第56話 氷磁
――銅貨三枚の器――
オーウェン・グレンウッド伯爵の机には、いつも黒いカップが置かれていた。
ずんぐりとして、分厚く、少し重い。表面には黒い釉薬がかかっているが、形はあまり整っていない。貴族の執務室に置くには、ずいぶん無骨な器だった。
それでもオーウェンは、そのカップを気に入っていた。朝から帳簿を開き、農地の報告書を読み、倉庫の数字を確かめる。途中で誰かが訪ねてくれば仕事は中断するし、話が終われば、また別の書類が積み上がっている。そんなことを繰り返していると、せっかく淹れたコーヒーも冷めてしまう。
ところが、この黒いカップは、なかなか冷めなかった。
「お父様、またそのカップですか?」
王都のグレンウッド邸を訪ねていたエミリアが、机の端を見て言った。
「うん。これ、具合がいいんだよ。書類を読んでいると、どうしても飲むのを忘れてしまってね。これなら、しばらく温かいままなんだ」
「ずいぶん厚いですね」
「厚いよ。少し重いけど、慣れれば気にならない」
エミリアは父からカップを受け取った。黒い釉薬の下には細かな凹凸が見え、持ち手は太く、縁の厚みも均一ではない。ただ、手に持つと妙に落ち着く。
「どちらで買われたのですか?」
「グレンウッド領の低湿地にある村だよ。あそこの陶工が作っている。低湿地の開発を始めた頃、村で出してもらったんだ。使ってみたら具合がよくてね」
「高そうには見えません」
「銅貨三枚」
「……三枚?」
エミリアはカップを見直した。それなら、王都で売られている普通の陶器より、zずいぶん安い。
「私も一つ欲しいです」
「いいんじゃないかな。研究室で使うには丈夫でよさそうだ」
「では、取り寄せてもらいます」
オーウェンは頷き、机の上の書類を一枚めくった。
「ただし、正式なお茶会には持っていかないほうがいいと思うよ」
「持っていきませんよ」
「そうかい」
父は安心したように微笑んだ。もっとも、エミリアはその時点では、なぜそんな注意をされたのか、よく分かっていなかった。
彼女にとってカップとは、飲み物を入れる器だったからである。
◇◇
数週間後、王立大学校の魔法物理研究室に、黒いカップが四つ届いた。
「手作りという感じですね」
アニーが一つを持ち上げた。並べてみると、どれも少しずつ形が違っている。
「ずいぶん重いです」
「父もそう言っていました」
エミリアはカップを洗い、温めてから紅茶を注いだ。机の隅に置き、途中だった魔素通路の計測に戻る。
黒鉛試料を交換し、針の動きを記録する。次の条件を決め、もう一度測る。気がつけば、かなり時間が経っていた。
「あ、紅茶」
エミリアはようやく思い出し、カップを持ち上げた。一口飲んで、目を丸くする。
「まだ温かい」
「本当ですか?」
「はい。普通のカップなら、もう冷えている頃なのですが」
アニーが器の外側に触れた。
「厚いからでしょうか?」
「そうかもしれませんね」
エミリアは頷いた。熱の伝わり方なら、いずれ調べてみても面白そうだ。
しかし、今日の研究課題は魔素通路である。
これ以上横道にそれると、教授から何を研究しているのかと聞かれてしまう。そして、教授も一緒に脇道にそれてしまいそうなのが、もっと厄介である。
エミリアはカップを机の隅に置き、記録紙へ戻った。
◇◇
「……ずいぶん、立派な厚さですわね」
砂糖研究会で、フローレが黒いカップを見て言った。
いつものお茶の時間だった。焼き菓子の試作品が並び、ミレイユが保存条件の記録を広げ、ノエミは何かの計算をしている。
「厚いですよ。それに、少し重いです」
「そういう意味では……」
フローレは言葉を選んでいた。
ミレイユが横から手を伸ばす。
「ちょっと見せてもらってもいい?」
