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第56話 氷磁

 ――銅貨三枚の器――


 オーウェン・グレンウッド伯爵の机には、いつも黒いカップが置かれていた。


 ずんぐりとして、分厚く、少し重い。表面には黒い釉薬がかかっているが、形はあまり整っていない。貴族の執務室に置くには、ずいぶん無骨な器だった。


 それでもオーウェンは、そのカップを気に入っていた。朝から帳簿を開き、農地の報告書を読み、倉庫の数字を確かめる。途中で誰かが訪ねてくれば仕事は中断するし、話が終われば、また別の書類が積み上がっている。そんなことを繰り返していると、せっかく淹れたコーヒーも冷めてしまう。


 ところが、この黒いカップは、なかなか冷めなかった。


「お父様、またそのカップですか?」


 王都のグレンウッド邸を訪ねていたエミリアが、机の端を見て言った。


「うん。これ、具合がいいんだよ。書類を読んでいると、どうしても飲むのを忘れてしまってね。これなら、しばらく温かいままなんだ」


「ずいぶん厚いですね」


「厚いよ。少し重いけど、慣れれば気にならない」


 エミリアは父からカップを受け取った。黒い釉薬の下には細かな凹凸が見え、持ち手は太く、縁の厚みも均一ではない。ただ、手に持つと妙に落ち着く。


「どちらで買われたのですか?」


「グレンウッド領の低湿地にある村だよ。あそこの陶工が作っている。低湿地の開発を始めた頃、村で出してもらったんだ。使ってみたら具合がよくてね」


「高そうには見えません」


「銅貨三枚」


「……三枚?」


 エミリアはカップを見直した。それなら、王都で売られている普通の陶器より、zずいぶん安い。


「私も一つ欲しいです」


「いいんじゃないかな。研究室で使うには丈夫でよさそうだ」


「では、取り寄せてもらいます」


 オーウェンは頷き、机の上の書類を一枚めくった。


「ただし、正式なお茶会には持っていかないほうがいいと思うよ」


「持っていきませんよ」


「そうかい」


 父は安心したように微笑んだ。もっとも、エミリアはその時点では、なぜそんな注意をされたのか、よく分かっていなかった。


 彼女にとってカップとは、飲み物を入れる器だったからである。


     ◇◇


 数週間後、王立大学校の魔法物理研究室に、黒いカップが四つ届いた。


「手作りという感じですね」


 アニーが一つを持ち上げた。並べてみると、どれも少しずつ形が違っている。


「ずいぶん重いです」


「父もそう言っていました」


 エミリアはカップを洗い、温めてから紅茶を注いだ。机の隅に置き、途中だった魔素通路の計測に戻る。


 黒鉛試料を交換し、針の動きを記録する。次の条件を決め、もう一度測る。気がつけば、かなり時間が経っていた。


「あ、紅茶」


