前編 悪夢の底から
どこやろ、ここ……そや、急に、甘ぁい匂いがして――
真っ暗や。なーんも見えん。まだ、匂いだけはあるけど……蜜みたいや――あ、なんやろ、あの……白いのは?
肉、やないの? 人の。娘の。
ああ、なんかおった気がするなあ……わざわざ自分で、裸になりよって。アホ、なんやろか?
あー、たまらん。喰いとうなってきた。はらぺこや。どうれ、腕を伸ばして……腕細いなあ、足も、首も、ねじって……食べやすいように……。
――よせ……!
誰や? びっくりするやろが。こんなに腹がすいとるのに、誰? 誰が止めるの?
――よせ、やめてくれ。その子に手を出したら、あかん!
うるさいのう。誰や……て、ワイの声にそっくりやけど。
なんでや? うまそうな肉やないか。オークは獣、やで? 喰うやろ、ふつう。
――やめてくれ、ワイは人なんて、喰いとうない。
うるさい奴やなあ、いい子ぶりよって……そんなんだから、〈弱き者〉なんて言われるんや……ん? よわき、もの……誰のことやろ?
ほぉら……ぐずぐずしとるから、人間の女が物騒なもん振り回して……あ、二人もおるやん……んぐっ?!
首、めちゃくちゃ痛いんやけど。火傷か? 熱いし。……ま、ちょっと我慢すりゃええか……それより、あの女どもも……殺っとこ。
ああ、あー、そんな構えで剣なんぞ振りよって……へたくそが。当たるもんも当たらんわ。
――ほら、な。あら? なんや、拳が血まみれやんか……柔いのう……。
ん? 誰か、来た?
「何事ですっ?! これは……この、オークがっ!?」
おや、もう一人出てきよった。今度は、若い兄ちゃんや。血相かえて、なんやの? あら、手が光っとる……わあ、綺麗な光やなあ……緑色に光って……あれ? あ、ああっ、あが、がっ……ぐ、なんや、息が息ができん……痛え、痛い、やめて、やめてくれ、死んで、死んでま――
§
泥水の底からようやく這い出したような目覚めを、オクオは味わった。
恐ろしい夢を見た――そんな感覚だけが、靄のかかった脳裏にこびりついている。
目を見開いても仄暗い。身体はひどく重い。手首に痛みを感じた。膝は、冷たい床についている。ここはどこだろうかとあたりを見渡そうと身をよじって気がついた。
両腕が手首で鎖につながれている。鎖の先は壁につなぎ留められているようで、半歩も動くことが出来ない。
首だけひねってもう一度周りを確かめる。床も壁も石造り。目の前には鉄格子――似た部屋に見覚えがあった。ここは、牢屋だ。
細い金棒を手にした男が二人、牢番だろう。金棒は錆にまみれ、赤黒く鈍い艶を放つが、もしかしたら錆ではなく干からびた血のりの名残なのかもしれない。自分の血なのだろうかとオクオは思う。身体中に痺れと、鈍い痛みが湧き上がっていた。
ふいに、むくつけき牢番たちの影から、静謐が形を成したような男が現れた。
「ようやくお目覚めですか、オクオさん」
マーロだった。ひどく、やつれている。何か大きな力を行使して、精魂尽きかけている――そんな雰囲気だ。眼ばかりが爛々とするのが異様であった。
「ああ、マーロはんか……ワイはいったい、どうなったんや……?」
まったく分けが判らない。たしか、高官の娘の痘痕を癒して――そこから記憶が、一切ない。気がつけば、囚われの身だ。それしか、分からない。
「おや、あれほどのことをしておきながら、覚えていないと? そうですか、では教えて差し上げます」
静かなマーロの声がわずかに震える。抑えきれない憎悪と蔑みが滲みだし、かすかな喜びと交じり合う、奇妙な響きを持っていた。
「あなたは、獣に堕ちたのです。自らね。若い娘の裸身を前にして、獣性を抑えきれなくなったようです。騒ぎを聞きつけ部屋に飛び込んだときには、あたり一面血まみれでした――」
