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第48話 新世代

このお話は、25話、29話の続きのお話になります。


------------------------------------------------------------------------------------------------ 


 王宮で蒸留酒を見せたあと、エルネスタはしばらく落ち着かなかった。

 セリーヌ王女は小瓶を光に透かし、王は香りを確かめ、そして「先がある」と言った。

 それは褒め言葉だった。


 だが同時に、逃げ道を塞ぐ言葉でもあった。

 最初に取れた酒精は、ほんの数ccだった。


 小瓶の底に、透明な液がわずかに光るだけ。だが、それでも、黒麹の酸の強いもろみから、蒸留によって酒精だけを取り出せることは分かった。


 その後、エルネスタは十リットル樽での発酵と蒸留を何度か繰り返した。失敗もあった。香りの荒いものもあった。だが、何度目かの試験で、合わせて小さな樽、3樽ほどの蒸留酒を得ることができた。


 そのうち百八十ccほどが、セリーヌ王女を通して王宮へ献上された。


 王は香りを確かめ、そして「先がある」と言った。


 黒麹を使った発酵は、王立大学校の実験室で原理をつかんだ。蒸留すれば、酸の強いもろみから酒精を取り出せることも分かった。樽で寝かせれば、荒さが少し取れることも確かめた。


 けれど、それはあくまで小さな実験だった。


 何をすればよいか、という原理と手順は手に入れた。


 だが、領地の工房で、繰り返し、同じように作れるかどうかは、まだ分からない。


 だからエルネスタは、実家へ戻る馬車の中で、父に説明しなければならないことを、何度も頭の中で並べていた。


 発酵場が要る。


 蒸留工房が要る。


 火を扱うので、石造りがよい。


 水が必要で、排水も必要。


 熟成蔵は温度変化が少ない場所がよい。


 樽は小樽から試すべき。


 最初は絶対に大きくしすぎてはいけない。


 そういう話を、落ち着いて、一つずつ説明するつもりだった。


 だが、屋敷へ着いた時点で、その予定は崩れた。


 発酵場が、すでにあった。


 蒸留工房も、すでにあった。


 山の中腹には、熟成蔵まで準備されていた。


 そして蒸留工房の中央には、頼んでいない外国製の小型ポットスチルが置かれていた。


「……お父様」


 エルネスタは、しばらく声を探した。


「これは、何ですか」


 父であるオークヴァルト領主は、たいへん穏やかな顔で答えた。


「準備だ」


「私、まだ何も相談していません」


「相談したら、止められるだろう」


「止めます」


「だから先に準備した」


「そういうところです!」


 エルネスタは額に手を当てた。


 怒ればいいのか、呆れればいいのか、喜べばいいのか分からない。


 確かに、発酵場も蒸留工房も必要になる。熟成蔵も、いずれは欲しくなる。だが、欲しいと思うのと、すでに建っているのとでは話が違う。


 父は悪びれない。


「王が、先があると仰った」


「それは聞きました」


「なら、こちらも待つ準備をする」


「待つ準備にしては、ずいぶん手が早いです」


「準備は早い方がいい」


「研究はまだ途中です」


「だから、失敗できる場所を作った」


 正しい。


 正しいのが、腹立たしい。


 エルネスタが言葉に詰まっていると、脇から低い声がした。


「お嬢様。実際に手配をいたしましたのは、私でございます」


 振り向くと、壮年の男性使用人が深く頭を下げていた。


 マルタンだった。


 屋敷の修繕、倉庫管理、荷の出入り、職人の手配。そういった、領主家の裏方の仕事を長く担ってきた男である。


 学者ではない。


 酒造りの理屈を知っているわけでもない。


 だが、何か新しいことを始める時、誰に聞き、何を運び、どこを直せばよいかを考えるのは、いつもマルタンだった。


 マルタンは、ほんの少しだけ目元を動かした。


「旦那様が、発酵場と蒸留工房を作るとおっしゃいまして」


「お父様が?」


「はい。そこで、私が申し上げました。『旦那様、お嬢様と相談もせずに始めるのですか』と」


 エルネスタは父を見た。


 父は目を逸らした。


「旦那様は、『相談したら止められる』と」


「止めますね」


「私も、そう思いました。ですが旦那様が始めると決めた以上、何も調べずに小屋だけ建てる方が危険でございます。仕方ありませんので、出入りの商人とよく話し、用意するものを調べさせておきました」


