前編 噂の広まり
思いがけない休暇を終えて久しぶりの施療院に顔を出すと、オクオは真っ先にボーゲンのいる院長室へと呼び出された。
「さて。今日からはオクオ、おぬしには儂の元で直接、施術を学ばせる。正しくな」
「正しく?」
「そうだ。おぬしは生まれ持った神聖術の力を、安易に使いすぎる。まずはみっちり、魔力に頼らん手技による施術を仕込みなおす。それに――」
一つ間をおいてから、ボーゲンは重たげに続けた。
「神聖術は、むやみに使ってはならん力だ」
「なんで?」
「人にはそもそも、自らを癒す力が備わっておる。それをやたらと、魔力の助けで歪めてよいものではない」
「術頼みになると、かえって体は弱くなる……そういうことか、なるほど」
「うむ」と深く、ボーゲンはうなずく。
「それにな、尋常ではないおぬしの力であっても、無尽蔵ではない。街中の怪我人・病人がおぬし頼みとなるのを想像してみろ。最後はおぬしが命を落とすことになる。神殿が寄進を建前に治癒術の行使を限定するのは、そうした意味も含まれておる」
将来もし、自分が肩もみ屋を開いたとして――なるほど確かになと、オクオはひとつ身震いをして、ボーゲンの言葉に耳を傾けた。
「悪いことはまだある。術頼みに慣れるとな、人は怪我そのものを軽んじるようにもなるのよ。大けがをしても、治癒術があるからと負傷を恐れなくなるのだ。その果てに、人の命までもが軽くなる……」
何かを思い返したように院長は言った。
「よく覚えておけ。覚えたのなら――まずはおぬしの、我流を正す」
「おお、やっとワイも弟子らしくなってきたなあ。よろしく頼むわ、お師匠さん」
「院長だ――」
こうして、オクオの本格的な施術師修行は始まった。下働きの仕事をこなしながらである。とはいえ、以前はすべてオクオに押し付けられていた掃除や洗濯は、皆で手分けして行うようになった。下働きの合間にボーゲンの仕事について回り、患者を相手に実践で〝正しい〟施術を身に着けていった。
なんとはなしに経験則で覚えた人体の構造を、オクオは事細かに学び直した。体の表面からでは手の届かない奥深い筋肉の一つひとつを、いかに整え癒していくのか。これまでオクオが「あるべき姿であるように」と念じて実現していた〈肩もみ〉を、手技によっていかに正しく行うのか――
学びのためとして、ボーゲンはオクオに〈肩もみ〉を禁じた。ボーゲン自身も、打撲や単純な骨折程度の患者であれば、神聖術は行使しない。
肉の中で細かく骨が砕けた、臓腑や太い血管が傷ついている、魔獣の毒に冒された――そんな緊急を要する患者にのみ、院長の手は白緑の燐光を解き放つ。
ボーゲンが神聖術による治療を施す際は、オクオは師の仕事を支える役目を担った。ボーゲン自身にオクオの神聖魔力を注ぎ力を与える。ボーゲンを通じて、オクオは人が本来宿す回復力を支える程度の、〈肩もみ〉の力加減を学んでいった。これには、オクオの並外れた力を隠しておくという意味もある。
そうして、ボーゲンの弟子としての日々を過ごしてひと月あまりが過ぎるころ――
§
体格だけならオクオに迫ろうかという人族の男が、ガラの悪い態度を隠しもせずに施療院の玄関口に居座っていた。胸に下げた記章が光る。護人であるらしいが、オクオの知らない者だった。
「おい! オークがいるんだろう! さっさと出てきやがれ!」
日はまだ高いというのに酩酊したような男の喚きは、施療院中に鳴り渡った。応対に困った施術師に呼ばれて、ボーゲンとともに男の前に出たオクオは、師弟そろって男を見るなり顔を曇らせた。
「ああ、おまえが噂のオークか。凄腕の施術師だあ、神聖術を使うだあ――仲間内で噂になっててな。あー、嘘か、ホントか、俺が確かめに来た、つぅーわけだ」
どうにも様子がおかしい。「ここのとろろ調子が悪くてよ」などと呂律の回らない口で言ったかと思うと、どかりと床に座り込んでしまった。
「よかろう――オクオ、この男はおぬしがしっかり、診てやりなさい」
「おう」と答えてオクオは男のそばに片膝をつく。
「そうやな、確かに……頭がえらく悪そうや」
「おい! 喧嘩売っとるのかっ!」
オクオの見立てを聞くなり、男は怒鳴った。しかし実際、男の頭はひどく悪い。
「喧嘩なんぞ売っとらん。ほんまに悪いんやで。おまえ、最近どっかで頭をぶつけたか何かしとらんか」
