第55話 王妃の一日
エレノア王妃の机には、セリーヌの名が記された書状が三通並んでいた。
一通は外国の王族から。残る二通は、国内の有力貴族との縁を、それとなく持ちかけるものだった。いずれも、まずは王家の意向を知りたいという段階である。
家柄は釣り合う。年齢も悪くない。どの縁にも、王国にとっての意味があった。
それでも、エレノアは返答を書く気になれなかった。
外国へ嫁がせるとしたら、あの子は、いくつの仕事を置いていくことになるのだろう。
王立大学校、軍へ送る食品、治療に使う道具、農業、工房、商会。最近では、通信の話まで届く。娘が相談を受け、その先の誰かへ話を持っていくたびに、王宮へ届く報告書の名前も増えていた。
娘だけを送り出したつもりで、その周りにできた人のつながりまで動いてしまうかもしれない。何より、今のセリーヌに、大学校へ通わずに暮らせと言えるだろうか。
エレノアは外国からの書状を脇へ寄せた。
では、国内なら誰でもよいかといえば、そうでもない。
娘は本をよく読み、十二のころには野戦治療院や野戦調理所へまで出かけた。その知識と経験が、今の仕事につながっている。
本人も、自分がずいぶん物を知っていることは承知している。
だから、知らないことを尋ねるのにためらいがない。これだけ調べた自分にも分からないのだから、尋ねる価値がある。帰ってきた娘の話しぶりからは、ときどき、そんな自負が顔をのぞかせた。
少し得意になりすぎているのでは、と思う日もある。だが、自分より詳しい相手の話には、楽しそうに耳を傾ける。教わったことを持って、また別の相談へ出かけていく。
その娘に、一日中、さようでございますと頷いてくれる男性を引き合わせたところで、どうなるだろう。
礼儀正しく一度は話し、次からは研究室へ行く用事が入るに違いなかった。
「セリーヌ付きの者を、一人呼んで頂戴。先日の晩餐会に付き添っていた者がよいわ」
控えの侍女が下がると、エレノアは残る二通も重ねた。返事を急いで、あとから娘を説得する仕事まで増やしたくはない。
まずは、あの子が、誰と話しているのかを知ることにした。
◇◇
呼ばれた侍女は、何か不手際があったのかと案じているようだった。
「叱るために呼んだのではないの。セリーヌの大学校での様子を、少し聞きたくて」
茶を勧めると、ようやく肩の力が抜けた。
「砂糖研究会の皆様とお過ごしになることが多うございます。ただ、最近はそれぞれお忙しく、殿下のほうから工房や研究室を訪ねていかれることもございます」
「エミリアさんも、忙しくしているのね」
「はい。お話が始まると、つい長くなられます」
エレノアは、エミリアの母の顔を思い浮かべた。
治癒師のエリザベスとは、以前、病を診てもらって以来の知り合いである。治療の合間には家族の話もした。娘の婚約が決まったころに、その経緯を聞いたこともあった。
エレノアはエリザベスとの会話を思い出す。
◇◇
「ヘンリー君のご実家が、縁談のお手紙をあちこちへ出していらしたのです。ご年齢のこともあって、そろそろお相手を、と。それで、私の耳にも入りまして」
「そこで、お調べになったの?」
「ええ。製鉄所の技師をなさっている方で、科学的にものを作ることをよく知っておられました。あの子のお相手には、この方だと思いまして。先方ともお話をさせていただきました」
「エミリアさんには?」
「その、あとで話しました」
目を丸くしてエレノアが顔を見ると、エリザベスは平然と続けた。
「いつも研究が忙しいと言いますが、それは来年も同じでしょう、と」
「まあ」
「待っておりましたら、あの子は何もいたしませんもの。気がつけば婚約の話になっているではありませんか、と言われましたけれど」
娘が腰を上げる前に、母親が調べ、相手の家と話し、縁談をまとめてしまったらしい。
「ずいぶん、思い切ったのね」
「まず、こういうお相手は見つからないと思いましたから。本人がその気になるまで待って、お相手によそでお話が決まってしまっては困りますでしょう」