「……仕方ありませんので、でここまで?」


「私には酒造りのことは分かりません」


 マルタンは、真面目な顔で言った。


「ですが、分からない者が勝手に進めてはいけないことくらいは分かります。銅のことは銅細工師に。火場のことは石工に。水場と排水は水回りを扱う者に。木桶と台は木工に。樽は樽職人に聞きました」


 エルネスタは黙った。


 マルタンは、学があるわけではない。


 だが、自分が知らないことを知っていた。


 そして、知らないことを抱え込まない。


 誰かに任せなければいけないところを、判断できる。


「ポットスチルは、外国商人が持っていたものを見せてもらいました。銅細工師に継ぎ目と厚みを見せ、火を入れても問題が少ないか確かめさせております。もっと大きいものもありましたが、初めは小型がよいだろうと判断しました」


「そこは、正しいです」


「ありがとうございます」


「正しいのが、困ります」


 エルネスタは、もう一度工房を見回した。


 石造りの床。


 火場。


 冷却水を運ぶ桶の置き場。


 薪置き場。


 排水の溝。


 完全ではない。


 だが、思いつきの小屋ではなかった。


 研究を工房に移すための、最初の形になっていた。


◇◇


 孤児院の年長の子どもたちを工房へ入れる話も、マルタンが先に教会へ通していた。


 オークヴァルト領の孤児院は、教会が運営している。


 だが、教会は祈りだけで子どもを育てているわけではなかった。裏手には畑があり、鶏小屋があり、薪小屋があり、パン焼き窯がある。信者は布施として麦や布や古着を持ち寄り、領主家は毎年、麦と薪と銀貨を出していた。


 それでも、子どもたちの腹は毎日減る。


 だから年長の子どもたちは、半人前でも働く。水を汲み、薪を運び、畑の草を抜き、小さい子の服を洗い、祭日には信者へ配るパンの下ごしらえもする。


 働くだけでは終わらない。初等学校へ通わされ、読み書きと計算も教えられる。孤児院を出たあと、仕事につけるように。仕事についた子が、いつか少しでも教会へ返せるように。


 孤児院は、貧しいだけでは続かない。


 続けるためには、子どもを育て、働ける者にしなければならない場所だった。


 神官は治癒師ではない。薬師でもない。


 だが、子どもを預かる以上、擦り傷を洗い、包帯を巻き、熱を出した子を寝かせるくらいのことは日常だった。泣きじゃくる子、悪夢で暴れる子、痛みで息を詰める子には、鎮静魔法をかけることさえある。


 だから、マルタンが「発酵場と蒸留工房で年長の子を数名受け入れたい」と話した時、神官はまず賃金ではなく火場の位置を聞いた。


「蒸留工房には火がありますね」


「ございます」


「熱湯も、酒精も」


「ございます」


「では、子どもだけでは近づいてはいけない場所も決めてください。怪我や火傷をした時の治療部屋も必要です」


「承知しました」


 マルタンは深く頷いた。


「寝床と食事は屋敷側で用意します。賃金は本人名義で記録し、一部は手元に、一部は教会に預けます。学校も続けさせます。記録を取れない者は、工房で長く働けませんので」


 神官は、ようやく少しだけ表情を緩めた。


「本人たちに聞いてみます。あの子たちは働けますが、まだ子どもですので」


 マルタンは、もう一度深く頭を下げた。


 領主家は、教会へ施しをしているのではない。


 本来なら領で引き受けなければならない子どもたちを、教会が日々食べさせ、叱り、教え、働けるようにしてくれている。


 その仕事への支援だった。


◇◇


 最初に集められたのは、屋敷の使用人が五人、孤児院の年長の少年少女が五人だった。


 全員で十人。


 そこに、エルネスタとマルタンが加わる。


 これは、最初の試作サイクルである。


 いきなり工房として安定するはずがない。エルネスタ自身、王立大学校の実験室で小さく試しただけだった。十リットル樽で何度か試してはいたが、領地の発酵場で五百リットル樽を相手にするのは初めてである。


