後編 本当の初仕事
なるべく早くに診てほしい――とのことで。ムムカより出張施術の依頼書を受け取った翌朝、オクオはオースベルクの西門へと向かった。同行するミルカと落ち合う約束をしていたのである。
昨夜は入念に施術の準備をし、用意万端と初出張への気持ちも昂っていたのだが。いざ依頼人の元へ出立しようとドミナの館を出たとたん、オクオは不安に囚われた。
依頼の内容に不安はない。「ひどい腰痛でまともに働けないから助けてほしい」という、施療院でもよく見る類の患者だから、難しい仕事でもない。
問題は、行き先だ。
「小麦の刈り入れを控えとるから、どうしても急ぎで治してほしい、ねぇ……」
街を目指して小麦畑を歩んでいたあの日、自分の姿を見るなり逃げ出していった人族たち。今でも変わらず、自分を恐れているのではないのか――
気に病みながら歩くうち、とうとう西門についてしまう。
すでにミルカは待っていた。護人然とした剣士の出で立ちだ。なにやら衛兵の隊長と話をしているようだったが、オクオに気づくなり明るい顔で手招きをした。
「おはよう。じゃあ、行こうか」
ミルカの挨拶に「おう」と答え、二人して歩き始める。街へ来たときは縄を打たれてくぐった西の大門だったが、今日は何事もなく抜けられる。衛兵隊長もこれといって厳しいことは言わず、ただ黙って見送ってくれた。
それだけでもずいぶんと気が楽なはずなのだが、オクオの気分は晴れないままだ。
「依頼人の農家まで二~三時間は歩くと思うけど……て、どうしたの? 浮かない顔して」
ほかの人族よりも、やはりミルカは敏感にオクオの表情を読み取るらしい。話してしまえば、少しは気も楽になるのだろうか――
「いや、ほら、ここへ来るまで、畑の人らにワイ、怖がられてばっかりやったから。どうなんやろなあ、て」
弱気を吐露してみる――ミルカは頬を緩めて、オクオを見上げた。
「あのね、オクオがオースベルクに来てから、とっくにふた月は経つんだよ? 今まで一度だって、騒ぎを起こしたことなんて無いじゃない。〝悪いオークじゃない〟って、伝わってるって」
言い終わるなり、ミルカはオクオの背を平手で打った。痛くはないが、響く音はなかなかに派手だ。
「まったく、図体はデカいわりに、けっこう気は小さいんだねえ。ほんとに怖がられてたら、依頼なんてこないって」
「……うむ、そうよな。いや、頭ではわかっとるんやけど、なあ」
「大丈夫。あたしがついていくんだから、めったなことにはならないよ」
「そうやな……そうや、年上のお姉さんがおるんやから、安心や……て、痛ぇ!」
「年下ですっ」と言いざま、ミルカはオクオのふくらはぎを蹴り抜いた。
§
果たして――ミルカの言うとおり、オクオの心配は杞憂に終わった。
道中、幾人もの人族とすれ違い、小麦畑で働く農夫たちにも出会ったが、皆逃げ出すようなことはしなかった。身を固めて逃げ出すそぶりを見せる者はいるにはいたが、にこやかにして隣を歩くミルカを見るなり、安堵して立ち止まった。後退って道を譲られはするけれど、悲鳴を上げて逃げ出されるのとは大違いだ。
それでも、依頼主の農夫の家に着いて、オクオは大いに驚くこととなった。
「おまえさん、あのときの……」
腰をかばいながらよたよたと農家の母屋から現れたのは、オクオが里を出て二日目の朝、目が覚めたとたんに出くわした――あの農夫だった。
「あの、その節は……どうも」
それだけ言って、顔をしかめる。声を出すだけでも腰に響くらしい。
「無理しないでください。お話なら家の中で。よろしいですか?」
ミルカがすかさず助けを出す。母屋からはもう一人、少々お腹の大きな女性が現れた。農夫の妻だろう。身重であるようだ。妻はオクオたちを母屋に招くと、夫を助けて戸口をくぐった。
§
「すげーっ、オーク初めて見たあ」
二人が招かれた客間で、農夫の長男はオクオを見上げて屈託なく感嘆した。その陰から顔を出して「……人を食べちゃうって、ほんとう?」と、小さな娘が訊く。
ミルカは微笑みながら、娘の疑問に首を横に振った。
「そんなことないよ。オクオは人族とおんなじ物しか食べないよ」
次女だと紹介された少女の栗毛を、ミルカは愛おし気にして撫でた。一番小さな三男は……何も気にせず、母親が剥いたリンゴをほおばるばかりだ。
「さあ、ミルトン。ダーニャとセニアを連れて、向こうで遊んでらっしゃい。お母さんたち、オクオさんとお話があるからね」
長男のミルトンは妹のダーニャの手を引きながら、オクオに手を振る。セニアはりんごの切れ端を掴んだまま母親の膝から降ろされ、つとつとと歩いて兄の後を追う。
「――すみませんね、騒がしくて」
そう言って頭を掻くのは依頼主の農夫、かつてオクオに草刈り鎌を突きつけたまま逃げ出した、ダルトンだ。
