前編 街道の騒がせ者
用心のために魔獣避けの香を身に振りかけて、オクオは小屋を後にした。もとより施錠などしたこともないから、見た目にはただ家主が留守にしているようにしか見えない。しかし、念のため書付を残してはある。里を出ていく旨を書き記し、一枚の手紙として居間のテーブルに置いてきたのだ。
筋で言えば、長老に直接挨拶をするべきであろうが、行ったところで追い出されることに変わりはない。里の面々に騒がれても面倒だと、オクオは誰にも顔を見せず出ていくことにした。朝まで猶予をやると言われたのだ。どうせ使いの小僧でもやってきて、小屋を検めるに決まっている――そのときのためにと書付を残した。オクオなりの配慮である。
小屋を出てから歩くこと数時間。オークの里を隠すために樹木や岩場を縫って造られた、複雑に入り組んだやっかいな道を用心して辿る。よほど手練れの斥候でもない限り、人族が隠された道を示す標を見分けるのは難しい。見分けたところで、仕掛けられた罠を見過ごせばその場で命を落とす。仕掛けたオーク自身ですら死傷の危険を孕んでいる。ドミナのように魔道具で空からやって来られるなどというのは、例外中の例外なのだ。
ようやく森の外縁に辿り着いたころには、陽は頭のてっぺんにまで昇っていた。樹々の隙間から、遠くまで開けた土地が見えるところまでやってきて、オクオの足がはたと止まった。
腕組みをして、考えることしばし――「どこだ? ここ」と、呟いた。
「ドミナはこの森、どこにあると言うとったっけ。たしか森は街の西側のずっと先、森を避ける大きな道が南側にあるとかなんとか……」
どう進めば人族の街へ辿りつけるのか。道がまったく、分からない。オークの里は隠れ里だ。人族の目から隠すために、森から里へ続く入り口も辺鄙な場所に設けられている。誰にも言わず飛び出してきたことが災いした。右も左も、分からないのだ。
「さあて、どうしたもんかなあ……ま、とりあえず。飯だな」
小屋から持ち出した干し肉を背負い鞄から取り出してかじりつく。革袋の水を口に含み、咀嚼しながら肉をやわらかくして胃に流し込んだ。二メートルを超える身長に、一六〇キロはある体格のオクオだが、普段の食事は見た目に反して意外に細い。戦闘種族の特性として、実際のオークは飢えに対する耐性が人族などより遥かに高かった。もちろん、喰うときは山ほど喰うし、酒も浴びるほどに飲んでしまう。
腹が満たされると今度は、次第に眠気がオクオを襲った。天頂にある太陽の位置を確かめる。次に足元の影の形を眺めて、オクオはひと眠りすることに決めた。思えば、昨日から一睡もしていないのだ。襲われる心配の少ないこの場所なら、しばらく仮眠も取れるだろう。
手近な大木に背を預けて、オクオは眠りに落ち――何事もなく、一時間ほど過ぎた頃合いでぱちりと目を覚ます。起き上がって太陽が西に動いたことを確かめ、下を向いて自分の大きな体の影が延びる方向を確かめた。
「よしよし。森は街の西の方。なら、街はだいたいあっちやな」
そう呟くと、オクオは荷物をまとめて再び歩き始めた。午後の影が延びる方向へ足を向け、およその見当を付けながら〝だいたい東の方〟を目指す。
左を眺めて北側に連なる山脈の形を確かめ、右を眺めてなだらかに下る平地の先を確かめた。まだ見えはしないが、ドミナの言った街道とやらも近くにあるはずだ。
東に歩きつつ少しずつ南に下れば、やがて街道に出るのではないか。あとは真っ直ぐ、道沿いに東へ歩けば人族の暮らす街、オースベルクに着くだろう――ざっとそんなことを、オクオは考えている。
しかし、大事なことが一つ抜けていた。どこで人族に出会うかなどまでは、考えてはいなかったのである。
§
背中に遠く陽が沈み始め、目の先にある空が濃紺に染まり出したころ。