 だから、彼女も胸を張って命令できる立場ではなかった。


「まず、全員でやってみます」


 エルネスタは言った。


「今日からすぐに持ち場を決められはしません。最初の一回は、黒麹を作るところから、芋や麦を発酵させ、蒸留し、樽に詰めるところまでを、全員で試作します。何が必要で、何が足りないかを確認します」


 孤児院の子どもたちは、緊張した顔で頷いた。


 エルネスタの目に、二人の子どもが映った。


 一人は、十三歳の少年カイル。


 背はまだ低い。だが、薪を積ませると、すぐに太さと乾き具合で分け始めた。乾いた薪を火付け用に、太い薪を長く燃やす用に、湿ったものは端へ。教会のパン焼き窯や冬の暖房で、薪の扱いには慣れているのだろう。火をつける前から、火の使い方を考えている。


 もう一人は、十四歳の少女レーネ。


 大人しく、声も小さい。だが、発酵場に入った瞬間、鼻を少し動かし、眉を寄せた。


「……この桶、少し湿った布みたいな匂いがします」


 エルネスタは振り向いた。


 まだ仕込み前の桶である。洗って乾かしたはずだった。だが近づいて確かめると、底の継ぎ目に、わずかに湿りが残っていた。


「よく分かりましたね」


 レーネは、驚いたように肩を縮めた。


「すみません」


「謝らなくていいです。今のは、とても大事です」


 レーネは瞬きをした。


「発酵は、匂いが最初に教えてくれます。悪いものが育っている時も、良いものが育っている時も。あなたの鼻は、仕事になります」


 その瞬間、レーネの表情が少し変わった。


◇◇


 最初に作るのは、黒麹だった。


 五百リットル樽へいきなり黒麹の種を入れるわけではない。まず、蒸した米や麦に黒麹菌を育て、黒く酸っぱい麹を作る。その黒麹を、芋や麦の粥へ入れて、もろみにする。


 エルネスタは王立大学校の実験室では、十リットル樽で何度か試している。まず一リットルほどの蒸し米と蒸し麦で黒麹を作り、そのまま同じ樽に、残り九リットル分の米や麦の粥を加えて発酵させた。


 一リットル程度なら、黒麹が熱を出しても、菌が死ぬほどにはならない。量が少ないので、表面も乾きやすい。混ぜれば全体が動く。湿りすぎても、布を外せばどうにかなった。


 だから、実験室では成立した。


 だが、五百リットル仕込みは違った。


 同じ割合で考えれば、製麹に使う蒸し米と蒸し麦だけで五十リットルになる。蒸し器の箱に移した時点で、それはもう小さな山だった。


 外側は冷えているように見える。


 表面も、少し乾いているように見える。


 けれど、中心の熱は逃げない。


 黒麹が自分で出した熱が、山の中にこもる。水分も抜けず、蒸れた匂いが出る。実験室では問題にならなかった厚みが、工房では黒麹を殺す厚みになった。


 同じ手順でも、量が変われば、別の仕事になる。


 エルネスタは、そのことをまだ身体で知らなかった。


 書物には、後半は乾燥気味にする、とあった。


 エルネスタはその一文を見て、眉をひそめた。


「乾燥気味……」


 レーネが聞いた。


「乾かすんですか」


「そう書いてあります」


「でも、生き物なんですよね」


「ええ。生き物です」


「水がないと、育たないのでは」


 その言葉は、もっともだった。


 エルネスタも同じことを考えていた。黒麹は菌であり、生き物である。水分がなければ育たない。ならば、乾燥気味というのは、完全に乾かすという意味ではなく、少し湿りを抑える程度なのだろう。


