第52話 炭素の鱗
訓練場の試射板を、炎が薙いだ。
横一列に並べられた五枚の板が、ほとんど同時に黒く焦げる。クラリスは杖を下ろしたが、すぐには脇から外さなかった。魔力の流れが収まるのを待ってから、ゆっくり身体から離す。
「……やはり、熱いわね」
クラリスは杖の根元へ指を当て、すぐ離した。
彼女の杖は、普通の魔法士が使うものとは形が違う。柄の根元から伸びた幅広い接触部を脇の下へ通し、腕で挟み、脇腹へぴったり押し当てて使う。
クラリスの魔力は強すぎる。
手で握るだけの細い接触部では、一度に流せる量が足りない。狭いところへ大量の魔力を通せば、その部分だけが熱を持つ。そのため、身体へ触れる面を広く取り、魔力を分散して杖へ送る形になっていた。
それでも、薙ぎ払いのような大きな魔法を続ければ熱くなる。
「見せてください」
エミリアはクラリスが杖を外してから近づき、接触部へ慎重に指を触れた。火傷するほどではない。だが、長く押し当てていたい温度でもなかった。
「今でも、これだけ広くしているのですけど」
「私の魔力が多すぎるのよ」
「多いこと自体は、悪くありません」
「脇を焼かなければね」
クラリスが肩をすくめた。
杖をさらに太くし、接触部を広げるにも限度がある。脇の下へ挟めなければ、騎乗したまま構えることができない。厚い断熱材を入れれば、今度は身体から杖へ魔力が通りにくくなる。
そこでエミリアが考えたのが、鎧の下へ炭素板を入れる方法だった。
炭素繊維を魔力の伝達線として使う技術は、ここ数年で大きく進んでいる。細い線や棒だけでなく、繊維を重ねて薄い板へ焼き固めても、魔力を通せるようになった。
胸、背中、脇腹へ炭素板を沿わせ、それらを炭素繊維でつなぐ。脇の下だけで魔力を受け取るのではなく、胴体の広い面で受け、伝達線を通して杖の接触部へ送る。
魔力の通り道を、杖の接触部から鎧の広い面へ広げるのである。
机の上の試験では、すでに効果が出ていた。炭素板を身体へ近づけて杖の接触部へつなぐと、同じだけの魔力を流しても、脇の一点へ熱が集中しにくい。杖へ届く魔力の量も落ちなかった。
あとは、その炭素板をクラリスへ装着すればよい。
しかし、クラリスの軽装鎧には、隙間がなかった。
もちろん、剣も通さないという意味ではない。身体に合わせて革を重ね、胸や腹、肩などの急所へ薄い鉄板を入れた鎧である。騎乗し、杖を振り、必要なら剣も抜く。その動きを邪魔しないため、余分な厚みを持たせていなかった。
だから、入らない。
「もう一度、お願いします」
エミリアは、クラリスの胸元へ差し込もうとしていた黒い板を押した。
「無理よ」
「あと少しです」
「少しでも入らないものは、入らないの」
留め具を持つクラリスの手が止まっている。いつもの軽装鎧の下へ、薄く焼き固めた炭素繊維板を入れようとしているのだが、胸の留め具が指二本ぶんほど届かない。
ただし、炭素板と身体の間が離れると、魔力の通りは目に見えて悪くなった。
したがって軽装鎧の下へは入れたい。
入らない。
「一回り大きな鎧を作るしかないでしょうか」
エミリアが呟くと、傍らで記録を見ていたセドリック教授が、クラリスの軽装鎧と黒い板を見比べた。
「大きくすれば、板を入れる余裕はできるね」
「今の鎧より重くなるわ」
クラリスが即座に答える。
「それに、身体から鎧が離れれば、騎乗したときに揺れる。中の板もずれるでしょうね」
エミリアは、黒い板を鎧の上から当ててみた。測定器の針は動く。だが、下に置いたときより明らかに鈍い。
「上からでは駄目ですね」
「では、鎧を着ないか」
教授が言った。
クラリスが、無言のまま教授へ目を向けた。
見事なジト目だった。
「戦場で?」
「……それも駄目だね」
研究室が少しだけ静かになった。
軽装鎧の下には入らない。上では身体から遠い。鎧を大きくすれば重くなり、動けば中でずれる。だが鎧を脱いで戦場へ出すわけにはいかない。
セドリック教授は、エミリアがまだ抱えている炭素板を指先で叩いた。
「これ自体を、鎧にできないかな」
「炭素板だけでは、矢も槍も止められません」
「外側へ鉄を貼る」
エミリアは目を上げた。
