後編 騒がせ者の人助け
しくじった――と、ミルカは後悔した。
たいした仕事ではないのだと、すっかりあなどっていた。
いつも通りの荷運び仕事だ。剣士の自分が御者を兼ね、同輩の護人三人も同様にして、荷馬車を四台連ねて街道を往復するだけの簡単な任務。農園に届ける肥やしの原料の匂いが我慢ならないことを除けば、楽にこなせる給金稼ぎには違いない。
こんな仕事いつまで――と思いながらも、年若い女だからと馬鹿にされている分けではないと理解はしている。オースベルクの護人長、ムムカの判断と差配はいつも適切。たとえ相手が自分の娘であろうと、父親は護人の仕事に私情を決して挟まない。
とはいえいい加減、近隣の小麦農園へ資材を届ける仕事などより、少しは骨のある役割を与えて欲しいというのも本音だった。その本音が気のゆるみに繋がり、今ある苦境を招いたのだ。まさか、これほど安全な街道で魔獣に襲われるとは、露ほども思いはしていなかった。
野盗とは無縁、旅人も安心して往来できるほど治安の良い街道である。いったい魔獣がどこから現れたのか、まったく分からなかった。音もなく背後から忍びよられていた。最後尾で上がった同輩の悲鳴で、ようやく襲撃に気がつくという失態だ。
馬が暴れて隊列が乱れた。ミルカは初めて、魔獣がどこから現れたのかを知った。目の前の地面から染み出してくるように、ふいに奴らは姿を見せたのだ。
見たことのない魔獣だった。学問所での座学を怠ったせいで、学び忘れただけかもしれない。そうだとしても、これほど奇怪な姿の妖魅なら、覚えていてもおかしくないと思える――海か市場でしか見たことのないクラゲのような魔獣が、土から出でて宙に浮いているのだ。
取り囲まれていた。農園からの帰りで荷は空だ。狙いはどうやら、まず、馬らしい。見た限り、魔獣の数は八体。馬を喰い、人を喰えば丁度腹が満たされる勘定だ。
ミルカが手綱を握る先頭の荷馬車に、一匹のクラゲもどきが迫った。浮いているだけと見えたのに、魔獣の動きは思いのほか素早い。
ミルカは御者台から飛び退いた。馬がいななき、暴れる。荷馬車が横転し馬も横倒しになった。クラゲの腹から無数の触手が馬へと矢のように伸びる。馬の体中に、触手の先端が突き刺さる。悲鳴に変わったいななきが不意に途絶えた。引き寄せられるようにしてクラゲの総身が馬に伸し掛かる。そのまま全身を包みこんでしまった。
無色半透明のクラゲの身体が、赤く染まりだした。触手は赤い縄のようで、体の内では熟した果実に似た塊が真っ赤になって形を現す。血を吸っているのだ。馬の体から生気が失せ、皮膚には布を絞ったような皴が刻まれていく。
「このっ!」
叫びざまミルカは、腰の剣を抜き放ち、ぶよぶよとした軟体の魔獣に斬りかかった。声をあげたのが災いしたのか、それとも魔獣の感覚が鋭いのか。剣の切っ先は馬の腹を掠めたのみで、クラゲの魔獣はふわりと再び宙に浮いた。
返す刀で宙を払う。二太刀目は見事に魔獣の身体を捉えた。しかし、刃は通らない。当てることはできても、やんわりと吸収され、魔獣の身は変形し、受け流されて、そのまま斬撃はすり抜けてしまう。
手応えのなさと、振り抜いた剣の重さに重心を崩し、ミルカの体が流れる。同時に、女剣士の背中に激痛が走った。いつのまにかクラゲの触手が、ミルカの背後まで長く伸びていた。息が詰まる。忍び寄る触手で、鞭のように背を打たれたらしい。