 そう判断した。


 判断したこと自体は、悪くなかった。


 ただし、加減が分かっていなかった。


「布を少し湿らせましょう」


 エルネスタが言うと、使用人が濡らした布をかけた。


 さらに、乾きすぎを恐れて、蒸し米と蒸し麦を大きな箱の中でまとめたままにした。ばらけさせると冷えて、乾いて、育ちにくくなると思ったからである。


 カイルは箱を覗き込んで言った。


「大きな山ですね」


「最初は温度を保ちたいので」


 エルネスタは答えた。


「菌が育つまでは、冷やしすぎない方がいいはずです」


 間違ってはいない。


 ただし、足りなかった。


 温度を保つことと、熱を逃がさないことは違う。


 水分を与えることと、濡らしすぎることは違う。


 その違いを、彼女たちはまだ身体で知らなかった。


◇◇


 翌朝、箱の布を外した瞬間、むっとする熱が立ち上がった。


 熱い。


 予想より、ずっと熱い。


「……こんなに熱くなるんですか」


 レーネが驚いて一歩下がる。


 エルネスタも、思わず手を止めた。表面は黒くなり始めている。だから、一見すると育っているように見えた。


 だが、匂いが違う。


 酸はある。けれど、重い。湿った布の匂いが混ざっている。さらに、山の中心へ木杓子を入れると、湯気のような熱がこもっていた。


 カイルが顔をしかめた。


「中、熱すぎます」


「……広げます」


 エルネスタはすぐに言った。


 浅い木箱へ移し、ほぐし、熱を逃がす。


 だが、遅かった。


 中心部の米は、黒くなっているのに、どこか死んだような匂いがした。生きている熱ではなく、蒸れた熱である。指でほぐすと、粒同士がべたりと貼りつき、ぱらぱらとほどけない。


