後編 施療院の下働き
暇なのだろうか――と、マーロは思う。テーブル越しの目の前でグラスを傾ける派遣行政官、ハドリス。主神神殿にふらりと現れては、こうしてひざ詰めで話をする羽目になる。しかし、彼には無駄な話が一切ない。いつもは自分一人で相手をするが、今日は神殿の長、モスハン祭司長の同席を求められた。何か、面倒な話を持ってきたのだろうが――
「おかしな噂を耳にしましてね。神職の方々なら、興味がおありなのでは……と」
謎かけから話を始めるあたり、珍しくハドリスは自分の話題を面白がっているらしい。もったいつけながら、マーロとモスハンに試すような眼を向けてきた。
「何の話かね、ハドリス君」
抑揚にかける、重たげな声音で祭司長が応じた。
「街に現れた、あのオークの件ですよ、護人組合に預けている亜人です。港の土木現場で崩落事故があったのはご存じでしょう?」
まだ、思わせぶりにする。マーロの心の内に苛立ちがもたげた。若者ならではの気の短さを、長年の精神修養の成果でどうにか抑え込み口をはさむが――
「それが何か。負傷者が出たとは聞いていますが」
「その怪我人をね、あのオークが、癒したのだそうです。頭蓋の割れた人足やらを、きれいさっぱり治療したとか……」
さすがに高ぶりを押さえきれなくなった。顔が険しくなるのをマーロは自覚した。モスハンは表情を毛筋ほども動かさない。むしろ、馬鹿にしたような目つきをハドリスに向けている。
ハドリスの注目はしかし、マーロ一人にあるらしい。面白そうに、口の端の片側がわずかに緩んだ。
「ほらね、興味がおありだ。聞いたことがありませんよねえ、神職の術師のみが使える神聖術を、オークがだなんて……いや、噂ですよ、うわさ」
そんなはずがあるものか――あってはならないことを、ハドリスは口にしている。指先に出かけた動揺を、マーロは履物の下で足先を握ることで堪えた。
「私も少し気になったのでね、少々調べさせたのです。暗闇の中に、緑色に光るヒカリムシのようなものを見た……瓦礫の下敷きになった人足が言ったそうです。緑の燐光……似ていますよね、神聖術の行使で現れる、あの光と」
「お忙しい行政官ともあろう方が与太話をしに、私のもとへ参られたので?」
穏やかで知られる祭司長が珍しく、声に苛立ちを滲ませた。ハドリスは、ここを潮時と判じたらしい。
「まあ人足自身は、朦朧として幻を見たのだろうとも言ったそうですがね――さてはて、何が本当なのやら」
そう言って、行政官は優美を崩さず立ち上がった。「そうそう、古代廃道の調査の件は、ムムカ殿に依頼しておきましたので」と付け加え、ハドリスは主神神殿の神官二人の前から辞去した。
§
厚い板ガラスの向こうで、暮れゆく空模様が暗く歪んだ。雨が近い。しかし窓辺に立つモスハン祭司長が見据えるのは、ガラスに映りこむマーロの姿だった。
ガラスの中の老いた目を、若き筆頭神官もまた見据えている。
皴深い目を閉じ、かさついた唇をおもむろに、モスハンは開いた。
「――マーロ」
「はい、祭司長様」
「分かっておるな。やり方は任せる」
伝えられたのは、それのみだ。
マーロは祭司長の背中に深く礼を取ると、自分の執務室へと辞した。
薄暗いままの執務室の中、机に置いた魔灯の明かりのみを頼りに、マーロは書状をしたためる。書き終えて封蝋を施し、神殿筆頭神官の印章を押した。
「誰かある」と、マーロは誰となく発した。隣室に控えていた見習い神官の一人が、すみやかにマーロの前に現れる。
「この書状を、施療院のボーゲン院長へ、急ぎで」
書状を見習いの少年に手渡した。いつになく苛立たしいマーロの態度に、少年はわずかな怯えをみせて「はい」とだけ答え、足早に辞去する。
雨風が不意に、執務室の窓を強く叩いた。暗い空の遠くで稲光が閃き、窓にはめ込まれたガラスの板を瞬間白くする。遅れて届く雷鳴は、マーロの不安をいや増すばかりだった。
§
一夜の風雨はすっかり消え去り、午前の澄んだ空には、雨音に代えてエルフ女の悲鳴が木霊していた。
あいかわらずの無職のオークは、久しぶりにと頼まれて、ドミナに肩もみ施術を施していたのである。