オクオの背筋に冷たいものが走る。怖気を覚えて、身体が凍るようだった。目覚めとともに忘れていた悪夢の感触が、はっきりとした輪郭を成し始めた。
たしかに、爪にかけたのだ。確かめようと、指先に目を移す。赤黒い粘りが、爪の隙間を塗りこめていた。
「スティナ嬢を殺めかけた。神殿の護衛二人にも傷を負わせた。獣欲に狂ったあなたを止めようとした護衛たちを、なぶり殺しにするところだったのです」
「そんな……そや、首輪は? 〈隷獣の首輪〉が働いて――」
マーロの手が上がり、オクオの疑問を遮った。首をゆっくりと横に振っている。
「調べましたが不具合はない。呪具は正常に働きました。ですがむしろ、その痛みがかえって、あなたを焚きつけてしまったらしい。鎮静術であなたの獣性を抑えたとたん、呪具の効力が上回った。あなたは昏倒し――その隙に私の治癒術で、女性たちは事なきを得ました」
「そうか……」と、つい安堵の息をもらしてしまった。
「生きとるんか……良かった」
「良くはない。私の術とて、心までは癒せません」
そのあとも、高官のウェルビスがオークを殺せと激昂したとか、オクオを牢に運ぶまで苦労したといった話をマーロはしていたようだが――ろくに、オクオの耳には届かなかった。ただ最後の、マーロの一言だけが耳の奥で鳴り続けた。
「所詮、オークはオークであった――ということですね」
そうなのかもしれない。
「ワイは……どうなるんや。やっぱ――」
「さて、それを決めるのはこれからです。もうすぐ、派遣行政官のハドリス殿、護人長のムムカ殿がここへ来ます。あなたの処遇は、三者の合議で決まるのですよ」
街へ来た初めての日。ハドリスが「さっさと殺してしまいましょう」と言っていたのを思い出した。きっと行政官殿は、また同じことを言うのだろう。
「それと、ドミナ様もお呼びしています。彼女はあなたの保護者ですから」
ああ、ドミナか。あいつが言うとったことは、こういうことだったのか。
「――めったなことを考えるんじゃあないよ」里を抜けると決めたあの日、ドミナはたしかそう言ったか。「里長に従い、掟に従って生きるのが身のためだ」とも。
さすがエルフの魔女様や、ぜーんぶ、お見通しやったんやなあ――
§
左から、ムムカ、ハドリス、マーロ……街の権力者三人が、オクオの前に立っていた。立った背丈はオクオのほうが高いから、いつもは見上げられてばかりだが。今は膝をつき、壁に鎖でつながれ見下ろされている。ムムカはなんと思うのだろう。ドミナも――エルフの魔女は、後ろに控えて立ち尽くしていた。
「やれやれ」と、街の中心人物たる行政官が発した言葉は、オクオが予想したとおりのものだった。
「やはり、殺しておくべきでしたねえ。まさか、〈隷獣の首輪〉の力を抑え込むほど、欲に狂うとは」
恐れもせずに、ハドリスはオクオの首に手を伸ばし、呪具を撫でた。意外に温かな指先の体温を感じて、オクオは身震いした。ハドリスにオクオへの憎しみはないらしい。ただ、街の安寧だけを気にかけている――肌に触れた指先から感じるのは、ある種のやさしさのみだった。殺すのが最善と判断すれば、殺す――ハドリスは、そういう男なのだろう。
「このオークが現れてもう三カ月でしたか。しかし、仲間が現れる気配はない。これは逸れ者で決まりでしょう。なら、殺したところで憂いはない」
「待ってくれ!」男たちの後ろから、ドミナが声を上げた。
「オクオの身に何が起きたのか、なぜ獣性に呑まれたのか、きちんと調べてから裁くべきだ。なあムムカ、そうだろう?」