 マルタンが、箱の底を見て言った。


「これは、濡れすぎですな」


「……はい」


 エルネスタは認めた。


 認めたが、その時点ではまだ、どの程度失敗したのか分かっていなかった。


 見た目は黒い。 酸もある。

 ならば、多少悪くても使えるのではないか。


 そう考えた。


 初回だから、完璧でなくてもよい。そう思って、五百リットル樽の仕込みに回した。


◇◇


 三日後、失敗ははっきりした。


 芋と麦の粥が溶けない。


 泡が弱い。


 匂いも浅い。


 芋と麦の粥は、ただ酸っぱく重いだけで、糖化していく気配が薄かった。


 エルネスタは柄杓で少量をすくい、匂いを確かめた。


 甘味がない。


 いや、まったくないわけではない。だが、弱い。澱粉が切れていない。酵素が働いていない。


 レーネが不安そうに聞いた。


「黒くなっていたのに、駄目なんですか」


「黒くなっていればいい、というわけではないようです」


 エルネスタは静かに答えた。


 自分に言い聞かせるように。


「黒麹が働いていなければ駄目です。黒いだけで働いていません」


 カイルが悔しそうに言った。


「熱で死んだんですか」


「おそらく。少なくとも、中心部は熱すぎました」


「それで、酵素も駄目になった」


「はい」


 酵素という言葉を、子どもたちはまだ完全には分かっていない。


 それでも、役目は分かった。


 澱粉を切る鋏。


 その鋏が壊れていた。


 だから、芋も麦も甘くならない。


 甘くならなければ、酵母も十分に働けない。


 もろみは酒へ向かわない。


 マルタンが、浅い木箱を見た。


「つまり、大きな山にしてはいけない、ということですな」


「はい」


「濡らしすぎてもいけない」


「はい」


「書物に乾燥気味とあるのは、理由があるのかもしれませんな」


 エルネスタは、少しだけ唇を噛んだ。


「ありそうです。けれど、まだ理由までは分かりません」


 レーネが慌てて言う。


「私も、水がないと育たないと言いました」


「それは正しいです」


 エルネスタは首を横に振った。


「水は必要です。でも、多ければ良いわけではありません。温度も同じです。温かさは必要です。でも、熱すぎれば死にます」


 カイルが、火を見る時の顔になった。


「火と同じですね」


「ええ」


 エルネスタは頷いた。


「火と同じです。強すぎても、弱すぎても駄目。水も、温度も、厚さも、全部、ちょうどよいところがあります」


 失敗した黒麹の樽は、廃棄するしかなかった。


 もったいない。


 その気持ちは、全員にあった。


 だが、エルネスタは首を横に振った。


「ここで惜しむと、後で何が悪かったのか分からなくなります」


 失敗したものを混ぜてしまえば、次の結果も濁る。


 初回の大きな仕込みは、記録だけを残して処分することになった。


 カイルは、桶を運びながら悔しそうだった。


「黒くなったのに」


「黒くなっただけでした」


 エルネスタは言った。


「次は、黒くするのではなく、働く黒麹にします」


◇◇


 二回目は、前回よりも慎重に始めた。


 蒸した米と麦は、大きな山にしなかった。最初だけ布に包んで温度を保ち、熱が出始めたら、すぐに浅い木箱へ移す。厚さは指二本ほど。箱ごとに番号を振り、場所を替え、手でほぐし、熱を逃がす。