◇◇
あのとき、エリザベスは少しも迷っていなかった。
今なら、その気持ちは分かる気がした。
セリーヌは、王家に生まれた以上、恋愛によらない婚姻も考えるべきことだと分かっているだろう。けれど、それで相手が見つかるものでもない。
王女の立場と、あの頭脳と、次々に増える仕事。そのすべてを前にして、付き合っていける人物が要る。
エレノアは、茶器を置いて侍女へ向き直った。
「先日の晩餐会は、どうだったのかしら」
「滞りなくお務めになりました。同じ卓に大学校の准教授がおいでで、使節の方々からのお尋ねにも、お二人でお答えになっておいででした」
「どなた?」
「バスティアン・ド・ヴァルモン様でございます。政治や経済を研究なさっている方と伺っております」
交渉関係者の名簿を開くと、確かにその名があった。
「セリーヌとは、以前からお知り合いなの?」
「何度かご相談なさったことがあるようです。交渉のお席では落ち着いておられましたし、晩餐会のあとには、殿下へ笑いながらお声をかけていらっしゃいました」
「どんなお話を?」
侍女が、わずかに口元を緩めた。
「王女殿下でも、驚かれることがあるのですね、と」
「……あの子、何をしたの?」
「お肉が、大変熱うございましたので」
ああ、とエレノアは頷いた。百人分もの皿が並んだというのに、どの卓にも焼き立てが届いた。あの夜の料理は覚えている。
「すぐにお顔を整えていらっしゃいましたが、先生はお気づきだったようでございます」
「それで、何と答えたの?」
「仕方ありませんわ。まだ肉が鳴いていましたもの、と」
娘の声で、はっきりと想像できた。エレノアは笑った。
人前では澄ましている娘が、そういう返事をしていたのである。侍女の様子を見る限り、気分を害したわけでもなさそうだった。
「先生とは、そのあともお話ししているの?」
「はい。本日も、王宮でお会いになる予定があると伺っております」
エレノアは名簿から顔を上げた。
「今日、こちらへ?」
「レオナール様のところへ、ご一緒なさるそうでございます」
縁談の相手を探していたところへ、軍の最高幹部の名が出てきた。
どうやら、まず娘に聞く必要がある。
◇◇
セリーヌは、大学校へ出かける前に顔を見せた。抱えている紙には、すでに何枚も細い紙片が挟まっていた。
「今日は、レオナールのところへ行くそうね」
「ええ。ヴァルモン先生と。今度は法務の方にも、お話を聞いていただくことになりましたの」
「今度は、というと、もう一度お会いになったの?」
「先日、叔父様にご紹介しましたわ」
母が一人の准教授の名前を知ったばかりの間に、娘はすでに第一軍大将へ紹介を済ませていたらしい。
「どのようなお話なの?」
セリーヌは紙を机の端に置いた。話を聞く時間があると分かって、少し嬉しそうに見える。
先生の専門は、王国と領主と軍との役割分担なのだという。兵を出す義務、物資の負担、その兵が誰の指揮を受けるのか。先日の交渉の話から、グレンウッドの一次戦役当時の議会へ話が移ったらしい。
「リュシアたちが、一人ずつ説得して回った件ね」
「ええ。諸侯が別々の命令を差し込むことを止めて、司令部へ指揮を任せたでしょう。先生も、必要な判断だったとおっしゃっていました」
当時の騒ぎは、エレノアも覚えていた。軍が動いているのに、議会では別の兵を出すとか、領地を譲るとかいう話が飛び交った。リュシアやジュリアン、研究会の者たちが、それぞれのつながりを使って収めたのだった。
「ただ、次も同じように説得して回るのでは困ると。それから、全権を委ねる、その全権はどこまでなのかというお話になりましたの」
「出陣の前に決めておくということね」
「先生が、軍は出陣した後は、たとえ王の命令といえど聞けないことがある、と」
「それは、どのような場合のお話?」
「命令が届くころには、指定された道が通れなくなっているかもしれませんわ。そこで返事を待っていては、援軍が間に合わない。ですが、勝手に道を変えたと咎められるのでも困りますでしょう」