 エミリアはようやく思い出し、カップを持ち上げた。一口飲んで、目を丸くする。


「まだ温かい」


「本当ですか?」


「はい。普通のカップなら、もう冷えている頃なのですが」


 アニーが器の外側に触れた。


「厚いからでしょうか?」


「そうかもしれませんね」


 エミリアは頷いた。熱の伝わり方なら、いずれ調べてみても面白そうだ。


 しかし、今日の研究課題は魔素通路である。


 これ以上横道にそれると、教授から何を研究しているのかと聞かれてしまう。そして、教授も一緒に脇道にそれてしまいそうなのが、もっと厄介である。


 エミリアはカップを机の隅に置き、記録紙へ戻った。


     ◇◇


「……ずいぶん、立派な厚さですわね」


 砂糖研究会で、フローレが黒いカップを見て言った。


 いつものお茶の時間だった。焼き菓子の試作品が並び、ミレイユが保存条件の記録を広げ、ノエミは何かの計算をしている。


「厚いですよ。それに、少し重いです」


「そういう意味では……」


 フローレは言葉を選んでいた。


 ミレイユが横から手を伸ばす。


「ちょっと見せてもらってもいい?」


「どうぞ」


 ミレイユは器を持ち上げ、裏返して底を眺めた。


「釉薬はちゃんとかかっているのね」


「はい。水も漏れません」


「食器なんだから、それは当然でしょう」


「まあ、それはそうです」


 エミリアは素直に頷いた。


「でも、研究室では便利なんです。紅茶がなかなか冷めなくて」


「それはいいわね。私も分析していると、お茶を飲むのを忘れてしまうもの」


 フローレは黒いカップと、机に並んだ白いティーカップを見比べた。


「研究室で使うなら、よろしいと思いますわ。でも、正式なお茶会には難しいでしょうね」


「そうですか?」


「そうですわ」


 今度は、きっぱりと言われた。


 エミリアは改めて二つの器を見比べた。白いカップは薄く、形が揃い、縁も滑らかだった。釉薬には柔らかな光沢があり、紅茶の色もよく見える。一方、黒いカップは何もかもが厚く、紅茶の色が見えにくい。


「お客様をお迎えする器には、別の役割がありますもの。茶の色を楽しむこともありますし、器そのものを見せることもあります。お客様にふさわしいものを用意した、という意味もありますわ」


「なるほど」


 自分が飲むための器と、お客様をもてなすための器では、求められるものが違うらしい。


「そういえば、この白磁って、どうしてこんなに高いの?」


 ノエミが尋ねた。


「原料から違うんですの。カオリンという、白く焼ける特別な土を使うのです」


 ミレイユが話を引き継いだ。


「アヴァロン王国では、良質なカオリンが十分に手に入らないのよ。完成品を輸入したり、輸入原料を使って国内で焼いたりしているけれど、高級白磁を安定して作れる工房は、国内でも一つか二つくらいでしょうね」


