリリスの耳に、ふと声が届いた。
「これは、あまりにも悲惨です……」
アダムだった。
彼の顔には心底からの悲痛な色が浮かんでいた。
しかし、その瞳の奥にはただ感情に呑まれるだけでなく、思考を巡らせているかのような理知の光も微かに窺えた。
「村長さん」
やがてアダムは、すぐ近くで立ち尽くしていた村長に声をかけた。
「先ほど、この村にある井戸はここ一つだけだと仰っていましたね」
「……そうだ」
ただただ重く沈んだ声の答えが返ってくる。
そこに、アダムの落ち着き払った質問が続いた。
「現在、この村には全部で何人の方が暮らしているのでしょうか」
「……今は、三百人ほどが暮らしているが」
村長は重い口を開き、渋々と答えた。
「なるほど。では、村の構造はどのようになっていますか? この広場を中心に家屋が広がり、森を抜けた外側に領地が耕す畑がある形でしょうか。面積や建物の配置など、村についていろいろ教えていただけますか?」
アダムの質問は、さらに具体的なものへと及んでいく。
「……」
なぜ今そんなことを尋ねるのか。
村長の皺が刻まれた顔に微かな疑問の色がよぎったが、あえて問い返すようなことはせず、彼はぽつりぽつりと語り始めた。
「……この広場を中心にして、五十軒ほどの家が寄り添うように建ち並んでおる。小さな森をぐるりと取り囲むように麦や野菜の畑が広がり、東側には少しばかりの果樹園がある形だ。西側は山に面していて、村自体は端から端まで歩いても、せいぜい四半刻もかからんほどの小さなものじゃな」
アダムがさらに問いを重ねた。
「つまり、この土地を治めている領主がいらっしゃるということですね?」
「……もちろん、そうだ」
「では、その領主は今どこにいらっしゃるのですか? お住まいの城はどちらに」
「領主様は今、不在じゃ」
村長は首を横に振って、乾いた声で説明を続けた。
「それに、城などという大層なものはない。ここはしがない小さな村だ。村外れの小高い丘の上に、少しばかり立派な石造りの館があるだけでな。普段はそこに住まわれておるのだ」
「それでは、領主様は現在どちらにいらっしゃるのですか?」
「結構距離の離れた街へ、水を融通してもらえないか交渉に行っておられる。出立してから一週間経つゆえ、そろそろ戻られる頃合いだろうがな」
村長の言葉に、アダムの表情がわずかに明るさを取り戻した。
「では、領主様が戻られるまでの少しの辛抱、ということですね」
だが、村長の顔は少しも晴れなかった。
それどころか、どこか恨み言でも吐き出すような口調で首を振る。
「そう上手くはいかん。領主様は、井戸の水が濁り始めた当初から、なんとか水を得ようと方々の村や街へ足を運んでくださった。だが、どれも徒労に終わったのだ」
「それはなぜですか? 近隣の土地も、それほど深刻な水不足に陥っているということですか」
「いや、違う。どこも水が豊富とは言えんが、命の危機に瀕している我々に、いくばくかの水を分ける余裕すら全くないというわけではない」
「では、どうして……」
アダムが問う声を聞きながら、リリスにはその理由の予想がついていた。
そして、村長から発せられた言葉は、彼女の推測を正確になぞるものだった。
「すべて、魔女の呪いのせいだと思っているからだよ」
村長は重苦しい息を吐き出した。
「この村の井戸が突如として汚染されたのは、『静かの海』の魔女の呪いによるものだと噂されておるのだ。ゆえに、誰も呪いの巻き添えになることを恐れて、我々と関わろうとはしないのさ」
「『静かの海』の魔女、ですか……」
と、アダム。
「つまりサラという人物を指しているのですね?ですが、その人物はとっくの昔に亡くなっているはずでは?」
「いや、その魔女は……まだ生きているかもしれない」
怯えと警告の入り混じったような声で、村長は言った。
「確かなことは分からんが、領主様が街で耳にされた話ではな、現在、帝都周辺の村や街において、あの『静かの海』事件を起こした魔女サラがまだ生きているのではないかという噂が、まことしやかに囁かれているらしいのだ」
村長の言葉を整理すると、事態はこういうことらしかった。
現在この村は深刻な水不足に苦しんでいるが、ここだけでなく、帝都全域で水不足やそれ以外の様々な理由によって苦境に立たされる場所が急増しているという。
そして、いつしかそれらの災厄はすべて魔女の仕業ではないかという不安と噂が人々の間に蔓延していった。
それが引き金となり、帝都では本格的かつ大規模な魔女狩りが始まったのだと。
従って、帝都全域において魔女という存在がどれほど忌み嫌われ、深い恐怖の対象となっているかは想像に難くない。
「だからだったんですね」
聞き終えたアダムが静かに頷いた。
「リリス様のような、魔女を思わせる風貌の者に対して、皆があれほど過敏に反応した理由は」
「そうだ……」
村長はひどく疲れた顔で、深い溜息とともに呟いた。
「この村は、『魔女』のせいで殺されかけているのじゃ」
「……」
それが果たして本物の魔女なのか、それとも人々の想像が生み出した仮想の魔女なのか。
リリスには判断がつかなかった。
重苦しく、どこかやり場のない沈黙がしばらくその場を支配する。
やがて、よどんだ空気を散らすように、アダムが問いかけた。
「ちなみに、この村の名前は何というのですか?」
それに、村長の強張っていた表情が一瞬だけ緩んだ。
ぽつりと答える。
「……レニ、という」
「レニ」
アダムはゆっくりとその音を確かめるように発音すると、どこか心地よさそうな、穏やかな笑みを浮かべた。
「こぢんまりとして、とても良い名前ですね……」
アダムが、死んだ男を抱きかかえて乾ききった嗚咽を漏らしている妻子へと静かに視線を向ける。
そして、ゆっくりと首を巡らせ、今度はリリスの瞳を真っ直ぐに見つめてきた。
あまりにも真っ直ぐな眼差しに射抜かれ、リリスは自ずと背筋を伸ばし、小さく身構えた。
「リリス様」
力強く、揺るぎない表情で、アダムは言った。
「レニ村の井戸の水を、浄水しましょう」