娘は、説明のために持ち出した紙を、母のほうへ向けた。
「何を果たすべきかと、どこまで現地で変えてよいかを、伝えておかなければならないのですって」
「それで、レオナールへ?」
「実際にどこでお困りになるかは、叔父様に伺うのが早いと思いまして」
セリーヌには、自然な順番なのだろう。父には父の、兄には兄の役目がある。軍の話なら、軍を預かる叔父へ持っていく。娘自身に兵を動かす権限があるわけではない。
「先生も、すぐにお会いになりたいと?」
「先に資料をまとめたいとおっしゃいました。叔父様は、まず聞くだけでよいとお返事くださったのですけれど」
「先生には、先生の準備がおありなのでしょう」
「ええ。先生のご都合のよい日にしていただきましたわ」
そこを待てたなら、ひとまずよい。
エレノアは紙から顔を上げた。
「よく、ご相談する方なのね」
「話が早いのです。こちらの案が通りにくいところも、古い取り決めまで調べて理由を返してくださいます。先生のほうでも、実際にはどうなっているか分からないときは、お尋ねになりますし」
「それで、一緒に聞きにいくの?」
「ええ。そのほうが、次のお話も早くなりますもの」
「お仕事を離れて、ほかのお話もなさるのかしら」
「先日は、叔父様がどのような方かと」
またレオナールへ戻ってしまった。
「ご自分に分からないことは、率直にお尋ねになる方ですとお伝えしましたわ。先生も、話しやすいのではないかしら」
娘のいう話しやすさを、准教授が同じように感じるとは限らない。エレノアは、その言葉だけは心に留めた。
「午後のお話が終わったら、様子を聞かせて頂戴」
「ええ。先生がお調べになった事例を伺うのも、楽しみですわ」
娘は紙を抱え直して下がった。
ヴァルモンについて、ずいぶん説明を聞けた。それなのに、娘自身がその人物をどう見ているかは、仕事の話の合間から拾わなければならなかった。
◇◇
娘を送り出したあと、エレノアは朝の用事へ戻った。
訪問客を迎え、王家から出す書状の文面を確かめ、次の式典の席順を見直す。その途中で、交渉に参加した者たちの経歴をまとめた紙も届けてもらった。
ヴァルモンの家は伯爵家だった。名前には覚えがある。家格だけでも、初めから候補の外へ置くような相手ではなかった。
もっとも、それだけで何も決まらない。誰が家を継ぐのか、本人は将来をどう考えているのか。大学校での勤めを続けたいとして、それを王家がどう扱うかも考えなければならない。
エレノアは、経歴の紙を交渉の名簿へ重ねた。
この段階で先方の家へ縁談をほのめかせば、それだけで周囲が動き始める。まず娘と、その先生が、どのように付き合っているのかを見ておきたかった。
侍女に尋ねれば、宴のあとで笑っていたという。娘に聞けば、話が早いという。
それだけでも、朝に並べた三通の書状より、本人の姿はよく見える。
次に必要なのは、娘に付き合わされる側からの話だった。
「レオナールが陛下へのご用を済ませたら、少し寄っていただけるか伺って頂戴」
午後には、三人の仕事がまた進む。その前に、一度目の面会のことを聞いておきたかった。
◇◇
昼前に顔を出したレオナールは、ヴァルモンの名を聞くと、すぐに頷いた。
「今日も来てもらいます。法務と合わせて、前回の案を確かめることになっていましてね」
「セリーヌから聞いたわ。急に紹介されて、お困りではなかった?」
「いや。軍の再編でも、避けては通れぬ話です。困った顔をしていたのは、先生のほうでしたよ」
「あら。晩餐会では、落ち着いてお務めになったそうですけれど」
「交渉に呼ばれるのと、私のところへ私見を持ってくるのとでは、気持ちも違うのでしょう。まだ制度として出せる案ではないと、前置きされました」
エレノアは、先ほどの娘の顔を思い出した。ご自分にも分からないことがあれば尋ねる方ですから、話しやすいはずだと、本気で考えていたらしい。
「セリーヌは?」
「平然としていました。私の顔より、先生の書類を見ていたくらいです」