「港の廃道でな、魔獣の残党狩りやらやっとる最中に、コけた。瘤は出来たが……たまに頭が痛むだけで……それがどうした?」
「頭にな、血がたまっとる。ほっとくと……死ぬで」
「は? 冗談はよせ――冗談、だよな?」
酔いがさめたようにして、男はボーゲンの顔を見た。ボーゲンが首を横に振るなり、男の顔が青ざめる。
「どれ、ちょっとそこで静かにしとれ。すぐに治したる」
オクオが男の体と頭に触れると、男は怪訝な目でオクオを見た。
「なあ、なんで分かるんだ? 頭の中だぞ、見えないだろ」
訊かれてオクオは、はっとした。
「――そういや、なんでやろ? 考えたことなかったわ。なあ爺さん、なんで分かるやろ、ワイら」
疑問に思ったことがなかったのだ。
「言葉にするのは難しいが――言ってみれば、色だ。体に障りがあると、そこが暗く目に映る。神聖術師の素質の一つでもあるな」
「そうや、色や色。なんかな、赤黒くていかにも悪そうなもんが、こいつの頭ん中に見えるんよ」
「ふむ、オクオの見え方は特別のようだがの。儂はそこまで、はっきりとは見えん。ただ、暗い淀みのような影を感じるだけよ」
すっかり、オクオとボーゲンの会話は師弟のそれとなっていた。
「あの……すまんが、早いとこ治してくれんか……」
悪い悪いとしながら、オクオはボーゲンの許しを得て〈肩もみ〉治療を施した。
§
脳を冒す血の塊は体調だけではなく、男の性格や素行までを歪めていたらしい。治療の終わった男は、すっかり別人となっていた。
「――助かったよ、オクオさん。ところであんた、自分が街で噂になっているのを知っているか?」
「噂やて? 知らん。ワイはあんまり街中に一人で出かけんし。家とこことの行き帰りばかりやから」
「そうなのか」と腕組みをして、男は話を続ける。
「ボーゲン院長がすごい弟子を取った、聞けばそいつは廃道の大空洞で護人を救ったオークだとか、神官を凌ぐ凄腕らしい……そんな話が広まってるんだよ――」
何度も頭を下げて礼を述べ、護人の大男は施療院を去った。その背中を見送りながら、ボーゲンは口元を緩める。
「おぬしと救助に同行した護人あたりから漏れたのだろう。人の口に戸は立てられん。こうなることは時間の問題と思っておったが――思いのほか、早かったの。これから忙しくなるぞ」
果たして、ボーゲンの言う通りになった。翌日から次々に、オクオの名を口にして、オクオの施術を希望する患者たちが現れた。
ついには施療院の玄関口に、オクオ待ちの患者が列を成すほどとなったのである。
§
噂と評判の広まりは、施療院のある下町だけにはとどまらなかった。それを知らせに来たのは、護人長ムムカの使いとして施療院を訪れたミルカだった。
「入り口の行列、あれってオクオが目当てなの?」
院長室に招かれたミルカは、ボーゲンとオクオを前に椅子に腰かけ、懐に手を伸ばしながらオクオに訊いた。
「そうや。ミルカも知っとるの? ご指名なのは悪い気はせんのやけど……」
うれしさ半分、しかし正直、忙しくてしんどいのが半分だ。
「組合のほうでも噂が耳に入ってね、パパが渋い顔してた」と、ミルカは懐から封書を一通取り出し、ボーゲンに手渡した。
「護人長のムムカから、ボーゲン院長への伝言です。院長、これからオクオを借りて行きたいのですけど……よろしいですか?」
ボーゲンは書簡に目を通しながら「なるほどな、承知した」と頷き返した。
「しかし、すぐには無理だ。ムムカには、日が落ちる前にはオクオを向かわせると伝えてくれんか」
「分かりました――じゃ、オクオ、また後でね」
柔和に笑んで、ミルカは施療院を立ち去った。
§
オクオ目当ての患者をさばき、施療院の仕事を一通り終えるころには、東の空はすっかり暗くなっていた。
護人組合の執務室で待ち構えてムムカは、分厚い書簡の束を前にして荒い溜息をつきながらオクオを迎えた。
「遅かったじゃないか。待ち侘びだぞ。しかし……そんなにか?」
「そうやな、朝から〈肩もみ〉目当ての行列が出来るようになってしもうてなあ……毎日、大変や」
奥の部屋から、ミルカが茶の支度をして現れる。テーブルに三つ茶碗を置くと、護人長の娘はオクオの隣に腰を下ろした。ムムカはまたひとつ、溜息をつく。
「この紙の束、なんだか分かるか?……おまえ宛ての、依頼書だ」