 そこまでは、前回の失敗から分かったことだった。


 問題は、その先だった。


 木箱の中の米粒は、少しずつ黒くなり、酸の匂いを出し始めた。だが、時間が経つにつれて、表面が乾いてきた。


 レーネが不安そうに言う。


「乾いています」


 カイルも箱の端を触った。


「前より、ぱらぱらしています。水を足しますか」


 エルネスタは、書物を開いた。


 そこには、確かに書いてある。


 後半は、乾燥気味にすること。


 ただ、その理由までは詳しく書かれていない。


 エルネスタは唇を結んだ。


 菌は生き物だ。


 生き物なら、水が必要なはずだ。


 乾けば、弱るのではないか。


 だが、一回目は水を与えすぎて失敗した。大きな山にして熱をこもらせ、湿らせすぎて、黒くはなったが働かない麹になった。


 では、乾かすとはどの程度なのか。


 乾かしすぎたら死ぬのではないか。


 湿らせれば、また前回と同じになるのではないか。


 答えは、書物の中にはなかった。


 マルタンが静かに聞いた。


「水を足しますか、お嬢様」


 エルネスタは、しばらく黒麹の箱を見つめていた。


 黒くなりかけた米粒。


 少し乾いて、ほぐすとぱらぱらと崩れる粒。


 酸の匂い。


 熱は、前回のようにはこもっていない。


 失敗するかもしれない。


 だが、前回と同じことをしても、同じ失敗になるだけだ。


 エルネスタは、息を吸った。


「ええい、やってみなければ分かりません」


 子どもたちが驚いて顔を上げた。


「今回は失敗してもいいから、乾燥させてしまいましょう」


「本当に、いいんですか」


 レーネが不安そうに聞いた。


「よくはありません」


 エルネスタは真面目に答えた。


「でも、ここで怖がって水を足せば、前回と同じです。書物には乾燥気味とあります。なら、今回はそちらへ倒します」


 カイルが箱を見た。


「乾かして失敗したら」


「乾かしすぎた失敗として記録します」


 エルネスタは言った。


「濡らしすぎた失敗は、もう分かりました。次は、乾かしたらどうなるかを見ます」


 マルタンが頷いた。


「では、湿った布は外しましょう。棚の間隔も少し広げます」


「お願いします」


 レーネはまだ不安そうだったが、布を外した。


 カイルは箱を持ち上げ、風の通りやすい棚へ移した。


 米粒は、さらに乾いた。


 手でほぐすと、ぽろぽろと分かれる。


 べたつかない。


 だが、死んだような匂いもしない。


 酸はむしろ、はっきりしてきた。


 レーネが鼻を近づけて、少し目を細める。


「……前より、嫌な匂いではありません」


「どう違いますか」


「前は、湿った布みたいでした。今回は、酸っぱいけれど、軽いです」


 エルネスタは、その言葉を記録した。


 軽い酸。


 乾いた粒。


 熱はこもらない。


 理由はまだ分からない。


 だが、書物の「乾燥気味」には意味がある。


 少なくとも、それだけは分かった。


 三日目の朝、黒麹は完成した。


 浅い木箱の中には、真っ黒、あるいは濃い茶色に覆われた米粒が並んでいた。昨日の湿った重さは消え、手でほぐすと、ぽろぽろ、ぱらぱらと粒が分かれる。


 レーネが一粒を噛み、すぐに顔をしかめた。


「酸っぱいです。でも、前の嫌な匂いとは違います」


「その違いを覚えてください」


 エルネスタは言った。


 カイルも一粒噛んだ。


「強いです」


「それが黒麹です」


「前のは?」


「黒くなった失敗です」


 カイルは、ひどく納得した顔で頷いた。


 今回は、働く黒麹ができた。


 なぜ乾燥気味が良いのかは、まだ分からない。


 けれど、乾かしすぎを恐れて濡らした前回より、書物を信じて乾燥へ倒した今回の方が、明らかに良かった。


 それは、記録に残す価値のある失敗と成功だった。


◇◇


 できた黒麹を、五百リットル樽へ入れた時、もろみは前回とはまるで違う動きをした。


 二日目には泡が出た。


 三日目には、酸の奥に熱が立った。


 甘味は強く残らない。黒麹の酸が前に出る。だが、澱粉が切れている気配がある。酵母が働く道ができている。


 レーネが樽の匂いを確かめて、小さく言った。


「生きています」


 エルネスタは、今度こそ頷いた。


「はい。これは、生きています」


 二週間後、発酵樽の上布が外された。


 酸はある。だが、腐敗の匂いではない。芋と麦の粥だったものは、すでにもろみになっていた。泡は落ち着き、表面は静かに息をしているようだった。


「蒸留に回せます」


 エルネスタが言うと、カイルが息を呑んだ。


「いよいよ、あの銅の道具ですか」