「あの子には、叔父様のところへ来ただけですものね」
「先生にまで、同じ顔をしろというのは酷でしょうな」
レオナールが笑い、エレノアも口元を緩めた。
娘も、叔父の権力は知っている。ただ、家族へ相談するのに身構える習慣がない。隣を歩く准教授には、いきなり国の中枢へ連れていかれたように見えたに違いなかった。
「最後まで、そのようなご様子だったの?」
「話が始まれば別です。こちらが出した例に、自分の案を直すところは直す。ですが、私が、軍にもっと広く変更を認めてもらいたいと言えば、その書き方では広すぎると」
「あなたに?」
「ええ。丁寧に言い直してはいましたが、意見は変えませんでした」
エレノアは、続きが来るのを待った。
「軍に任せる部分だけを広げれば、国として止めるべきところまで軍が決めることになる。そういう話でした。こちらとしても、曖昧なままでは困る」
「それで、法務の方も?」
「はい。言葉の上で何を認めたことになるか、確かめる必要があります」
落ち着いて見えるかどうかだけでは、分からないものだ。
王弟の前で緊張するのも、話が国の仕事になる重さを分かっているからだろう。そのうえで、必要な意見を述べられるなら、娘が相談したがるのも分かる。
「次のお仕事も、先生から引き受けてくださったの?」
「命令をめぐる過去の事件を調べたいと、当時の文書を求めてきました。今日は、調べたことを持ってくるはずです」
「では、お話が済んだら、お茶をご一緒しましょう。先生にも、ご挨拶をしておきたいわ。先日の交渉では、娘がお世話になりましたもの」
「分かりました。ただ、終わる時刻は少し前後するかもしれません」
「こちらの用事を済ませてから、伺うわ。まだお話が続いていたら、お待ちします」
レオナールが下がると、エレノアは午後の予定を確かめた。
最初から准教授だけを呼べば、王妃に何を尋ねられるのかと、また身構えさせるだろう。叔父や娘と仕事をしているところなら、その続きも見られる。
少し長めに時間を取っておいたのは、正しかったようだ。
◇◇
午後、エレノアがレオナールの執務室を訪ねると、話はまだ終わっていなかった。
取り次ぎのあとで扉が開き、卓を囲む者たちが立ち上がる。レオナールの向かいにヴァルモン、その隣にセリーヌがいた。法務の担当者も、紙をめくる手を止めている。
「ちょうど、最後の書き方を確かめているところです」
「では、続けて頂戴。まとめを伺ってから、お茶にしましょう」
エレノアは窓際の椅子を勧められた。卓の上には地図と書き付けが広がり、何度も直したらしい文字が見える。
ヴァルモンは礼を述べ、席へ戻った。落ち着いた青年だったが、こちらへ向き直る動作には、少し硬さがある。
セリーヌが、自分の前にあった紙を母にも見える位置へ寄せた。
目的。条件。現地の判断。
三つの言葉の下に、細かい書き込みが続いている。
「砦へ援軍を届けろ。そのための道は現地で選べ。そこまではよい」
レオナールが話を戻した。
「だが、三日後に着けとも書いてある。指定された橋が落ち、別の道では四日かかる。王宮の返事を待てば、さらに遅れる。この場合も、道は任せたと言い切れるか」
「三日というのが、予定した道なら着くという見込みなのか、ほかの部隊との合流に必要な期限なのか。それを、命じる側に書き分けていただきたいのです」
「理由を知らねば、変えてよいかも分からんな」
「はい。将軍に判断を任せるのでしたら、判断の拠り所も伝えなければなりません」
ヴァルモンの声は、もう王妃へ挨拶したときのものではなかった。
「早く着く道があっても、通ってはならない領を勝手に通れることにはならんぞ」
「ええ。目的と条件を両方守れなくなった場合、何を優先し、いつ任務を縮小、中止してよいか。そこも出陣前に考えておく必要があります」
「その条件で実行できるか、軍も先に見通しを出すわけだな」
エレノアは、娘の横顔を見た。