ふわふわと浮くばかりの魔獣であるのに、触手の一撃はこん棒で殴られたかのように重い。とっさにミルカは、痛みをこらえて伸びた触手を力いっぱい切り払った。
弾けるような音を鳴らし、触手がちぎれる。切り口から馬の血が噴き出す。
よし、触手なら切れる。ならばまだ、勝ち目はある。しかし、四対八。しかも、相手の得物は無数にある。どうする、どうすればいい――
思考による躊躇が、ミルカに隙を作ってしまった。数本の触手が四方から飛んでくる。膝を狙い、剣を持つ右腕を狙い、ひとつは喉を目掛けて飛んできた。咄嗟に身を低くして首への一撃をかわす。膝から激痛が走り崩折れた。あらぬ方向に足が曲がっている。触手に膝を砕かれたのだ。これでは立てない。右腕は背中に捩じ上げられ、関節が決まり、ついにミルカは身動きが取れなくなった。
「ぐぅぅぅ……っ」
娘らしからぬ低い呻きが喉から洩れる。大地に打ちつけられ、地を舐めた。このまま馬と同じく、自分も魔獣に血を抜かれるのか? そう悲観したとき、同僚の悲鳴が耳に届いた。
「よせ! 放せ……っ!!」
叫び声の方へ目だけを向けた。若い護人が、うめき声をあげて剣を落としていた。身体にまとわりつく魔獣を必死に引きはがそうとしている。傍らに倒れる馬は、既に息絶えているらしい。
ごきりと、鈍い音が鳴った気がした。まだ少年の面差しを残す護人が、肩を押さえて膝をつく。腕に巻きついた触手に、肩関節を抜かれたらしい。痛みのせいだろう。護人の少年はミルカ同様に、身動き取れずにうずくまった。
しかし、クラゲは止めを刺してこない。残る二人の人間と、二頭の馬へ襲い掛かった。魔獣たちは残りの獲物を、生きたまま捕えようとしているらしい。
どうにか奮戦する二人の護人は、盾をかざし、剣を縦横に振り続ける。しかし、追いつめられるのは時間の問題だろうとミルカには見えた。
背の高いほうの男が、死角から迫った触手に首筋をしたたかに打たれる。呻く間もなく、一つ年上の護人は倒れた。残るは一人――しかし、同輩の剣士は魔獣ではなく地の先に目をやり、ミルカに向けて叫んだ。
「ミルカ! 何か来る!」
ミルカは見た。かすみゆく視界の先で、得体のしれない巨躯の人影が、黒風の塊のようになって地の果てから、駆けてくる姿を――
§
いくら身を低くして小麦畑に身を潜めながら進んでも、オクオの体躯である。どうしたって農作業にいそしむ人族の目を避けきれるものではなかった。オクオの姿を見るなり、例外なく農具を放り出して、あるいは先端をオクオへ向けながら走り出して逃げていく。
それでも、朝方の接近遭遇のような事故は起きていない。夜の森を歩くときの用心で獣の気配を探るのと同じように、人族に気を配りながら進んだことが功を奏した。
「こんな調子で街に辿り着いて、大丈夫なんやろか……」
さすがの楽天家も、ここへきて弱気になった。〝まず生きていられる保証は無い〟とドミナは忠告してくれた。本当にそうなのかもしれない――うなだれかけて自分の行く道を確かめようと、顔を上げた時だ。
北へ延びる農道と東西の街道が合流するあたりで、立往生している四台の荷馬車が目に入った。馬のいななきが聞こえた。悲鳴のようだ。きらきらと光って見えるのは農具ではない。あれは、武装した人族……これはさすがにまずい。南へ迂回しようと考えたオクオの足がしかし、止まった。何かに、襲われている?