「それで……なんでまた、ワイなんや? おまえさんのこと、脅かしてもうたろ」
「確かにあのときは……」と言葉を濁しながら、ダルトンはオクオを頼った訳を話し始めた。
「ミルカさんにはね、いつも畑の肥料を運んでもらっているのですよ。あの日、肥料を届けて頂いた帰り道、魔獣に襲われたミルカさんたちを助けたのは、オクオさん、あなただというじゃありませんか」
「うちの人、とても反省していたんです。ミルカさんから話を聞いてから、たしかにあのオークは〝なにもしない〟と言っていたと思い出して」
悪いことをしたと、農家の夫婦はオクオに詫びた。
「〝だいじょうぶや〟なんて、ふとーい声で言ったんでしょう? 驚いてしまうの、仕方ないですよ」
ミルカは微笑みを交えながら、隣に座るオクオを軽く小突く。
「いや、まあ、気にせんでくれ――それで、旦那さんの腰が悪いという話やったな」
「そうです。小麦畑が黄色く色づいてきたのは、ご覧になったでしょう。刈り入れが近いというのに、この腰では……て、うぐ……」
そう言ったままダルトンは、しばしの間身を固めてしまう。きっと、少しでも動くと息を詰めるほどに痛むのだろう。しかしほかにも、オクオには気がかりなことがあった。
「ほかのもんはええんか? 奥さんは身重のようやし、あっちで臥せとる――婆さんもおるやろ」
「分かるのですか? たしかに、夫の母がおりますが――」
驚きながら農夫の妻セーニャは、奥の部屋へと目を移した。
「気配でな。旦那さんの腰を診た後に、様子を見てもええやろか?」
「しかし――」と言いかけて、ダルトンはミルカの様子をうかがう。
「オクオがよければ、あたしは構わない。パパには――内緒にしとくね」
「すまんな、ボーゲン爺さんにもや。ちょっとその、気になってな――」
「どれ」とオクオは立ち上がり、ダルトンの傍らに立った。
「さっそく始めるで。まずは、旦那さんからやけど。おまえさんの寝台を使わせてもらうんでええか?」
「構いませんが――すみません、今歩けそうもなくて」
「ええよ、運んでくから。じっとしといて」
オクオは座面を下から抱え、ダルトンをひょいと椅子ごと持ち上げた。「あら」と驚く夫人の先導について行き、農家夫妻の寝室に案内された。
「寝かす時だけちーと痛むかもわからんが、それで最後や。すぐようなるから、我慢してな」
「は、はい……っ?!」
――こうしてオクオの出張施術は、農夫の短い悲鳴で始まった。
§
「……信じられない。まったく普通に……いや、十年若返った気分です!」
喜びながらダルトンは、寝室のあちこちを早足に歩き回る。
「喜んでくれるのはありがたいんやけど、あんまり無理したらあかんよ。腰のほかにも、あちこち整えてはおいたけど、ほんまに若返るわけやないんやから」
「それでも! これほど身を軽く感じたのは何年ぶりか。ありがとうございます」
「どれ、次は奥さんやな」
オクオはダルトンを寝室に残し、台所に立つ夫人のセーニャを訪ねた。あとから、落ち着きを取り戻したダルトンの足音がついてきた。
「でな奥さん、つわりが重いやろ?」
「はい。もうすぐ五カ月なんですが、今までの子よりもずっと辛くて」
「双子やと、そういうこともあるらしいな。ボーゲン爺さんが言うとったわ」
「え?」
声をそろえて、ダルトンとセーニャは驚いてみせる。
「あー、知らんかった? 元気に育っとるし、安心してええで。つわりは……自然のもんやから仕方ないんやけど――」
オクオはセーニャを椅子に座らせて、夫人の首筋に指先を伸ばした。首から始めて体の流れに沿い、柔らかに手を滑らせていく。淡い緑の燐光が手のひらから舞ううちに、セーニャの表情は日頃の疲れを忘れ去ったかのように、やすらかなものへと変わっていった。
「――よし。気脈を整えておいたから、これでずっと楽になるはずや」
「あの……男の子と女の子、どちらなのでしょうか」
セーニャに訊かれて、オクオは口ごもった。
「いやいや、さすがにそこまではな、分からんて。さてそれじゃ、婆さんの具合を診にいこか」
オクオがダルトンに向き直ると、セーニャの夫はにわかに顔を曇らせた。
「はい。では、こちらへ。しかし……」
オクオは「大丈夫や」とダルトンの肩に手を置いてから、臥せる老婆の部屋へと歩んでいった。
§
しばらく部屋に誰も立ち入らないようにと、オクオはミルカに言づけて、ダルトンの老いた母親と二人きりになった。
寝台に横たわる老母は、患ってからすでに久しいようだ。すっかりやせ細り、意識もずいぶんと薄い。細く開いた眼は白く濁り、光を得るのもままならない。浅い呼吸は、破れた戸を吹き抜ける夜風のように、がさがさと荒れた音をたてている。