セリーヌは口を挟まず、地図と命令の案を見比べていた。やがて、一か所に小さく書き付ける。娘が、聞いたことを自分の知識と照らしているときの顔だった。
「書かれていないところには、過去の裁定や慣例を使う。ただ、使える前例かどうかは確かめたい」
法務担当者が、別の紙を示した。
「橋が落ちて迂回したのか、少しでも早く着こうとして変えたのか。何が認められたのか、その理由まで必要です。以前、咎められなかっただけでは足りません」
「勝ったので問題にならなかっただけかもしれん、ということだな」
「はい。今回の命令で明確に禁じられたことを、昔の例で覆すこともできません」
「昔からしていることは、裁定になっていないものも多いぞ」
レオナールの言葉に、ヴァルモンが頷いた。
「軍では当然と思っていた。王宮では、相談が来るはずだった。同じ空白を別々の常識で埋めていることも、あるのではないでしょうか」
「軍の側も、常識だからと省かずに出すべきか」
「ええ。いずれは、別の部署でも用語や手順を統一すべきでしょうね」
その先は書き付けに留め、話は判断の記録へ戻った。変更した理由と、そのとき得ていた情報を残す。結果だけで裁かず、命令の側にも書き落としがなかったか確かめる。連絡が取れれば、変更は早く知らせる。
エレノアにも、それはよく分かった。伝えていなかった条件を、あとから当然だったと言われては、受け取った者が困る。
「軍に任せる範囲については、休戦がよい例になりましてね」
レオナールが、王妃へ顔を向けた。
「軍が必要と認めれば変更できる、と広く書くと、休戦命令まで退けられることになる。先生に指摘されました」
「……陛下がお約束になっても、兵が止まらないということね」
エレノアは、取ろうとしていた書き付けから手を離した。
「今なら敵の砦を落とせる。残せば次に部下が死ぬ。軍としては、進む理由があります」
「ですが、そのためにもう一年兵を出し、食糧を送り、税を取ってよいかは、国として決めていただかなければなりません」
ヴァルモンが続けた。
「相手は、こちらが兵を止めると信じて条件を受け入れるのでしょう。そのあとで将軍が承知しなかったと言っても、通りませんわね」
エレノアは、朝の外国からの書状を思い浮かべた。
「次に使者を送っても、今度は本当に軍が従うのかと問われるわ」
「ええ。軍の中で済む話ではありません。ただ、止めると決めた瞬間に、全軍へ命令が届くわけでもない」
レオナールの言葉に、セリーヌが顔を上げた。
「通信所から離れて動く部隊へは、人が届けなければなりませんわ。その時間は残ります」
ヴァルモンは、娘の前にある紙へ目を移した。
「司令部まで知らせる時間と、その先へ届ける時間は、分けて見積もる必要があるのですね」
「ええ。通信で縮められるのは、まず、その手前です」
「では、約束する側も、軍から見通しを聞いておかなければならないのね」
エレノアが言うと、レオナールは頷いた。
「止める時刻までに行き渡るようにする。攻撃されたときの身の守り方も決める。ただし、それを理由に、軍が休戦全体を取り消すことにはしない」
現地で任せることと、国として決めること。その区切りを作るのは、片方だけでは済まないらしい。
「私は、陛下と直接話せる。だから、お考えも分かる」
レオナールは、卓上の紙を見渡した。
「だが、次の大将もそうだとは限らん」
「お二人だから通じることを、別の者が務めても通じるようにしなければならないのですね」
ヴァルモンは、書き直した案の冒頭を読み上げた。
何を達成してほしいのか。
何は守らなければならないのか。
どこは現地で変更してよいのか。
「この三つを、軍への命令の骨子としよう」
レオナールが言った。学者の案に将軍の経験が重なり、命令の三原則として形が定まったのである。
具体的な書き方は、実際に軍が判断に迷った事例や、過去の裁定を確かめながら詰めていく。法務担当者が持ち帰る紙を選び、ヴァルモンは次に詳しく調べたい事件を挙げた。
エレノアは、そのやり取りを椅子から眺めていた。