「どうぞ」
ミレイユは器を持ち上げ、裏返して底を眺めた。
「釉薬はちゃんとかかっているのね」
「はい。水も漏れません」
「食器なんだから、それは当然でしょう」
「まあ、それはそうです」
エミリアは素直に頷いた。
「でも、研究室では便利なんです。紅茶がなかなか冷めなくて」
「それはいいわね。私も分析していると、お茶を飲むのを忘れてしまうもの」
フローレは黒いカップと、机に並んだ白いティーカップを見比べた。
「研究室で使うなら、よろしいと思いますわ。でも、正式なお茶会には難しいでしょうね」
「そうですか?」
「そうですわ」
今度は、きっぱりと言われた。
エミリアは改めて二つの器を見比べた。白いカップは薄く、形が揃い、縁も滑らかだった。釉薬には柔らかな光沢があり、紅茶の色もよく見える。一方、黒いカップは何もかもが厚く、紅茶の色が見えにくい。
「お客様をお迎えする器には、別の役割がありますもの。茶の色を楽しむこともありますし、器そのものを見せることもあります。お客様にふさわしいものを用意した、という意味もありますわ」
「なるほど」
自分が飲むための器と、お客様をもてなすための器では、求められるものが違うらしい。
「そういえば、この白磁って、どうしてこんなに高いの?」
ノエミが尋ねた。
「原料から違うんですの。カオリンという、白く焼ける特別な土を使うのです」
ミレイユが話を引き継いだ。
「アヴァロン王国では、良質なカオリンが十分に手に入らないのよ。完成品を輸入したり、輸入原料を使って国内で焼いたりしているけれど、高級白磁を安定して作れる工房は、国内でも一つか二つくらいでしょうね」
「そんなに少ないのですね」
「窯があれば作れるというものでもないから。原料を選んで、余計な成分を取り除いて、形が崩れないように焼く。簡単そうに見えて難しいのよ」
エミリアは黒いカップを見た。これも、土を焼いたものである。ただし、色はまったく違う。
彼女はカップを裏返し、底の釉薬がかかっていない部分を眺めた。
「……あれ?」
「どうしたの?」
「これ、案外、土の粒がきめ細かいですね」
黒い素地には小さなくぼみがある。だが、目立つ砂粒は少なく、土そのものは細かな粒子からできているように見えた。
「低湿地の粘土だからでしょうか。水に溶かすと、なかなか濁りが取れないほど細かいと聞いています」
ミレイユが少し興味を示した。
「それなら、選鉱には苦労しそうね」
「……でも」
エミリアは白いカップを見た。黒いカップを見る。もう一度、白いカップを見る。
「この土をもっときれいにしたら、どうなるのでしょう?」
フローレが瞬きをした。
「きれいに?」
「白く焼けるかもしれません」
「粒が細かいことと、白く焼けることは別だと思うけれど」
ミレイユが指摘した。
「はい。そうですよね。でも、いずれ陶磁器工房に聞いてみたいですね」
フローレが小さく息をついた。
「また、新しい研究が始まりそうですわね」
「相談するだけですよ」
「エミリアさんがそうおっしゃるときは、だいたい相談だけでは終わりませんの」
研究会の面々は、誰も反論しなかった。
◇◇
――白い器への挑戦――
王都の高級陶磁器工房は、外から見るよりずっと大きかった。成形場には皿や壺が並び、奥には大きな窯がある。職人たちが忙しそうに行き来していた。
エミリアを迎えたのは、三十歳ほどの女性職人だった。
「イレーヌ・モローです。粘土の精製と成形を主にやってます」
「エミリア・グレンウッドです。よろしくお願いします」
イレーヌは持ち込まれた黒いカップを手に取り、底や縁を確かめた。
「厚いですね。でも、釉薬はきちんとかかっています。村の陶工さん、ちゃんと仕事をしていますねえ」