悲鳴が安息の吐息に変わるころ、品よく扉を叩く音がした。使用人のセバスだ。
「ドミナ様、施療院からボーゲン様がお見えになっております。オクオさんにも同席を願いたいと、庭園でお待ちです」
「ボーゲン爺さんが? なんだろ。オクオ、なんかやらかした?」
「知らんがな。ボケ爺さんなんぞ、里の長老だけでたくさんや」
身支度を整えて、オクオとドミナは庭園へと向かった。そこでオクオは、庭に小山が生えたのかと一瞬目を疑った。背丈はオクオに及ばないが、横幅では勝る矍鑠とした老人が立っていたのだ。
「久しぶりだね、ドミナ嬢。ほう――その若造がオクオかね」
野太い声だが、気は良さそうな声音だ。オクオに通じるものがある。
「オークの若造と儂が一緒じゃ、館の中は狭かろう。ここで待たせてもらったよ」
そう言って小山のような老人は、庭園の芝にどかりと腰を下ろした。オクオとドミナにも座ってくれと促し、三人は車座となる。
「改めて……施療院の院長をやっとる、ボーゲンだ」
胡坐をかいてボーゲンは、ひざの外に拳をついてのっそりと頭を下げた。
「オクオや。よろしゅうな。しかし爺さん、でかいな。ほんまに人族なんか?」
「儂の爺さんが獣人の出でな。その血のおかげで、こんななりをしとる」
座って対面してみると、里の長老が面前にいるような気分になってくる。体毛の強さからして大熊人の血筋だろうか。しかし、猛々しさも威圧も感じない。人好きのする好々爺といった面持ちだ。
「ほー、人族もいろいろおるんやなあ」
「ここいらでは珍しくはあるな。オークにも、いろいろおるのじゃないのか?」
〝いろいろ〟に力がこもる、引っかかる物言いだ。説教をするとき鎌をかけてくる里長の姿が重なり、オクオは知らず身構えた。
「オクオとやら。おぬし、事故の現場で怪我人の応急処置をしただろう? あの後、施療院に怪我をした人足たちが運び込まれてな。うちの施術師たちが、たいそう驚いておったよ」
「そうか、いやまあ、死人が出んくてなによりや」
なるほど――このボーゲンという老人は、どういうわけか〈肩もみ〉のことを聞きたいらしい。ムムカに言われた〝掟〟のことが気にかかる。「やっかいなこと」とはこれか? しかし、ボーゲンは年寄らしいもったいぶったところはあっても、面倒ごとをよこすような人物には見えなかった。
「儂もな、驚いておる……」
丸く黒目がちなボーゲンの目が、わずかに細まる。となりでドミナが身を固くするのが分かった。車座の中心に緊張が高まるのだが――ふいに、消えた。
「訪ねてきたのは、一つ提案があってな……おぬし、儂の弟子にならんか」
ボーゲンは声音を優し気に変え、口元をやわらげた。
腹を探ってきたかと思えば、今度は弟子とは。訝しむオクオを置いて、ボーゲンはドミナに顔を向けた。
「良いかな、ドミナ嬢」
「施療院に、見習い施術師として雇いたいということかい……なぜ?」
「そうさな、見込みのある若者を見つけた年寄の楽しみ……かの」
「オクオはこれでも護人だよ。ムムカに話を通すのが先だろう」
「それはもう、済ませたよ。しかし、おまえさんはこの若造の保護者みたいなものだろう? では、ドミナ嬢の許しは得ないとね」
やれやれとして、ドミナは肩をすくめる。
「手際がいいことで……ま、いいさ。ここで日がな一日ごろごろされていても、うちの食糧庫が空になるだけだ」
目を半眼にして、ドミナはじろっとオクオを睨めた。
「ひどない?」
「ひどくない。さっさと働けという意味だ。ありがたい話じゃないか。我流で身に着けた手技だろ。爺さんの腕は一流だ。しっかり一から勉強させてもらいなさい」
「ふむ、〈肩もみ〉の勉強……」と一呼吸して、オクオは声をやわらげる。
「ほんまにええの? なんか、ワイばっかり儲かる話に聞こえるけど」
「よいよい、気にするな。なかなか見どころがあるなと、儂は睨んでおるのだよ」
聞いた限りではあるがなと付け加えて、久しぶりに弟子を取るのは楽しみだ……などとボーゲンは顔をほころばせた。
「給金は護人組合を通して支払おう。いいかね?」