「そんなに少ないのですね」


「窯があれば作れるというものでもないから。原料を選んで、余計な成分を取り除いて、形が崩れないように焼く。簡単そうに見えて難しいのよ」


 エミリアは黒いカップを見た。これも、土を焼いたものである。ただし、色はまったく違う。


 彼女はカップを裏返し、底の釉薬がかかっていない部分を眺めた。


「……あれ?」


「どうしたの?」


「これ、案外、土の粒がきめ細かいですね」


 黒い素地には小さなくぼみがある。だが、目立つ砂粒は少なく、土そのものは細かな粒子からできているように見えた。


「低湿地の粘土だからでしょうか。水に溶かすと、なかなか濁りが取れないほど細かいと聞いています」


 ミレイユが少し興味を示した。


「それなら、選鉱には苦労しそうね」


「……でも」


 エミリアは白いカップを見た。黒いカップを見る。もう一度、白いカップを見る。


「この土をもっときれいにしたら、どうなるのでしょう?」


 フローレが瞬きをした。


「きれいに?」


「白く焼けるかもしれません」


「粒が細かいことと、白く焼けることは別だと思うけれど」


 ミレイユが指摘した。


「はい。そうですよね。でも、いずれ陶磁器工房に聞いてみたいですね」


 フローレが小さく息をついた。


「また、新しい研究が始まりそうですわね」


「相談するだけですよ」


「エミリアさんがそうおっしゃるときは、だいたい相談だけでは終わりませんの」


 研究会の面々は、誰も反論しなかった。


     ◇◇


 ――白い器への挑戦――


 王都の高級陶磁器工房は、外から見るよりずっと大きかった。成形場には皿や壺が並び、奥には大きな窯がある。職人たちが忙しそうに行き来していた。


 エミリアを迎えたのは、三十歳ほどの女性職人だった。


「イレーヌ・モローです。粘土の精製と成形を主にやってます」


「エミリア・グレンウッドです。よろしくお願いします」


 イレーヌは持ち込まれた黒いカップを手に取り、底や縁を確かめた。


「厚いですね。でも、釉薬はきちんとかかっています。村の陶工さん、ちゃんと仕事をしていますねえ」


「この土が、とても細かいそうなのです。もっと精製すれば、白磁の原料にならないでしょうか?」


「うーん、細かければ白磁になるというものではないですね。鉄分が多ければ色がつきますし、粘土そのものの成分も違いますから」


 奥から親方が歩いてきた。


「グレンウッド伯爵家のお嬢様が、粘土を持ってきたって?」


「はい、まだ原料になるかわかりませんが」


 イレーヌが訂正した。


 親方は黒いカップを指で軽く叩いた。


「悪くない器だね。いくらだい?」


「銅貨三枚です」


「三枚? その値段なら、悪くないどころじゃないね」


 親方は少し考え、イレーヌを見た。


「試験片くらいなら作れるかい?」


「小さなものなら、窯の隅に入れられます。ただし、白くなるとは限りませんよ」


「はい。まず、どこまでできるかを知りたいのです」


 親方は肩をすくめた。


「なら、やってみるといい」


 イレーヌは頷いた。


「……まず、土を見てみましょう。焼く前の土を」


     ◇◇


 低湿地から届いた粘土は、薄い灰色をしていた。


 乾かした塊を砕いて水を加えると、黒ずんだ泥になる。植物の細かな欠片や、根だったらしい繊維も混じっている。


「なるほど。これは、そのままでは白くなりませんね」


 イレーヌは土を指で潰した。


「地元では、これをざっと選鉱して使っているそうです」


「自分たちの村で使う食器なら、それで十分でしょうね。釉薬をかければ、ちゃんと作れてますから」


 最初に試したのは、水簸だった。土を水に溶き、よくかき混ぜ、しばらく置く。重い砂は先に沈み、植物の欠片には浮いてくるものもある。細かな粘土を含んだ水だけを、別の桶へ移す。


 単純な作業だった。


 単純だが、終わらない。


「……まだ濁っていますね」


 翌朝、エミリアは桶を覗き込んだ。


「細かな粘土ほど、沈むのに時間がかかるんです。ここで水を捨てると、欲しい粘土を捨ててしまいます」


 イレーヌは桶をそっと持ち上げた。


「だから、どの程度待って、どの部分を取るかが重要なんです」


 桶には番号が付けられた。原料を取った場所、水に溶いた回数、沈降を待った時間、回収できた粘土の量。イレーヌが選鉱を担当し、弟子たちが作業を繰り返す。エミリアは記録をまとめ、ときどき試験条件の相談をした。


 しかし、何度洗っても、粘土は完全には白くならなかった。


「有機物も、かなり残っているようですね。焼いて取り除いてみましょうか」


 イレーヌが泥の中の細かな繊維を見せた。


「そういう方法もあるんですか?」


「焼き固めない程度の低い温度で焼いて、有機物を減らすんです。ただし粘土の性質まで変わってしまうこともあります」


 乾燥させた粘土を砕き、浅い耐火容器に広げ、空気を通しながら加熱する。焼き固めない程度の温度で、有機物を燃やして減らす。もっとも、この温度ですべてが取り除けるわけではない。