「この土が、とても細かいそうなのです。もっと精製すれば、白磁の原料にならないでしょうか?」
「うーん、細かければ白磁になるというものではないですね。鉄分が多ければ色がつきますし、粘土そのものの成分も違いますから」
奥から親方が歩いてきた。
「グレンウッド伯爵家のお嬢様が、粘土を持ってきたって?」
「はい、まだ原料になるかわかりませんが」
イレーヌが訂正した。
親方は黒いカップを指で軽く叩いた。
「悪くない器だね。いくらだい?」
「銅貨三枚です」
「三枚? その値段なら、悪くないどころじゃないね」
親方は少し考え、イレーヌを見た。
「試験片くらいなら作れるかい?」
「小さなものなら、窯の隅に入れられます。ただし、白くなるとは限りませんよ」
「はい。まず、どこまでできるかを知りたいのです」
親方は肩をすくめた。
「なら、やってみるといい」
イレーヌは頷いた。
「……まず、土を見てみましょう。焼く前の土を」
◇◇
低湿地から届いた粘土は、薄い灰色をしていた。
乾かした塊を砕いて水を加えると、黒ずんだ泥になる。植物の細かな欠片や、根だったらしい繊維も混じっている。
「なるほど。これは、そのままでは白くなりませんね」
イレーヌは土を指で潰した。
「地元では、これをざっと選鉱して使っているそうです」
「自分たちの村で使う食器なら、それで十分でしょうね。釉薬をかければ、ちゃんと作れてますから」
最初に試したのは、水簸だった。土を水に溶き、よくかき混ぜ、しばらく置く。重い砂は先に沈み、植物の欠片には浮いてくるものもある。細かな粘土を含んだ水だけを、別の桶へ移す。
単純な作業だった。
単純だが、終わらない。
「……まだ濁っていますね」
翌朝、エミリアは桶を覗き込んだ。
「細かな粘土ほど、沈むのに時間がかかるんです。ここで水を捨てると、欲しい粘土を捨ててしまいます」
イレーヌは桶をそっと持ち上げた。
「だから、どの程度待って、どの部分を取るかが重要なんです」
桶には番号が付けられた。原料を取った場所、水に溶いた回数、沈降を待った時間、回収できた粘土の量。イレーヌが選鉱を担当し、弟子たちが作業を繰り返す。エミリアは記録をまとめ、ときどき試験条件の相談をした。
しかし、何度洗っても、粘土は完全には白くならなかった。
「有機物も、かなり残っているようですね。焼いて取り除いてみましょうか」
イレーヌが泥の中の細かな繊維を見せた。
「そういう方法もあるんですか?」
「焼き固めない程度の低い温度で焼いて、有機物を減らすんです。ただし粘土の性質まで変わってしまうこともあります」
乾燥させた粘土を砕き、浅い耐火容器に広げ、空気を通しながら加熱する。焼き固めない程度の温度で、有機物を燃やして減らす。もっとも、この温度ですべてが取り除けるわけではない。
冷ました土は、石臼で細かく搗いた。
「まだ粗いですね。もう一度」
イレーヌの指示で、弟子たちが石臼を動かす。搗いて、篩にかけ、粗いものを戻してまた搗く。細かな粉になったところで再び水に溶き、重い粒を沈めて選り分ける。
「……土を焼いて、また土に戻すんですね」
弟子が感心したように言った。
「元の土とは少し違うわ。加熱すると性質が変わることもあるから、粉の細かさや水の量も調整しないとね」
精製した粉に水を加え、十分に練って押し型に詰める。小さな試験片を作り、慎重に乾燥させた。
「焼いた後もちゃんと粘りましたね」
エミリアが言った。
「乾燥すると割れるかもしれませんよ」
「そのときは、また考えます」
イレーヌは苦笑した。
「工房では、失敗するたびに材料と薪と人手が減るんです」
「……そうでした」
エミリアは少し申し訳なさそうに記録紙を見た。試験片の数は、すでにかなり増えていた。