炭素板を軽装鎧の下へ入れるのではない。
炭素板へ鉄を貼り、炭素板そのものを軽装鎧にする。
「それなら、身体のすぐ近くへ置けます」
「鎧の重さも、一着ぶんで済む」
教授が頷いた。
クラリスだけが、二人を交互に見た。
「いま、かなり簡単に決めなかった?」
◇◇
最初の試作品は、驚くほど早くできた。
胸、背中、左右の脇腹、腹、腰。
クラリスから採った大まかな寸法に合わせて炭素繊維を積み、樹脂を含ませ、木型へ押し当てて湾曲させる。焼き固めた炭素板の表側へ薄い鉄板を貼り、縁を革で包んだ。
身体へ沿う大きな曲面板を、前後左右から革紐でつないだ構造である。
魔力測定器の針は、よく動いた。
「曲面板にしたことで、身体との距離がほぼ一定になっています」
エミリアは満足そうに記録した。
「鉄を貼ったぶん重量は増えたが、従来の軽装鎧と重ねるよりは、ずっと軽いね」
教授も頷いた。
研究室の中央では、黒と鈍い鉄色の箱が立っていた。
その箱から、クラリスの頭と手足が出ている。
「どうですか?」
エミリアが尋ねた。
「見れば分かるでしょう」
「魔力の通り方は良いです」
「そうではなくて」
クラリスは一歩歩いた。腰を囲む板の下端が腿へ当たり、歩幅が止められた。もう一歩進もうとすると、今度は脇腹の板と腹の板がぶつかった。
「前へ曲がれません」
「後ろへは?」
「もっと無理よ」
クラリスは腕を上げようとした。肩を覆う板が胸板の上端へ乗り、途中で止まる。
「杖も構えられないわ」
教授は黒い箱の周囲を一周した。
「身体には、かなりよく沿っているのだが」
「静止している身体にはね」
クラリスは腰をひねろうとした。板はひねられないので、足の位置を変えて身体ごと横を向いた。
「戦場で、立ったまま動かなくてよいのなら使えます」
「それは、少し困りますね」
「少し?」
魔力道具としては、うまくいっている。
鎧としては、どうしようもなかった。
◇◇
大きな板では動けない。
ならば、小さな板へ分ければよい。
エミリアと教授が次に作ったのは、大きな曲面板を手のひらほどの板へ分けた試作品だった。胸と背中にはやや大きい板、脇腹と腹には少し小さい板を使い、革の下地へ並べて留める。隙間ができないよう、板の端は少しずつ重ねてあった。
一枚板よりは、動けた。
「前へ曲がれます」
エミリアが嬉しそうに言う。
「一枚板よりはね」
クラリスが前へ屈むと、腹の板同士がごつりと当たった。さらに曲げると、今度は板の縁が互いに押し合い、革紐がぎしぎしと鳴った。
床へ、黒い粉がぱらぱらと落ちる。
「……これは何?」
クラリスが足元を見る。
「炭素板の縁が、削れています」
エミリアはしゃがみ込み、指先で黒い粉を確かめた。
「動くたびに?」
「……たぶん」
クラリスは身体をひねった。
ごつ、ごつ、と板同士がぶつかる。脇腹の一枚が隣の板へ乗り上げ、ぎしりと縁をこすりながら斜めに突き出した。肩の板は腕を上げると大きく浮き、腰の板は騎乗姿勢を取ったところで腿へ食い込んだ。
「これ、戻らないのだけれど」
「手で押せば戻ります」
「戦闘中に?」
クラリスは浮いた板を押し戻さないまま、両足を開いた。杖を振るつもりで腰を落とし、肩と腹へ力を入れる。
ごつり。
ぎしぎし。
そして、どこかで小さく、ペキ、と音がした。
全員の動きが止まった。
「いま、どこか割れたわよ」
「動かないでください」
エミリアと教授が左右から覗き込む。しかし板が板へ乗り上げ、革紐も引きつれているため、どこが割れたのか外からは分からない。
試作品を外して一枚ずつ調べると、脇腹の炭素板に細い亀裂が入っていた。隣り合う板の縁も削れ、革の下地には黒い粉が筋になって残っている。
「魔力の通り道も、ここで細くなっています」
エミリアが測定器を見て言った。
「魔法道具としては、最初の箱より悪くなったわね」
クラリスは、床に落ちた黒い粉を見下ろした。
「鎧としては?」
「聞かないでください」
板を小さくするという考えは、方向としては間違っていなかった。
ただし、二人にとっての小さな板は、加工しやすい大きさでしかなかった。人間の身体がどう動くか、その動きに沿うには、どこをどれほど小さくすべきかまでは分からない。