 冷ました土は、石臼で細かく搗いた。


「まだ粗いですね。もう一度」


 イレーヌの指示で、弟子たちが石臼を動かす。搗いて、篩にかけ、粗いものを戻してまた搗く。細かな粉になったところで再び水に溶き、重い粒を沈めて選り分ける。


「……土を焼いて、また土に戻すんですね」


 弟子が感心したように言った。


「元の土とは少し違うわ。加熱すると性質が変わることもあるから、粉の細かさや水の量も調整しないとね」


 精製した粉に水を加え、十分に練って押し型に詰める。小さな試験片を作り、慎重に乾燥させた。


「焼いた後もちゃんと粘りましたね」


 エミリアが言った。


「乾燥すると割れるかもしれませんよ」


「そのときは、また考えます」


 イレーヌは苦笑した。


「工房では、失敗するたびに材料と薪と人手が減るんです」


「……そうでした」


 エミリアは少し申し訳なさそうに記録紙を見た。試験片の数は、すでにかなり増えていた。


     ◇◇


 試験は、何週間にもわたった。


 原料を精製し、粉の細かさや水の量を変え、成形して乾かす。素焼きのあと釉薬をかけ、さらに高い温度で焼く。窯の中の位置によっても仕上がりは変わった。


 最初の試作品は灰色だった。次は少し薄い灰色になり、三度目にはかなり明るい色が出た。


「近づいていますね!」


 エミリアは嬉しそうに言ったが、イレーヌの表情は渋かった。


「白くなってきましたが白磁には、まだ遠いです」


 机には、輸入カオリンを使った白い試験片も置かれていた。並べてみると違いは明らかだった。


「鉄分などが残っているのでしょうか?」


「その可能性は高いですね。それに、粘土そのものの組成も違うと思います。水簸で取り除けるものには限度がありますから」


「では、もっと洗浄を……」


「その前に、こちらを見てください」


 イレーヌは精製作業の記録を開いた。原料の重さと、精製後に残った量が書かれている。洗浄を繰り返すほど、使える原料は減っていた。


「白く焼けそうな部分だけを選ぼうとすると、ほとんど残らないんです。しかも、本当に白く焼けるとは限りません」


「……そんなに?」


「はい。これだけ手間をかけるなら、輸入カオリンを買ったほうが安いかもしれませんよ」


 エミリアは記録紙を見つめた。


 研究としては面白い。しかし、製品にするには費用も考えなければならない。


 隣で帳簿を見ていた親方が、苦笑した。


「研究は面白いけどね。工房は、品物を売らなきゃ商売にならないからねえ」


「はい……」


 エミリアも、その言葉には反論できなかった。


     ◇◇


 ――白くならない器――


 最後に、もう一度だけ試してみることになった。


 最もよく精製できた原料を使い、粉を細かく搗いてから型に詰め、小さな皿を作る。素焼きのあと釉薬をかけ、窯の中の位置を記録して本焼きした。


 数日後、冷えた窯から試作品が取り出された。


「……やっぱり駄目ですね」


 イレーヌがため息をついた。


 皿は白くなかった。かなり白に近づいた淡い灰色の地に青灰色の模様が浮かんでいる。細い筋のようなものもあれば、雲のように広がったものもあった。


「鉄分の影響でしょうか」


「たぶん。釉薬や窯の中の空気の状態も関係しますから、場所によって色が違ったのでしょう」


 別の皿には、少し緑がかった模様が出ていた。


 弟子が最後の皿を取り出した。


「ああ、これはもっと青いです」


 釉薬の下に細い青い筋が流れ、薄い氷の中に影が閉じ込められているように見えた。


 エミリアは思わず手を伸ばした。


「……きれいですね」


 イレーヌが少し意外そうな顔をした。


「え?」


「この青い模様です。何だか、薄い氷のようで」


「それは、不純物が残った跡ですね。本来なら、ここは白く焼き上がらなければいけないんですが」


「……そうなのですか」


「ええ。白磁としては残念ながら失敗です」


 エミリアはもう一度皿を眺めた。確かに、輸入原料の白磁と比べれば色が濁っている。何週間も精製を繰り返したのに、最後まで不純物を取り除くことができなかった。


 ただ、美しいと思ったのは確かだった。