◇◇
試験は、何週間にもわたった。
原料を精製し、粉の細かさや水の量を変え、成形して乾かす。素焼きのあと釉薬をかけ、さらに高い温度で焼く。窯の中の位置によっても仕上がりは変わった。
最初の試作品は灰色だった。次は少し薄い灰色になり、三度目にはかなり明るい色が出た。
「近づいていますね!」
エミリアは嬉しそうに言ったが、イレーヌの表情は渋かった。
「白くなってきましたが白磁には、まだ遠いです」
机には、輸入カオリンを使った白い試験片も置かれていた。並べてみると違いは明らかだった。
「鉄分などが残っているのでしょうか?」
「その可能性は高いですね。それに、粘土そのものの組成も違うと思います。水簸で取り除けるものには限度がありますから」
「では、もっと洗浄を……」
「その前に、こちらを見てください」
イレーヌは精製作業の記録を開いた。原料の重さと、精製後に残った量が書かれている。洗浄を繰り返すほど、使える原料は減っていた。
「白く焼けそうな部分だけを選ぼうとすると、ほとんど残らないんです。しかも、本当に白く焼けるとは限りません」
「……そんなに?」
「はい。これだけ手間をかけるなら、輸入カオリンを買ったほうが安いかもしれませんよ」
エミリアは記録紙を見つめた。
研究としては面白い。しかし、製品にするには費用も考えなければならない。
隣で帳簿を見ていた親方が、苦笑した。
「研究は面白いけどね。工房は、品物を売らなきゃ商売にならないからねえ」
「はい……」
エミリアも、その言葉には反論できなかった。
◇◇
――白くならない器――
最後に、もう一度だけ試してみることになった。
最もよく精製できた原料を使い、粉を細かく搗いてから型に詰め、小さな皿を作る。素焼きのあと釉薬をかけ、窯の中の位置を記録して本焼きした。
数日後、冷えた窯から試作品が取り出された。
「……やっぱり駄目ですね」
イレーヌがため息をついた。
皿は白くなかった。かなり白に近づいた淡い灰色の地に青灰色の模様が浮かんでいる。細い筋のようなものもあれば、雲のように広がったものもあった。
「鉄分の影響でしょうか」
「たぶん。釉薬や窯の中の空気の状態も関係しますから、場所によって色が違ったのでしょう」
別の皿には、少し緑がかった模様が出ていた。
弟子が最後の皿を取り出した。
「ああ、これはもっと青いです」
釉薬の下に細い青い筋が流れ、薄い氷の中に影が閉じ込められているように見えた。
エミリアは思わず手を伸ばした。
「……きれいですね」
イレーヌが少し意外そうな顔をした。
「え?」
「この青い模様です。何だか、薄い氷のようで」
「それは、不純物が残った跡ですね。本来なら、ここは白く焼き上がらなければいけないんですが」
「……そうなのですか」
「ええ。白磁としては残念ながら失敗です」
エミリアはもう一度皿を眺めた。確かに、輸入原料の白磁と比べれば色が濁っている。何週間も精製を繰り返したのに、最後まで不純物を取り除くことができなかった。
ただ、美しいと思ったのは確かだった。
「……やっぱり、まだ精製が足りないのでしょうね」
「そうですね。次は、もっと細かく選鉱しないといけません」
イレーヌは試作品を脇の棚に置いた。棚には、灰色の皿、黄色みの残った皿、表面が荒れた皿など、これまでの失敗作が並んでいる。
エミリアはしばらくそれを眺めていたが、やがて記録紙へ視線を戻した。
「いくつか、大学校へ持っていってもいいですか?」
「どうぞ。試作品でよければ」
イレーヌは青い皿を布で包んだ。
「ただ、白磁ができたとは書かないでくださいね」
「もちろんです」
エミリアは頷いた。
白磁は、できなかった。その事実は変わらない。
◇◇