「あれって……アナミズヤドリよなあ。なんでこんなところにおるんやろ。て、あーあー、剣なんて振り回して。あれじゃあなあ……」
勝てない。軟体の魔獣に刃の斬撃が通じないことを、オクオは心得ていた。だが、どうしたものだろう……思いかけた考えを、オクオは首を横に振って捨て去った。
「見殺しにはできんよな。やることはひとつや――よしっ!」
いくら人族から避けられたとしても。自分は人族の街で暮らしたいのだ。見捨てる道理は、オクオには無いのである。
§
あのままでは全滅や――その一心でオクオは街道を駆けた。旅装代わりに着こんだ獣狩りに用いる革鎧は、手入れこそしてあるが長年の返り血が染みてどす黒い。オクオの浅黒い肌と大きな体躯が相まって、走る姿は黒い暴風のようである。
人族の姿は四人。三人は既に倒れ、駆けつけた時には最後の一人が軟体の魔獣〈アナミズヤドリ〉に襲われている最中だった。頭から魔獣の体に包みこまれ、触手に首を締め上げられている。生き残った馬は二頭。恐慌をきたし、繋がれた荷馬車を振り解こうと暴れていた。
「助けるっ!」
ひと声発してオクオは、腰に下げた小さな按摩の棒に手をかけた。握り締め、武装した男にまとわりつく軟体の魔獣目掛けて突きを出す。ブンっと重たく空気を打ちぬく風鳴りが響く。人の肘先ほどもない長さの棒は、瞬時に変じて金砕棒と化した。オクオの背丈ほど、二メートルにも及ぶ亡き父の形見の得物は、伸縮自在の魔道具だ。
伸びた金棒の先端がアナミズヤドリのやわらかな表皮を穿ち、そのまま奥深くにある臓器を潰す。とたんに、魔獣の身が砕けて弾ける。どろりとした半透明の肉片が、地面に散らばった。
襲われていた男は膝から崩れた。すぐさまオクオが駆けより、身体を支えて地に横たえる。気を失っているが胸は動く。息はある。それだけを確かめると、オクオは落ちていた剣を手に取って、直ちに二匹目の魔獣目掛けて投げつけた。
大弓の矢のように飛翔する直剣の切っ先が表皮を破り、魔獣の臓器に突き刺さる。勢いを失くすことなく身体を突き抜け、背後のもう一匹をも貫いた。一度の投擲で、二匹の魔獣が弾けて消える。
これで残りは、五匹。危険な相手と見なしたのだろう。素早い動きで、五匹はオクオを取り囲んだ。オクオは動かず、金砕棒を縦に握って身構える。
アナミズヤドリは一瞬身を縮めたかと思うと、一斉にオクオ目掛けて触手を伸ばした。細く鋭い鞭縄が、無数を以って四方八方からオクオを襲う。オクオに逃げ場はない。逃げるつもりもなかった。一息早く動いたのは、オクオのほうだ。
縦に構えたまま金砕棒を前に突き出し、触手の一部を絡めとる。素早く体を捻ってぐるりと回り、矢衾に放たれた触手を一息で金砕棒の先に取りまとめてしまった。細い縄が綱のように寄り合わさる。魔獣たちは怯み、わずかの間動きを止めた。
その小さな隙を、オクオは見逃さない。絡みついた触手の束ごと右腕一本で金砕棒を振り上げ、強引に魔獣の体を引き寄せた。三匹の魔獣がオクオの目の前に迫る。空いた左手の指をそろえて、横から腕を振り込み貫手を差し込んだ。一匹が目の前で弾け、さらに二匹目に左手が刺さるが弾けない。オクオは力づくで魔獣の内臓を握り込むと、アナミズヤドリの身体は粘液に変じて崩れ去った。
残る三匹が身体を捩る。ぶちぶちと胴の根元で触手が千切れた。知性のかけらもない魔獣だが、本能が負けを悟ったのだろう。胴だけになった三匹は、オクオの元から飛び退る。しかしオクオは、追わない。もう決着はついたのだ。アナミズヤドリたちは地面にへばりつくと、土の中に染み込むようにして、姿を消した――
「行ってくれたか。ありゃあもっと、深いところにおるはずなんやがなあ」
呟いて、オクオはあたりを見渡す。触手を払って金砕棒を小さく戻し、腰に下げた。暴れていた馬たちは疲れたのか、いつの間にかへたり込んでいた。倒れた四人の人族は皆、命に別状はないらしいが、負傷はしている。特に、女の怪我が酷い。
「やれやれ……もうひと働きやな。本気の〈肩もみ〉でもしたるか」
両手の指を鳴らしながら、関節を解す。まずは女からだなと、オクオはゆっくりと這いつくばるままの女剣士に近づいていく。
まだ意識を保っていた若い娘は、身動きを取れないまま、その瞳に恐怖と涙を浮かべてオクオを見据え、震えていた。