「……やっぱり、まだ精製が足りないのでしょうね」


「そうですね。次は、もっと細かく選鉱しないといけません」


 イレーヌは試作品を脇の棚に置いた。棚には、灰色の皿、黄色みの残った皿、表面が荒れた皿など、これまでの失敗作が並んでいる。


 エミリアはしばらくそれを眺めていたが、やがて記録紙へ視線を戻した。


「いくつか、大学校へ持っていってもいいですか?」


「どうぞ。試作品でよければ」


 イレーヌは青い皿を布で包んだ。


「ただ、白磁ができたとは書かないでくださいね」


「もちろんです」


 エミリアは頷いた。


 白磁は、できなかった。その事実は変わらない。


     ◇◇


 ――王女様の一言――


「あら、これ……」


 砂糖研究会の部屋で、フローレが青い皿を見て足を止めた。


 エミリアは研究報告のため、試作品を机に並べていた。今日はイレーヌにも同行してもらい、工房での実験結果を説明してもらう。


 フローレは皿を持ち上げ、窓からの光にかざした。


「青い模様が入っているんですのね」


「はい、白磁にはなりませんでした」


 イレーヌが説明する。


「有機物を焼いて取り除き、細かく搗いてから水簸と選鉱を繰り返したのですが、どうしても色が残ってしまいまして」


「あら、そうでしたの」


 フローレは皿をもう一度見た。


 最初は、青い模様が少し面白いと思った。しかし、白磁を作るために精製した土に、不純物が残ってしまったのだという。そう聞いてみると、確かに白磁の美しい白さとは違う。


「……残念ですわね。もう少し白く焼ければ、正式なお茶会にも使えるでしょうに」


「そうなんです。白磁としては失敗でして」


「専門の工房でも、難しいのですわね」


 フローレは皿を机に戻した。


 ミレイユも試作品を確かめたが、細かな粘土に残った成分を水簸だけで取り除くのは難しいだろう、という見立てだった。


「それなら、別の原料を探したほうがよいかもしれないわね」


 エミリアも、フローレも、それ以上は何も言わなかった。


 そのとき、扉が開いた。


「何のお話ですの?」


 セリーヌ王女だった。王立大学校での用事を終え、研究会へ顔を出したのである。


「殿下。今日は陶磁器の研究です」


 エミリアが説明した。


「あら、珍しいこと」


 セリーヌは机に並んだ皿へ目を向けた。そして、一枚の前で足を止めた。


「……これは?」


「グレンウッド領の低湿地の粘土から、白磁を作ろうとした試作品です」


「白磁?」


「はい。でも、失敗しました。いくら精製しても不純物が残ってしまって、白くならないのです」


 セリーヌは皿を手に取った。窓から入る光にかざし、少し角度を変える。淡い青灰色の筋が、釉薬の下に浮かんでいた。


「……まあ」


 王女は小さく声を漏らし、皿をゆっくり回した。


「これ、きれいですわね」


 イレーヌは少し困った顔をした。


「ですが殿下、それは不純物が取り切れなかったのでございます」


「ええ。そうなのですか」


「鉄分などが取り除けていないため、色が出てしまったのです」


「なるほど。それはよく分かりましたわ」


 セリーヌは頷いた。しかし、皿を置こうとはしない。


「……あの、殿下?」


「それで、何が問題なのかしら?」


「……はい?」


「この青い模様、とてもきれいだと思うのですけれど」


 今度はフローレが口を開いた。


「ですから、正式なお茶会にお出しするには……」


 セリーヌは白い皿と青い皿を並べた。


「確かに、こちらは白磁ではありませんわね」


「はい」


「でも、こちらの皿が美しいかどうかは、また別のお話ではありませんか?」


 フローレは言葉に詰まった。


「白磁として失敗したことは、工房の皆様のおっしゃるとおりなのでしょう。わたくしは、陶磁器の製造について詳しくありません」


 セリーヌは微笑んだ。


「でも、わたくしはこれを美しいと思いましたわ」


 フローレは、もう一度皿を見た。


 最初に目にしたとき、少しきれいだと思った。けれど、工房が失敗作だと説明するので、その判断に従ってしまったのだ。


 セリーヌは青い筋を指先で示した。