――王女様の一言――
「あら、これ……」
砂糖研究会の部屋で、フローレが青い皿を見て足を止めた。
エミリアは研究報告のため、試作品を机に並べていた。今日はイレーヌにも同行してもらい、工房での実験結果を説明してもらう。
フローレは皿を持ち上げ、窓からの光にかざした。
「青い模様が入っているんですのね」
「はい、白磁にはなりませんでした」
イレーヌが説明する。
「有機物を焼いて取り除き、細かく搗いてから水簸と選鉱を繰り返したのですが、どうしても色が残ってしまいまして」
「あら、そうでしたの」
フローレは皿をもう一度見た。
最初は、青い模様が少し面白いと思った。しかし、白磁を作るために精製した土に、不純物が残ってしまったのだという。そう聞いてみると、確かに白磁の美しい白さとは違う。
「……残念ですわね。もう少し白く焼ければ、正式なお茶会にも使えるでしょうに」
「そうなんです。白磁としては失敗でして」
「専門の工房でも、難しいのですわね」
フローレは皿を机に戻した。
ミレイユも試作品を確かめたが、細かな粘土に残った成分を水簸だけで取り除くのは難しいだろう、という見立てだった。
「それなら、別の原料を探したほうがよいかもしれないわね」
エミリアも、フローレも、それ以上は何も言わなかった。
そのとき、扉が開いた。
「何のお話ですの?」
セリーヌ王女だった。王立大学校での用事を終え、研究会へ顔を出したのである。
「殿下。今日は陶磁器の研究です」
エミリアが説明した。
「あら、珍しいこと」
セリーヌは机に並んだ皿へ目を向けた。そして、一枚の前で足を止めた。
「……これは?」
「グレンウッド領の低湿地の粘土から、白磁を作ろうとした試作品です」
「白磁?」
「はい。でも、失敗しました。いくら精製しても不純物が残ってしまって、白くならないのです」
セリーヌは皿を手に取った。窓から入る光にかざし、少し角度を変える。淡い青灰色の筋が、釉薬の下に浮かんでいた。
「……まあ」
王女は小さく声を漏らし、皿をゆっくり回した。
「これ、きれいですわね」
イレーヌは少し困った顔をした。
「ですが殿下、それは不純物が取り切れなかったのでございます」
「ええ。そうなのですか」
「鉄分などが取り除けていないため、色が出てしまったのです」
「なるほど。それはよく分かりましたわ」
セリーヌは頷いた。しかし、皿を置こうとはしない。
「……あの、殿下?」
「それで、何が問題なのかしら?」
「……はい?」
「この青い模様、とてもきれいだと思うのですけれど」
今度はフローレが口を開いた。
「ですから、正式なお茶会にお出しするには……」
セリーヌは白い皿と青い皿を並べた。
「確かに、こちらは白磁ではありませんわね」
「はい」
「でも、こちらの皿が美しいかどうかは、また別のお話ではありませんか?」
フローレは言葉に詰まった。
「白磁として失敗したことは、工房の皆様のおっしゃるとおりなのでしょう。わたくしは、陶磁器の製造について詳しくありません」
セリーヌは微笑んだ。
「でも、わたくしはこれを美しいと思いましたわ」
フローレは、もう一度皿を見た。
最初に目にしたとき、少しきれいだと思った。けれど、工房が失敗作だと説明するので、その判断に従ってしまったのだ。
セリーヌは青い筋を指先で示した。
「この模様をご覧になって。薄い氷の中に、何かが閉じ込められているみたいでしょう?」
エミリアも顔を近づけた。確かに、最初に見たとき、自分もそんなふうに感じたのだった。
「冬の湖に張った氷の下に、景色があるようで……とても素敵ですわ」
「……確かに、美しいですわね」
フローレがそっと頷いた。
「でしょう?」
セリーヌは嬉しそうに笑った。