右手の遠く先に、真っ直ぐにこちらへ向けて歩いてくる人影が見えた。ここは人族が住む土地だ。外を歩くオークなど居はしない。つまり、オクオの目に映る三つ四つの、オークに比べて小柄な影は、人族であるということだ。彼らは迷うことなく西に向けて進んでくる。ならば道を歩いているのだろう――そう考えてオクオは、足の向く先を人族のほうへと変えた。
遠目でまだ確かではないが、武装はしていないように見える。オクオも同じだ。目立つ得物は手にしていない。背負い鞄と、腰からは革の水筒と小さな按摩の棒を下げるのみである。
道でも尋ねてみようかというつもりで、人影を目指して歩いてゆくのだが。
人影はオクオの姿を捉え、オクオが街道を進んでくると見るや、道を引き返さず道から逸れて、北に南にと走り出した。いったい彼らはどこへ行くのかと眺めていると、いつの間にか広がっていた、一面緑の草原に分け入っていくではないか。
「あー」だの「オー」だのと、何やら叫び声をあげている。慌てているせいか意味のある言葉に聞こえない。彼らが走る先の遠くには、小さな明かりがいくつか見えた。どうやら、何件か家が建っているらしい。助けを求めて、駆け込もうとしているのか? そう訝しむうちにも陽は沈み、あたりはすっかり暗くなった。
「ワイ、なんもしとらんのやがなあ。臆病すぎひん?」
そう独り言ちて再び道を東に歩くオクオだが。同じようなことが、二度三度と起きた。オクオの姿を確かめるなり、誰も彼も一目散に逃げ出してしまう。
これもオークの悪評のせいなのかと、オクオは大きな肩をわずかに落とす。それでも、人族の数は多いのだ。皆が皆、自分を見て逃げ出すようなことはあるまいよ、あのドミナだって街で暮らしているのだからと――結局、楽天的な考えに行き着くオクオであった。
§
道行く人々から遠目に避けられること以外、交易都市オースベルクを目指すオクオの道行は順調そのものだった。生まれ育った里を囲む暗い森とは違い、この開けた土地では陽が落ちてからも、魔獣が現れ徘徊するような気配がない。
草原かと思われた植物は皆一様で、どうやら人が植えたものらしく手入れをされた様子があった。よく見れば整然と並んで生えいる。その上、下生えや雑草などがずいぶんと少なく、大きな石や岩といったものも見当たらなかった。
青々と背高に伸びた草のような茎の先には、細長く尖った小さなものが立ち始め、規則正しく連なっている。ふいにオクオは、ドミナから学んだ「小麦」という食用植物のことを思い出した。ここは小麦を育てる「畑」という場所なのだろうと。
「そうや、土産にもろたパンだったか。ありゃあ美味かったなあ」
ツノジシの焼肉をパンに挟んで食べたよなあ……あれは里の宴のご馳走よりも良いものだったと、オクオは思い返す。糧食の干し肉を腹に押し込むのとは大違いだ。
「畑仕事言うてたかなあ。ワイ、やっぱ人族と暮らした方が性に合いそうやな」
人族は、土を耕し実のなる植物を育て、生きるための糧としている……そうドミナから聞いてオクオは、荒くれたオークの暮らしぶりとはずいぶん違うものだなと感心し、その穏やかそうな生き方を想像して羨みもしたのだ。
そんなことを思ううちに、そろそろ小腹が空いてきた。昼に森から出て以来、飲まず食わずで歩き通しだった。体にはこれといった疲労は無いが、少々気疲れを感じていた。やはり、自分を見て逃げ出す人族の姿が心に堪えたのである。逃げ惑う人々、燃え上がる集落、血が飛び散り……そこまで脳裏に浮かびかけて、オクオは強く首を横に振った。
「ちょっと休んだ方が、ええやろ」と呟き、あたりを見渡す。ちょうどいい具合に、一本のほどよく太い樹木が草原に立っていた。あれを傘にして今日は朝まで野宿だなと、オクオは小麦の原へと分け入った。
§
里から去った翌日の朝。夜明けとともに、オクオは目を覚ました。いつもと変わらない習慣である。いつもと違うのは、狭い小屋の寝台の上ではないことだ。