「これは……長くはもたんやろうけど……」
目を凝らす。老婆の胃のあたりに、暗く重たい塊が見えた。胸にも影がある。
「臓腑のできものか。――ボーゲン爺さん、あまりええ顔せんやろなあ……けど」
意を決して、オクオは老母の傍らに歩み寄り、左手を額に、右手を腹のあたりに添えた。目を閉じ、深く念じる――在りし日の、すこやかな姿を取り戻すようにと。
次第にオクオの手が光り、やがて老母の寝室が白緑の輝きに満たされていく。オクオは額に汗が浮くのを感じた。やると決めたものの、ボーゲンの導きなしに患者の体中に散った病巣を浄化するなど、初めての経験だった――
「ふう……どうにか上手くできたな」
長く深い溜息をつき、オクオは呟く。寝室から神聖術の光が消え失せる――
額に浮いた汗を手で拭うオクオのもとで、老母は静かな寝息を立てていた。
§
オクオが老母の部屋から出ると、息子のダルトンは祈るような面持ちで扉の前に立っていた。
「あの、おふくろは――」
オクオが答えるよりも早く、ダルトンは相好崩し涙した。オクオの背後に気配があった。まだ多少おぼつかないが、確かな足取りでダルトンの母親がオクオの陰から姿を現した。
泣き崩れ縋りつく息子を、老いた母はいたわるようにしてその頭を幾度も撫ぜる。
すすり泣く声に気づいたのか、「お母さん」と妻のセーニャが駆け寄った。三人の子供たちも現れ両親と祖母の足元に抱きつき、口々に祖母の快癒をことほいだ。
その横を、オクオは静かに通り抜ける。もらい泣きするミルカの手を引き、何も告げず立ち去ろうと、母屋の戸口へと足を向けた。
「待ってください!」
ダルトンの呼び声が背にかかる。振り返ると、農夫の一家はそろって礼を取っていた。老母の瞳は晴れ渡り、はっきりと開いてオクオの姿を見つめている。
「なんとお礼をしたものか……噂は、本当だったのですね。神の手を持つオークがいると……」
「いや、その――ええんや。ほっとけなかっただけやから――て、神さまの手? ワイのこと、そんな話になっとるの??」
施療院でもオクオは患者に直接、本気の〈肩もみ〉は使っていない。弟子としてボーゲン院長に力を貸し与えているだけだ。それなのに。
「だいぶ尾ひれがついとるようやけど――まあその、とにかく婆さんが元気になってよかったわ」
なんとしたものか、とっさに良い知恵は浮かばない。派手な噂となるのは、あまり良いこととは思えないが――病に苦しむ者を目の前にしては、やはり捨て置くこともできないしで……。
頭を掻いてはにかむばかりのオクオは、一家に背を向けて立ち去ろうとしたのだが。今度は夫人に引き留められた。
「ねえ、あなた。今夜はお祝いしないと。オクオさんミルカさん、せめてお食事でも……ねえ、お母さん」
「そうね、私も体を動かしたくて仕方がないよ」と老母は答え、女たち二人は台所へと連れ立ってゆく。
つないだままでいた手を、ミルカに引かれた。
「せっかくだから、ご相伴にあずかろうよ」と言われるままに、オクオはミルカに連れられ母屋の客間に戻っていった。
§
「すっかり遅くなっちゃったね。日があるうちに帰るつもりだったけど」
街への夜道を、オクオはミルカと並び足早に歩んでいる。食事をふるまわれ、子供たちの相手をするなどするうちに、日はすっかり暮れてしまった。
「奥さんのお腹の双子な、男の子と女の子なんよ。言わんかったけど」
「そんなことまで分かるんだ。オクオの力って、すごいんだね」
素直に感嘆しているらしいミルカの言葉に、オクオはふと足を止めた。自分の手のひらを、じっと見つめてしまう。
「いや、昔はこんなにはっきりとは分からんかった。〈肩もみ〉したほうがよさそうな悪いところだけ、形が暗く見えるだけやったのに」
――最近は違う。目を凝らすことで、命の形としかたとえようのないものが見えるようになっていた。
「なんかな、ワイの〈肩もみ〉、前より力が強くなったみたいなんよ……爺さんとこで、修行したおかげなんやろか」
「いいことなんじゃないの?」
「分からん。悪いことやないとは思う。でもな――」
夜風が手のひらを撫でていく。開いていた手を、オクオはぐっと握りこんだ。
「悪いことを呼び込んでしまうような、そんな気もするんや……」
ミルカは何も言わずに、黙って話を聞いてくれる。それがなぜだか心強い。気を取り直して顔を上げ、オクオはミルカに向き直った。
「どれ、早う帰らんと。おまえの父ちゃんにどやされそうや」
言うが早いか、ミルカを両腕の中に抱え上げる。そのままオクオは、夜風よりも早く駆け出した。
「ちょっと、降ろしてっ!」
軽口で文句をつけつつも、ミルカはオクオの胸に頬を寄せるのだった。