娘が何を面白がっているのかは、分かった気がする。それぞれ、自分の知っていることを出し、分からないところは相手に尋ねる。話すたびに、最初の紙にはなかったものが加わっていく。
そして、その輪の中にいる娘は、よく母に見せる、あの少し得意そうな顔をしていた。
◇◇
茶の席へ移っても、三人の話はすぐには終わらなかった。
法務担当者が下がったあと、レオナールとヴァルモンは、どの事例から調べるかを確かめている。セリーヌも横から、大学校で見せてもらえるものを挙げていた。
エレノアは、茶が行き渡るのを待った。
「先生。先日の交渉でも、娘がお世話になりましたね」
ヴァルモンは、ようやく書き付けから顔を上げた。
「こちらこそ、殿下にはお力添えをいただいております」
「急な相談も多いでしょう。ご自分のお仕事は、お進めになれて?」
「はい。ただ、今回ばかりは、思っていたより話が大きくなりまして」
レオナールが笑った。
「もう少し小さな相手にしておけばよかったか?」
「いえ。伺いたかったことを、直接お聞きできましたので」
その返事は早かった。エレノアは、茶器の向こうから准教授の顔を見た。
ヴァルモンが、セリーヌへ向き直る。
「相談相手と、次の仕事を一緒にいただいたようです」
「でも、お聞きになりたかったのでしょう?」
「それは、確かに」
娘は、ほら、とでも言いたげに微笑んだ。
そこで済ませず、ヴァルモンは続けた。
「ただ、次の案は少しお待ちください。講義もありますし、文書を見ずに書けるところは、今日で尽きました」
「ええ。通信のほうで確かめることもございますから、私もその間に聞いておきますわ」
エレノアは、二人を見比べた。
「娘は、ずいぶん質問をするでしょう」
「はい。お答えすると、次には実際に確かめたことを持っておいでになります」
ヴァルモンは少し笑った。
「こちらの考えも変えなければならなくなるので、同じお返事を用意しておくだけでは済みません」
「先生も、私が調べたつもりのところを、もう一度お尋ねになりますわ」
セリーヌは、まるでそのやり取りを楽しみにしているように言った。
エレノアには、ようやく、話が早いという言葉の中身が見えた。
その後、レオナールが当時の資料を用意できる日の話をすると、二人はまた書き付けを広げた。
せっかく茶の席へ移ったのに、とエレノアは思った。
けれど、今度は止めずに見ていた。
◇◇
夕方、エレノアが自分の部屋へ戻ると、朝の書状が机の上に残っていた。
どの家にも、返答はしなければならない。家格や外交上の意味を軽んじるつもりもなかった。
ただ、今朝は書状から想像するしかなかった娘の暮らしが、少し違って見える。
仕事をしている娘の隣に、これからもあの先生がいるところは、無理なく思い描けた。
本人たちは、まだ次に調べる事件のことで頭がいっぱいなのだろう。
エレノアは、交渉関係者の名簿を開いた。
バスティアン・ド・ヴァルモン。
あの子に、まずこういうお相手は見つからない。
エリザベスの言葉が、ふと蘇った。あのときの決断の早さを、今日は笑えなかった。
家の事情も、周囲への接し方も確かめる必要がある。王女や王弟の前で見せた顔だけで、人柄のすべてが分かるわけではない。娘が楽しそうだったからといって、すぐに先方の家へ話を持っていくつもりもなかった。
だが、本人たちが研究以外のことを考え始めるまで待つ必要はない。
エレノアは名簿を閉じ、執事長を呼んだ。
「執事長、ヴァルモン准教授の調査をして頂戴」
「承知いたしました。お家の事情と、大学校でのご評判を中心に?」
「ええ。今日のお仕事は拝見できましたから。学生や同僚に、どう接していらっしゃるかも知りたいわ」
執事長が一礼する。
そのまま下がろうとしたところで、エレノアは言い添えた。
「それから、ご婚約の有無も」
執事長は足を止め、改めて王妃へ向き直った。
「……かしこまりました」
「セリーヌには、まだ何も言わなくてよろしいわ」
今度の一礼は、先ほどより少し深かった。