それから、皿を見ながら少し考えるような顔をした。
「それに、これならお茶会でも使えますわね」
「……お茶会で、ですか?」
イレーヌが驚いて聞き返した。
「ええ。もちろん、器としてきちんと焼けているのでしたら」
セリーヌは青い皿を机の中央に置いた。
「こんな器でお茶をお出ししたら、きっと皆様、模様についてお尋ねになるでしょうね。どこで作られたのか、どうしてこんな色になるのか。お話も弾みそうですわ」
フローレは皿を見直した。
なるほど、言われてみれば、確かにそうだった。珍しい器は、それ自体がお茶会の話題になる。上等な白磁だけが、客人をもてなす器ではない。
「……それでしたら、お菓子を載せる皿としても使えそうですわね」
「そうでしょう? 淡い青なら、白いお菓子も映えそうですわ」
フローレは思わず微笑んだ。料理を盛りつける器として考えてみれば、青い模様も悪くない。むしろ、どのお菓子を載せようかと考えるのが楽しくなってくる。
王女殿下は、単に器を気に入ったと言っているのではない。実際にお茶会で使い、客人をもてなす場面まで見えているのだ。
陶磁器の製造については、イレーヌのほうが詳しい。しかし、正式なお茶会でどのような器を使うかということなら、セリーヌ王女ほど経験を積んだ人も少ない。
「……なるほど。白磁である必要はないのですね」
フローレが呟いた。
「そうですわ。白磁は、これまでどおり作ればよろしいでしょう。こちらは、別の陶磁器として考えてはいかが?」
エミリアが顔を上げた。
「……別の器として?」
「ええ。白磁の代用品として考えるから、失敗になるのでしょう。最初から、この模様を楽しむための器を作るのでしたら?」
イレーヌは青い皿を見つめた。
それまで何週間も、白くするために工夫してきた。色が残れば失敗。模様が出れば不良品。そう考えて、少しでも不純物を減らすことばかり考えていた。
しかし、王女殿下は、その残ってしまった模様を美しいと言う。しかも、正式なお茶会に出してもよいとまでおっしゃっている。
自分たちが取り除こうとしていたものに、価値があるというのだ。
「……それでしたら、この青い模様を持つ陶磁器を、製品にするということでしょうか?」
「そうですわね」
セリーヌは少し考えた。もう一度、皿を手に取る。
「……氷磁」
小さく呟いた。
「はい?」
「氷の磁器。氷磁、という名前はどうかしら」
エミリアが皿を見直した。
「氷磁……」
「この青い模様には、似合いますね」
ミレイユも頷いた。
セリーヌは少し得意そうに微笑んだ。
「では、そう呼びましょう」
イレーヌはしばらく皿を見つめていた。
白磁には、ならなかった。それは間違いない。しかし、王女殿下が名付けてくださった新しい陶磁器が、目の前にある。
「……氷磁」
イレーヌは、その名前を確かめるように呟いた。
失敗作だった皿が、急に別のものに見えてきた。
◇◇
「……ですが、殿下」
イレーヌが恐る恐る口を開いた。
「一つ、困ったことがございます。この模様は、毎回違ってしまうのです」
机に並べられた皿は、青い筋、緑がかった模様、雲のような模様と、どれも違っていた。
「同じ原料を使っても、混合状態や焼成条件で変わってしまいます。ですから、どれを成功とすればよいのか……」
セリーヌは少し首を傾げた。
「どれも、きれいだと思いますけれど」
「ですが、製品としての基準が……」
「感性なんて人それぞれなんだから、自分が心地よいものを選べばよいと思いますわよ」
イレーヌは黙った。
「……つまり、わたくしが選んでよろしいのでしょうか?」
「もちろんですわ。あなたが作った器なのでしょう?」
「ですが、殿下のお好みに合わなかったら……」