「その前に、水で沸かします」


「水ですか」


「はい。洗うついでです。いきなり酒のもろみを入れて、焦がしたり、吹きこぼしたりしたら困ります」


 マルタンが頷いた。


「銅細工師も、最初は水で熱を入れろと言っておりました。水漏れを見るためにも、その方がよろしいかと」


 釜に水を張る。


 蓋を閉じる。


 冷却水を通す。


 かまどに火を入れる。


 カイルは薪を三種類に分けていた。細い薪、普通の薪、太い薪。それぞれ横に置き、さらに湿ったものを別にした。


「最初は細い薪で火をつけます。そのあと普通の薪を二本。太い薪は、まだ入れません」


「記録しましょう」


 エルネスタはすぐに言った。


「薪の本数、太さ、火を入れた時刻、水が沸くまでの時間、受け口から水滴が落ちるまでの時間。全部書きます」


 カイルは真剣に頷いた。


 一回目。


 火が弱すぎた。


 水はなかなか沸かず、工房の者たちは待ちくたびれた。カイルは悔しそうに唇を結んだ。


「薪が少なすぎました」


「失敗ではありません」


 エルネスタは記録紙に書いた。


「水で分かってよかったです」


 二回目。


 薪を増やした。


 今度は沸くのは早かったが、釜の奥で音が荒くなり、冷却水の桶がすぐ温まった。


 カイルは、かまどの空気口を半分閉じた。


「強すぎます」


「何が分かりましたか」


「沸かすだけなら早いです。でも蒸留には荒いです」


 三回目。


 最初だけ強く、途中から薪を減らした。


 水が沸くまでの時間は少し遅くなったが、釜の音は丸く、受け口から落ちる水滴も落ち着いていた。


 ぽたり。


 ぽたり。


 カイルは、その音を聞いて小さく頷いた。


「これくらいが、たぶん扱いやすいです」


 エルネスタは記録紙を見た。


「では、これを最初の基準にします」


 カイルの顔が、少し明るくなった。


「基準、ですか」


「はい。あなたが作った基準です」


◇◇


 ようやく、蒸留工房に本番の火が入った。


 火加減はカイルに任せることになった。


 レーネには受け口のそばを任せる。


「落ちてくる液の匂いを見ます。最初の刺激が強いところは、飲むところに混ぜません。途中のよいところを集めます。最後に水っぽく重くなったら止めます」


「私が分けるんですか」


「私も見ます。でも、あなたにも見てもらいます」


 レーネは緊張のあまり、両手を握った。


「間違えたら」


「分けておけば、後で考えられます。混ぜてしまうと、戻せません」


 銅の釜にもろみの上澄みを移す。滓はなるべく入れない。滓は焦げる。焦げれば匂いを壊す。


 釜の蓋を閉じ、継ぎ目を確かめる。


 冷却水を張る。


 受け瓶を並べる。


 温度計を据える。


 温度と、匂いと、滴の速さ。その三つを合わせて見る。


 カイルが薪を入れた。


 最初は強く。釜を温める。


 だが、勢いがつきすぎる前に、彼は薪を減らした。水で試した時の火加減だった。炎が落ち着き、釜の底を舐めるように回る。


「強すぎますか」


「今は、いいです。ただ、急に上げないでください。蒸気が暴れると、匂いも荒れます」


 やがて、受け口の先に透明な雫が膨らんだ。


 一滴。


 落ちた。


 工房の中の全員が、その一滴を見た。


 レーネはすぐに瓶を鼻へ近づけなかった。受け口のあたりを手でそっとあおぎ、立ち上る香りだけを鼻へ送る。


 次の瞬間、眉がわずかに寄った。


 鼻を刺す。


 まだ荒い。


 レーネは下のかまどを焚いているカイルへ目を向け、指で小さくバツを作った。


 声は出さない。


 声を出せば、慌てたように聞こえる。


 慌てれば、火も動きも乱れる。


 カイルはその合図を見ると、くべようとしていた薪を一本戻した。さらに、かまどの空気口の蓋を半分閉じる。炎が少しだけ低くなり、釜の奥で暴れていた音が丸くなった。


 ぽたり。


 ぽたり。


 雫の間隔が、少し落ち着く。


 レーネはもう一度、手で香りをあおいだ。


「まだ、分けます」


 小さな声だった。


 だが、今度は震えていなかった。


 エルネスタはその横顔を見て、静かに頷いた。


「いい判断です」


 子どもたちは追う。


 今は、この温度。


 今は、この匂い。


 今は、この瓶。


 教わった方法を、一つずつ進めていく。


◇◇


 蒸留したての酒は、まだ荒かった。


 樽に入れて寝かせる前の、若い酒である。透明で、香りは強く、鼻の奥に少し刺さる。


 それでも、ここまで来た。


 失敗した黒麹。


 二回目の乾いた黒麹。


 二週間のもろみ。


 水で試したポットスチル。