「この模様をご覧になって。薄い氷の中に、何かが閉じ込められているみたいでしょう?」


 エミリアも顔を近づけた。確かに、最初に見たとき、自分もそんなふうに感じたのだった。


「冬の湖に張った氷の下に、景色があるようで……とても素敵ですわ」


「……確かに、美しいですわね」


 フローレがそっと頷いた。


「でしょう?」


 セリーヌは嬉しそうに笑った。


 それから、皿を見ながら少し考えるような顔をした。


「それに、これならお茶会でも使えますわね」


「……お茶会で、ですか?」


 イレーヌが驚いて聞き返した。


「ええ。もちろん、器としてきちんと焼けているのでしたら」


 セリーヌは青い皿を机の中央に置いた。


「こんな器でお茶をお出ししたら、きっと皆様、模様についてお尋ねになるでしょうね。どこで作られたのか、どうしてこんな色になるのか。お話も弾みそうですわ」


 フローレは皿を見直した。


 なるほど、言われてみれば、確かにそうだった。珍しい器は、それ自体がお茶会の話題になる。上等な白磁だけが、客人をもてなす器ではない。


「……それでしたら、お菓子を載せる皿としても使えそうですわね」


「そうでしょう? 淡い青なら、白いお菓子も映えそうですわ」


 フローレは思わず微笑んだ。料理を盛りつける器として考えてみれば、青い模様も悪くない。むしろ、どのお菓子を載せようかと考えるのが楽しくなってくる。


 王女殿下は、単に器を気に入ったと言っているのではない。実際にお茶会で使い、客人をもてなす場面まで見えているのだ。


 陶磁器の製造については、イレーヌのほうが詳しい。しかし、正式なお茶会でどのような器を使うかということなら、セリーヌ王女ほど経験を積んだ人も少ない。


「……なるほど。白磁である必要はないのですね」


 フローレが呟いた。


「そうですわ。白磁は、これまでどおり作ればよろしいでしょう。こちらは、別の陶磁器として考えてはいかが?」


 エミリアが顔を上げた。


「……別の器として?」


「ええ。白磁の代用品として考えるから、失敗になるのでしょう。最初から、この模様を楽しむための器を作るのでしたら?」


 イレーヌは青い皿を見つめた。


 それまで何週間も、白くするために工夫してきた。色が残れば失敗。模様が出れば不良品。そう考えて、少しでも不純物を減らすことばかり考えていた。


 しかし、王女殿下は、その残ってしまった模様を美しいと言う。しかも、正式なお茶会に出してもよいとまでおっしゃっている。


 自分たちが取り除こうとしていたものに、価値があるというのだ。


「……それでしたら、この青い模様を持つ陶磁器を、製品にするということでしょうか?」


「そうですわね」


 セリーヌは少し考えた。もう一度、皿を手に取る。


「……氷磁」


 小さく呟いた。


「はい?」


「氷の磁器。氷磁、という名前はどうかしら」


 エミリアが皿を見直した。


「氷磁……」


「この青い模様には、似合いますね」


 ミレイユも頷いた。


 セリーヌは少し得意そうに微笑んだ。


「では、そう呼びましょう」


 イレーヌはしばらく皿を見つめていた。


 白磁には、ならなかった。それは間違いない。しかし、王女殿下が名付けてくださった新しい陶磁器が、目の前にある。


「……氷磁」


 イレーヌは、その名前を確かめるように呟いた。


 失敗作だった皿が、急に別のものに見えてきた。


     ◇◇


「……ですが、殿下」


 イレーヌが恐る恐る口を開いた。


「一つ、困ったことがございます。この模様は、毎回違ってしまうのです」


 机に並べられた皿は、青い筋、緑がかった模様、雲のような模様と、どれも違っていた。


「同じ原料を使っても、混合状態や焼成条件で変わってしまいます。ですから、どれを成功とすればよいのか……」


 セリーヌは少し首を傾げた。


「どれも、きれいだと思いますけれど」


「ですが、製品としての基準が……」


「感性なんて人それぞれなんだから、自分が心地よいものを選べばよいと思いますわよ」


 イレーヌは黙った。


「……つまり、わたくしが選んでよろしいのでしょうか?」