「わたくしの好みだけで決める必要はありませんわ。それに、焼き上がったものを並べて、お客様に選んでいただけばよいのではなくて?」
「……選んでいただく?」
「ええ。青い模様が好きな方もいれば、緑がかったものを好む方もいるでしょう。自分の好きなものを選ぶのも、楽しみの一つですわよ」
イレーヌは目を瞬いた。
「……なるほど」
イレーヌは小さく頷いた。
「でも、十客揃いの注文をいただいたら、どうしましょう?」
セリーヌは少し考えた。
「模様の似たものをお選びになってもよろしいでしょうし、揃いの白磁をお勧めしてもよろしいのでは?」
「……あ」
エミリアが笑ってしまった。
「そうですね。何も、すべてのお茶会を氷磁に変える必要はありません」
イレーヌは、ようやく少し肩の力を抜いた。
白磁には白磁の役割があり、氷磁には氷磁の役割がある。別の器として作り、別の器として売ればよいのだ。
◇◇
――氷磁の職人――
数日後、王都の陶磁器工房では、親方と先輩職人たちが集まっていた。
「……氷磁、ねえ。王女殿下が名前を付けてくださったのか」
「はい。白磁としては失敗なのですが、別の陶磁器として評価していただけました」
先輩職人の一人が青い皿を持ち上げた。
「なるほど。確かに、面白い模様だ」
親方はしばらく考え、イレーヌに向き直った。
「氷磁のほうは、イレーヌ。あんたが担当しなさい」
「……私が、ですか?」
「そうだよ。これまで一番長く、その土を触ってきたんだから」
イレーヌは少し驚いた顔をした。
「ただし、器としての品質は今までどおりだよ。割れたものや、釉薬が悪いものまで、売るんじゃないよ」
「もちろんです!」
イレーヌは思わず声を大きくした。
親方は笑った。
「なら、任せた。王女殿下が気に入ってくださったんだ。期待しているからね」
「……はい」
イレーヌの返事は、今度は少し小さくなった。
◇◇
その日の夕方、イレーヌは工房の一角に試作品を並べていた。
青い筋の入った皿。緑の模様が広がった皿。淡い灰色の地に、細い線が走った皿。どれも同じ形を目指して作られた器だったが、模様は一つとして同じではない。
弟子が横から覗き込んだ。
「これ、全部売るんですか?」
「器として問題がなければね」
「でも、どれが上等品なんでしょう?」
「……それは、……もう少し考えましょう」
イレーヌは机の端に置かれた黒いカップを見た。エミリアが最初に持ち込んだ、銅貨三枚のカップである。
村の陶工たちは、こんなに安く、使いやすい器を作っていた。自分たちは、それを高級な白磁に変えようとした。そして、失敗した。
失敗したはずなのに、今度は王女殿下から名前をいただき、新しい工芸品を作ることになってしまった。
「……まったく」
イレーヌは小さく笑った。
白磁なら、白く焼ければ成功だった。ところが氷磁では、何が成功なのかさえ、これから決めなければならない。
彼女は青い皿を一枚持ち上げた。窓から差し込む夕日を受けて、淡い模様が釉薬の下に浮かび上がる。
「……でも、これは確かにきれいね」
イレーヌは皿を棚に戻した。その横に緑の皿を置き、さらに青い筋の細い皿を置く。並べてみると、それぞれ違った美しさがあった。
イレーヌは棚の上に新しい札を立てた。
――氷磁。
――お好きな模様をお選びください。
弟子がそれを読んで、首を傾げた。
「……どれを選んでも、同じ値段ですか?」
イレーヌは、ぴたりと手を止めた。
しばらくして、うめき声が漏れた。
「……それも、明日考えましょう」
王女殿下のおかげで、新しい陶磁器が生まれた。そしてイレーヌ・モローの仕事は、どうやら以前よりずっと難しくなってしまったらしい。
ただ、棚に並んだ器を眺める彼女の顔は、少し楽しそうでもあった。