いいかと聞かれても、オクオは頷く以外にない。明日の朝一番に施療院に来いと言われて、話はまとまった。しかし、オクオには一つ疑問が残ってしまう。
「分かった。ところでな、爺さん……」
「なんだ?」
「せりょういん……て、なに?」
――ドミナとボーゲンが深いため息をついたのは、同時だった。
§
翌朝、ドミナの館で支度を済ませてすぐに、オクオはボーゲンの待つ施療院へと出向いた。街の南東、先ごろまで働いていた河川港の近くだ。庶民が多く暮らす下町と呼ばれる一角にあるとドミナからは聞いていたが、なるほど施療院なる建物は大きくはあっても華美ではない。護人組合の威風とはまた違う、簡素で清潔な佇まいの館だった。
「施療院とは」とのオクオの問いに、「庶民向けの治療所だ」とボーゲンは答えた。オースベルクには主神神殿が営む治療院があるのだが、こちらは寄進者向けの施術が主で、下々にはあまり縁が無いのだという。しかも、多額の寄付には「神聖術による特別な治療」で応じるというのだ。重い病や障りの残る怪我などの治療を、金銭的な理由であきらめる者は多いのだと、ボーゲンはオクオに語った。
これに対して施療院は、ボーゲン院長を筆頭にして民間の手により営まれている。なにかとかかる金銭は商売人からの援助が主で、任務で負傷した護人の手当も担うことから、人手も含めて護人組合の関与もあるとのことで――
「――とまあ、ここはそういうところだ。頭に入ったか?」
施療院の施設を案内されながら、オクオはボーゲンに質された。
「んーまぁ、だいたいは。しっかし、ややこしいな人族の街は。怪我だ病気だ診るのに、いちいち金を取るんか」
困っている者から対価を得るという習慣がオークにはないものだったから、オクオにはただただ不思議に思えてならないが――それが人族の習慣というなら、ここで生きる以上は、納得するしかないのだろう。
もう一つ、オクオは疑問を持った。施療院の切り盛りに護人組合も関わっているのなら、なぜここでの仕事をムムカはあてがわなかったのかということだ。もしや、「やっかいなことになる気がしてならん」との勘働きがゆえなのか――
「で、ワイ、なにすんの? 爺さんの肩でも揉むんか」
「いいや、違う。まずは掃除に洗濯だ。清潔は健康の元だからの」
――こんな調子で、オクオの施療院での仕事が始まった。
これが思わぬ重労働だった。瓦礫を運ぶほうが単純で、楽だと思えるほどだ。
施療院には、町中の人々が毎日入れ替わり立ち替わり訪れる。寝泊りをして治療を受ける者もいた。患者はオクオを見て恐れ怯える者が大半だったが、働く施術師たちは違った。ボーゲンが〈隷獣の首輪〉の事情を説明したことで、自分たちに害をなせないことを知ったからだ。おかげで、逆にこき使われることになった。逆らえないことをいいことに、やっかいな二つの仕事を次々に押し付けられたのである。
病人や怪我人は、自分の体が思うようにはならないものだ。その世話をするのも施術師の仕事だが、下働きの役目はその先にある。掃除だ。患者が流す血や膿のほか、ときに出る、吐しゃ物や糞便の始末がオクオの主な役目となった。
もう一つが洗濯だ。血や汚物を拭うのに、清潔な用具や布はかかせない。寝具もだ。敷布も掛布も汚れたままでは体に障る。毎日文字通り山のような洗濯物に追われて、オクオは施療院中を走り回るはめになった。
「弟子にとる」と言ったわりに、ボーゲンは直接オクオを指導するようなことはしなかった。ただ、日々仕事に奔走するオクオを眺めるばかりである。
しかし、施療院をあちこち走り回るうちに、オクオは自然と、働く施術師たちの仕事ぶりを見て、自分の手技に役立てる学びとしていった。知っている技もあれば、知らない技術もあった。本気の〈肩もみ〉に頼らずともやれることは多いのだなと、オクオはたくさんのことを学んだ。
次第に、そんなオクオの姿を見て、患者たちの恐れは薄くなり、施術師たちの態度も柔らかいものに変わっていった。もちろん、そうでない者はいるのだが、数は確実に減ったのだ。
そうして、半月ほどを過ごしたころのことだった。
血まみれのミルカとその仲間たちが、施療院に担ぎ込まれてきたのである。