「もちろんですわ。あなたが作った器なのでしょう?」


「ですが、殿下のお好みに合わなかったら……」


「わたくしの好みだけで決める必要はありませんわ。それに、焼き上がったものを並べて、お客様に選んでいただけばよいのではなくて?」


「……選んでいただく?」


「ええ。青い模様が好きな方もいれば、緑がかったものを好む方もいるでしょう。自分の好きなものを選ぶのも、楽しみの一つですわよ」


 イレーヌは目を瞬いた。


「……なるほど」


 イレーヌは小さく頷いた。


「でも、十客揃いの注文をいただいたら、どうしましょう?」


 セリーヌは少し考えた。


「模様の似たものをお選びになってもよろしいでしょうし、揃いの白磁をお勧めしてもよろしいのでは?」


「……あ」


 エミリアが笑ってしまった。


「そうですね。何も、すべてのお茶会を氷磁に変える必要はありません」


 イレーヌは、ようやく少し肩の力を抜いた。


 白磁には白磁の役割があり、氷磁には氷磁の役割がある。別の器として作り、別の器として売ればよいのだ。


     ◇◇


 ――氷磁の職人――


 数日後、王都の陶磁器工房では、親方と先輩職人たちが集まっていた。


「……氷磁、ねえ。王女殿下が名前を付けてくださったのか」


「はい。白磁としては失敗なのですが、別の陶磁器として評価していただけました」


 先輩職人の一人が青い皿を持ち上げた。


「なるほど。確かに、面白い模様だ」


 親方はしばらく考え、イレーヌに向き直った。


「氷磁のほうは、イレーヌ。あんたが担当しなさい」


「……私が、ですか?」


「そうだよ。これまで一番長く、その土を触ってきたんだから」


 イレーヌは少し驚いた顔をした。


「ただし、器としての品質は今までどおりだよ。割れたものや、釉薬が悪いものまで、売るんじゃないよ」


「もちろんです!」


 イレーヌは思わず声を大きくした。


 親方は笑った。


「なら、任せた。王女殿下が気に入ってくださったんだ。期待しているからね」


「……はい」


 イレーヌの返事は、今度は少し小さくなった。


     ◇◇


 その日の夕方、イレーヌは工房の一角に試作品を並べていた。


 青い筋の入った皿。緑の模様が広がった皿。淡い灰色の地に、細い線が走った皿。どれも同じ形を目指して作られた器だったが、模様は一つとして同じではない。


 弟子が横から覗き込んだ。


「これ、全部売るんですか?」


「器として問題がなければね」


「でも、どれが上等品なんでしょう?」


「……それは、……もう少し考えましょう」


 イレーヌは机の端に置かれた黒いカップを見た。エミリアが最初に持ち込んだ、銅貨三枚のカップである。


 村の陶工たちは、こんなに安く、使いやすい器を作っていた。自分たちは、それを高級な白磁に変えようとした。そして、失敗した。


 失敗したはずなのに、今度は王女殿下から名前をいただき、新しい工芸品を作ることになってしまった。


「……まったく」


 イレーヌは小さく笑った。


 白磁なら、白く焼ければ成功だった。ところが氷磁では、何が成功なのかさえ、これから決めなければならない。


 彼女は青い皿を一枚持ち上げた。窓から差し込む夕日を受けて、淡い模様が釉薬の下に浮かび上がる。


「……でも、これは確かにきれいね」


 イレーヌは皿を棚に戻した。その横に緑の皿を置き、さらに青い筋の細い皿を置く。並べてみると、それぞれ違った美しさがあった。


 イレーヌは棚の上に新しい札を立てた。


 ――氷磁。


 ――お好きな模様をお選びください。


 弟子がそれを読んで、首を傾げた。


「……どれを選んでも、同じ値段ですか?」


 イレーヌは、ぴたりと手を止めた。

 しばらくして、うめき声が漏れた。


「……それも、明日考えましょう」


 王女殿下のおかげで、新しい陶磁器が生まれた。そしてイレーヌ・モローの仕事は、どうやら以前よりずっと難しくなってしまったらしい。


 ただ、棚に並んだ器を眺める彼女の顔は、少し楽しそうでもあった。



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