風が小麦たちを揺らす。森のそれとはまた違う爽やかな香りが、寝そべるオクオの上を吹き抜ける。草同士が触れ合い囁くような音が心地よい。しかし――
がさごそとした音が混じった。足音らしい。獣とは違う気配。まさか……むくりと体を起こす。ゆっくりと立ち上がる。宿替わりにした樹木の陰から体を乗り出す。
人がいた。小麦畑の中に立っている。煤けた衣服を着た男と目が合った。
日に焼けた肌、皴のある目元に無精ひげ、中年の男だ。オクオの胸元にもまだ足りないほどの背丈の男は、両手で小さな得物を構えたままで固まっていた。突然物陰から、危険な獣が現れてしまいどうすることもできない――そんな強張り方だった。得物の先は、三日月のように曲がった刃がついている。草刈り用の農具、鎌だ。
しかし、オクオに敵意は無い。こんなとき、人族はどんな会話をするのだろう? とりあえずオクオは、あたりさわりのない言葉を試してみることにした。
「よう、おはようさん……」
「お、お、お、おはお……」
駄目だ。すっかり怯えている。男が握り締める農具の先が小刻みに震えていた。
オクオはゆっくりと、後退った。男から目は逸らさない。男は、目を逸らせずにいるままだ。出来る限り優しげな声で、オクオは男に声をかけた。
「ええか、なんもせん、なんもせんから。大丈夫、だいじょうぶやから……」
オクオの喉から出てきたのは、おだやかではあるが低く野太い声だった。オークとしては十分にやさしいが、怯える人族にとっては魔獣の威嚇にも等しく聞こえたらしい。男の顔が、見る間に青ざめていく。
男の顔色が悪くなるのを見てオクオはさらに、何も持たない空の両手をゆっくりと持ちあげて、敵意が無いことを示した――つもり、だったのだが。
農夫はかえって、恐慌をきたした。まるで幼いオークの子供が初めて、森の中でナガヅメグマと出会ったかのような反応を見せている。立ち上がった巨体が両腕を掲げ、今にもその大きな十本爪を振り下ろそうとして――そんな場面で見せる、幼子のような顔を農夫の男は浮かべていた。
確かに、あの大熊なら危険だ。オクオも幼い頃に怯んだ覚えがある。しかし自分はオークなのだ。言葉の通じぬ獣ではない。
ふと、男の様子がさらにおかしくなってきたことに、オクオは気づいた。最悪だ。農夫の気配に、わずかな殺気が混じり始めた。恐怖に押しつぶされて、事に及びかねないところまで心が追いつめられているらしい。農具を握り締める手が真っ白になるほど力んでいる。これはまずい――じりじりとさらに後ろへ下がりつつ、オクオはもう一度男に声をかけた。
「分かった、分かったから。あんたはもう行ってええ。ワイもここを立ち去る。ええな? それで、ええな?」
左手を上げたまま、右手を後ろ手に下げ、背負い鞄を探り取り上げる。体は中年男に向け、目は決して逸らさない。ゆっくりと、ゆっくりと下がって距離を取り、飛び掛かられてもかわせるだけの間合いを得てから――オクオは一気に、駆けだした。
手にした草刈りの刃が背中に飛んではこないかと冷汗をかきながらオクオは、小麦畑を踏み鳴らして駆けに駆けた。そうしてようやく立ち止まり、振り返った。豆粒ほどになった男の影が、他にもいた人族を目指して走る。何事か叫びながら、オクオのほうへ腕を向けたらしい。朝日を受けて農具の刃が光って見えた。
困ったことになったなと、オクオはため息をつく。魔獣への用心に革鎧こそ着ているものの、丸腰も同然のオーク一人にこれほど怯えを見せるとは、想像の他だった。
「早いとこ街へ行って、ドミナを頼った方がよさそうやな」
オクオは身を低くして、横目に街道を捉えながら小麦畑の中を忍んで進む。甘い希望を抱きながら、陽が落ちる前に街へ駆け込もうと歩みを早めるのだった。