「ワイ宛て? そういや小麦の刈り入れが近いんやったか。働き手が欲しいんか?」
「とぼけるなよ、そいつは間に合ってる。依頼の中身はな……」
ムムカはかいつまんで、依頼書の内容を読み上げた。
曰く、歩けない母親のために家までの往診を願いたい、刈り入れを控えているのに腰を痛めて動けない、神殿に助けを求めたいが大金は……等々と――
「まったく……」と苦々しく言いながら、ムムカは茶を一口含んだ。
「――もう隠し立てはできん。それに、こうして名指しの依頼が届くのは、おまえの信用が上がっているということでもある。オークと知った上での依頼だからな」
低く唸って、ムムカは目を閉じ、しばらく腕組みをして黙り込んだ。今度は、オクオの横でミルカが顔を曇らせる。やがて目を開けたムムカは口元を緩め、オクオのほうへと身を乗り出した。
「そこでだ、おまえに話がある。オクオ……派遣の施術師を、やらんか?」
「護人の仕事でか? いや、ワイいま施療院で働いとるし、ボーゲン爺さんの弟子なんやけど……」
「パパ、まさかあたしが持っていった手紙って……」
ムムカは唸るように笑いながら、深くうなずく。ミルカは長いため息を吐いた。
「ボーゲンには俺から話をつける。施療院の運営にはうちも一枚噛んでるしな。なあに、施療院から施術師を派遣するのは、別に珍しいことじゃない。それにおまえは、今でも護人だ。護人組合から施療院に、おまえを派遣している形なんだぞ」
「つまりワイが、護人の施術師として、患者はんのところへ出向いて〈肩もみ〉をしてくるゆうこと……?」
「そうだ。言ってみれば〝出張〈肩もみ〉屋〟……てところだな」
「……おおっ!」と、思わずオクオの声が弾んだ。期せずして、肩もみ屋を開きたいという夢の一端が叶うかもしれない――しかし。
「急に言われてもなあ……どう依頼を選んだもんか分からんし、金もとるんやろ? そのへんのこともなあ……」
「ふふん」と小さく笑うようにして、ムムカは鼻を鳴らした。「パパやっぱり」と、なぜだかミルカは父親に呆れた顔を向けている。
「問題ない、仕事の面倒は俺が見てやる。責任を持って俺が依頼を選び、おまえに出張ってもらう。施術料、出張費、もろもろ金周りの面倒も俺に任せろ。もちろんきちんと、給金は出す。どうだ?」
しばらく考え込んでオクオは一言、「よし、やったるわ」とムムカに答えた。きっかけはどうあれ、肩もみ屋開業への足がかりになるかもしれないのだ。
「けどな、施療院の仕事は続けるで。ボーゲン爺さんから学ぶことは、まだまだあるんや。あっちの仕事とこっちの仕事の塩梅は、おっちゃんと爺さんとでようく話し合って決めてくれ」
「もちろん、施療院との調整はする。俺とボーゲンの仲だ、心配はない」
自らの胸をたたいて請け合うムムカだったが、ミルカの次の言葉を聞いて、一気に顔を曇らせた。
「なら、あたしが、オクオの出張に付き合いますっ!」
「いや、ワイは一人で――」と言いかけるオクオの口元を、ミルカの手のひらが遮った。ムムカは、瞬間頭に血を上らせ、激しく娘に抗議する。
「駄目だダメだ、オークといえど若い男と二人きりだなどと、駄目に決まってる!」
「これは護人の仕事なんだよ? それに、護人長の娘が名代としてオクオに同行する――これ以上の適任はないと思うけど?」
父親に返す娘の抗弁は、きわめて冷静なものだった。
「それに――あたしは、オクオに恩返しがしたいの。パパにだって話したでしょ、昔森であたしを助けてくれたのは、オクオだったって……」
「いや、まあ、それは確かに聞いたが……しかしな……」
塩を振られた青菜のように、ムムカは次第にしぼんでいく。どういういきさつか計りかねるが、オクオはムムカが少し、気の毒になった。
「いや、ミルカ。礼ならもう受け取ったやいの。ほら、馬車の中で――」
「ええと、ほら、あれは……特別報酬だから……」
しおれかけていたムムカが、にわかに立ち上がり身を乗り出した。
「おい、特別報酬って何の話だっ?! それは聞いとらんぞ……っ」
慌ててミルカも立ち上がる。
「まあまあ、ささ、オクオ帰ろ。いろいろ支度もあるでしょう?」
ごまかすように、ミルカはオクオを促した。
そうしてオクオは、ムムカが差し出す最初の依頼書を受け取ると、そそくさと護人組合を出て――家路についた。