 そのすべてを通って、ようやく小さな杯に入る量の酒になった。


 アヴァロン王国で酒といえば、まずエールかワインだった。


 蒸留酒はある。だが、多くは輸入品であり、貴族の屋敷へ献上品として少量入る程度である。


 だから、この場で蒸留酒を知っているのは、ほとんど父だけだった。


 エルネスタは作った。マルタンは手配した。カイルとレーネは火と香りを見た。


 だが、飲み物としての蒸留酒を知っている者は少ない。


 エルネスタは、小さな杯を並べた。


「味見です。飲むのではありません。香りと、舌に乗せた時の感じを見るだけです」


 カイルとレーネは、緊張した顔で頷いた。


 マルタンも、使用人たちも、少しだけ背筋を伸ばしている。


 そして、なぜか父もいた。


 エルネスタは横目で見た。


「こういうときにはお父様はいるのですね」


「領主として確認が必要だ」


「とても都合のよい領主の務めですね」


「重要な務めだ」


 父は真顔で言った。


 誰も反論しなかった。


 小さな杯に、透明な酒がほんの少しずつ注がれる。


 レーネはまず香りを見た。


「……強いです。でも、嫌な匂いではありません」


 カイルは恐る恐る口に含み、すぐに目を丸くした。


「……熱いです」


「火は入っていませんよ」


 レーネが真面目に言う。


「分かっています。でも、喉の奥が熱いです」


「それが酒精です」


 エルネスタが答えた。


 カイルは不思議そうに杯を見た。


「火ではないのに、熱い」


 父は静かに香りを確かめ、ほんの少しだけ舌に乗せた。


「荒いな」


「はい。まだ寝かせていませんから」


「だが、悪くない」


 エルネスタは少し目を細めた。


「お父様は、蒸留酒をご存じなのですね」


「輸入品を何度か飲んだことはある。献上品で入ることもある」


「それで、どうですか」


 父は、杯を光に透かした。


「先がある」


 エルネスタは、少しだけ黙った。


 それは、王宮で聞いた言葉と似ていた。


 先がある。


 逃げ道を塞ぐ言葉。


 けれど今度は、不思議と嫌ではなかった。


「では、樽に入れます」


 エルネスタが杯を下げると、父がわずかに残念そうな顔をした。


「もう少し確認してもよいのではないか」


「お父様」


「領主として」


「樽に入れます」


「……分かった」


◇◇


 エルネスタは、中心の蒸留液を小樽へ分けて詰めた。


 カイルが恐る恐る聞いた。


「今、飲まないんですか」


「飲みません」


「できたのに」


「できたばかりだからです」


 レーネが樽の栓を見つめる。


「どのくらい待つんですか」


「まずは半年。次に一年。できれば三年、五年」


「五年……」


 カイルが呆然とした声を出した。


「僕、十八歳になります」


「そうですね」


 エルネスタは頷いた。


「その頃、あなたがまだここで働いていたら、この樽を開ける側になっているかもしれません」


 カイルは、ぽかんとした。


 孤児院の子にとって、五年後を仕事として語られることは珍しいのだろう。


 今日食べるもの。


 来月の働き口。


 孤児院を出た後の寝床。


 そういう近い未来ではなく、五年後に開ける樽。


 長すぎる時間だ。


 だが、熟成酒とはそういう仕事だった。


 今の自分が仕込み、未来の誰かが開ける。


 未来の自分かもしれない。


 後輩かもしれない。


 まだ孤児院にいる小さな子かもしれない。


 樽の表面に、日付と材料、樽材、蒸留範囲が書かれた札を結ぶ。最後に、担当者の名を書く欄があった。


 エルネスタは筆を持ち、少し迷ってから、二人に渡した。


「書いてください」


「僕たちが?」


「あなたたちが火と受けを担当しました」


 カイルは筆を握った。字は大きく、少し歪んだ。


 カイル。


 レーネは、その下に小さく丁寧な字で書いた。


 レーネ。


 その二つの名前が、樽の札に並んだ。


 父が、それを見て静かに頷いた。


「よいな」


 エルネスタは、樽の札を見た。


 カイル。


 レーネ。


 名前がある。


 それだけで、ただの試作品ではなくなっていた。


◇◇


 その夜、エルネスタは自室で記録をまとめた。


 火加減担当、カイル。


 香り判定、レーネ。


 熟成樽、樫、杉、栗。


 半年後、一年後、三年後に確認。


 そこまで書いて、手が止まった。


 記録紙の端に、ふと余白が残っていた。


 エルネスタは少し迷い、そこに短く書き足した。


 ――新世代、一番樽。


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