オクオの前できょとんとした顔を作り、ハドリスは半身で振り向き溜息をつく。
「はあ……きちんと調べて裁くべきと――魔女様は奇妙なことをおっしゃる。ここはオースベルク、人族の街です。そしてここ、辺境伯領は人族が開拓した土地だ。この地の法は、人族のためにのみある。――ああ、エルフは特別でしたか。しかし、オークは違う。こやつらは、そもそも我らの仇敵なのです。人族に害を為すことしか知らない害獣だ。獣に法は及びません」
一息にしゃべり、ハドリスは軽く息を整えてから今度はムムカに向き直った。
「ムムカ殿、あなたずいぶんと、このオークをかっていたようですが。しかしこうなった以上、護人長としての監督責任は免れません。ドミナさん、あなたもだ」
ムムカとドミナは、何も答えなかった。どうやらいよいよ、処刑のときが近づいているらしい。マーロの答えは分かっている。もう、憎しみを隠そうともしていない。結局、なぜそうまで憎まれるのか、オクオには分からないままだったが――
「さてマーロ殿、神殿代表のご意見は? 殺処分で構いませんよね」
神妙な面持ちで、マーロは思案をしてみせた。いかにも悩ましいといった顔を作り、いかにも苦渋の決断といった風にして――意外なことを言った。
「……いえ。殺してはなりません。〝神の与えし人語を解する者は、皆等しく愛せよ〟――いかな大罪人であろうと、神の元では平等。命を取るなど、あってはならぬこと」
憎悪の気配を抑えもせず、しかし顔だけは涼しくして、マーロは助命を口にしたのだ。「はあ」と一言、あきれた声をハドリスは洩らした。
「いやはや……まさか、それほどまでに信仰厚き方であったとは。――はて、しかし、困ったな。一命をとりとめたとはいえ、〈都〉の要人に危害を加えたのです。ウェルビス君もお怒りでねえ。『亜人ごときに温情を示そうなどと、私はなんと愚かだったのだ』と、たいへんな剣幕でして――」
事は単なる殺人未遂だけでは済まないらしい。どうやら、〝まつりごと〟が絡むようだ。しかしマーロは、毅然とした態度を崩さなかった。
「私は、モスハン祭司長から全権を預かっております。私の考えは、神殿の総意と捉えて頂きたい」
一つも神官は譲らない。ハドリスは、気圧されたらしい。
「そう、ですか。ふむ……仕方ありません。神殿の方々は、一番の被害者でもある。幸い怪我人はすべてマーロ殿が癒してくださったし、下手人も自ら捕縛してくだされた。一番の功労者でもあるあなたの意見です。尊重するほか――ありませんね」
ずっと押し黙っていたムムカが、ここへきてようやく口を開いた。
「で、どうするつもりだ」
「追放処分でいいでしょう。しかし、ただ追い出すというわけにもまいりません。罰は罰として世間に知らしめ、獣は獣らしく野に放ちます。身ぐるみ剥がして、手かせは嵌めたままで、西門から――捨てる」
自らの提案への反応を推し量るようにして、ハドリスは一同を見渡した。
「いかがです?――ふむ、ご異議なし、と。まあ正直、私もあまり物騒な処分は気が進みませんからね。行政官の立場として、本来なら死罪が順当との考えは変わりませんが――人としてはやはり、忍びない」
そう言ってハドリスは手のひらを打ち合わせた。牢屋の石壁が乾いた音を響かせる。裁定が下ったとの合図だった。
「では、オクオ君。君には速やかに、この街から出ていって頂きます」
そうか――死なずにはすむのか。しかしオクオに、安堵の気持ちは湧かなかった。
ハドリスがなにやら、牢番に指示を出している。牢番が頷き、懐から小刀を取り出した。いったい何を始める気なのか――ただぼんやりと、オクオは成り行きを眺めることしか、できずにいた。