クラリスの軽装鎧を制作している職人を呼んでみた。
王都で軽装鎧を作る職人は、壊れた試作品と床の黒い粉を見て、しばらく何も言わなかった。
炭素板を叩き、鉄板の厚みを確かめ、革紐の留め方を見たあと、ようやく口を開いた。
「板は、小さく分ければよいというものではありません」
職人は、亀裂の入った小札と、その隣にあった小札を重ねた。
「動いたとき、板同士をぶつけてはいけない。決まった向きへ滑らせるんです。どの端を上へ置き、どこを留め、どこを遊ばせるか。それを決めなければ、今のように乗り上げて、互いを削ります」
「隙間ができないよう、重ねたのですが」
「重ねただけです。鎧にはなっていません」
エミリアと教授は、揃って黒い粉を見た。
職人は太い指で眉間を押さえ、それからクラリスの胸と腰へ視線を移した。
「男物なら、多少は身体から離して逃がせます」
「離すと、魔力の通りが悪くなります」
「なら、俺の知っている鎧と少し違うな」
胸と腰へ密着させ、しかも騎乗と戦闘の動きを妨げない女性用の軽装鎧。
そんなものを作った経験は、鎧職人にもなかった。
「ひまわり商会へ相談してみましょうか」
クラリスが、亀裂の入った小札を指先で摘まみながら言った。
◇◇
ひまわり商会の女主人は、研究室へ持ち込まれた試作品を見ても笑わなかった。
その代わり、クラリスの右肩から突き出した黒い板を押し戻し、腰の板を持ち上げ、脇の下へ指を入れて浮き方を確かめた。
「王家の礼装を仕立てたことはございます」
女主人は、鉄を貼った黒い板を持ち上げた。
「ですが、槍を受ける服を仕立てるのは、当商会でも初めてです」
「魔法道具としては、よくできているのでしょう」
「はい。魔力の伝達量は、大きな曲面板とほとんど変わりません」
エミリアが答える。
「鎧としても、板の重ね方を直せば使えるようにはなる」
鎧職人も言った。
女主人はもう一度、全体を見た。
「ですが、これは身体へ板を吊しただけです。まだ、衣服にはなっておりません」
「鎧です」
「人が着る以上、同じことです」
女主人はクラリスへ、腕を上げるよう頼んだ。続いて前へ曲げ、身体をひねらせ、片足を台へ載せさせる。胸、脇、腹、腰。姿勢が変わるたび、板の浮く場所と食い込む場所へ白い墨で印を付けていった。
「胸と背中は、この大きさでも使えます。脇は、もっと小さく。腹は横へ長くして、前へ曲がったときに下へ潜る向きに重ねます。腰から下は、騎乗するとき左右へ分かれなければなりません」
鎧職人が白墨の印を見て頷く。
「重ねる向きはこちらで考える。正面から槍を受けたとき、先が継ぎ目へ潜らないようにしたい」
「では、身体への沿わせ方はこちらで」
二人の間で、仕事の境目が決まった。
王立大学校組は炭素板を作り、薄い鉄板を貼り、魔力の通りと重量を測る。
鎧職人は、矢や槍を受けるための鉄の厚み、小札の重なる向き、留め方、壊れた一枚を交換する仕組みを決める。
ひまわり商会は、身体のどこに、どの形の小札を置けばよいかを決める。
役割が分かれたことで、作業は急に進み始めた。
同時に、作る小札の種類も急に増え始めた。
「ここは長径八センチ、短径四センチ。角は少しだけ丸めてください。次は長径七・五センチ、短径三・五センチで、上側をもう少し細く」
「あわわ、ちょっと待ってください!」
エミリアが寸法を書きつけ、セドリック教授が形を写す。その後ろでは、手伝いに集められた工学系男子隊が、木型と薄い鉄板を抱えていた。
「今ので三十七種類目です!」
「はい。では、三十八枚目を」
「まだ増えるのですか?」
ひまわり商会の女性職人は、不思議そうにクラリスの脇へ紙片を当てた。
「同じ形の場所が、身体のどこにあるのです?」
エミリアと教授は、そろってクラリスを見た。
胸、脇、腹、腰、肩。どこも曲面が違う。身体を動かせば、同じ場所でも形が変わる。左右ですら、杖を構える側と反対側では、必要な逃げが違っていた。
「小さい板を、たくさん作ればよいのだと思っていました」
「ええ。ですから、小さい板をたくさん作っていただいております」
「同じ板を、たくさんです!」
「それでは身体に沿いません」
女性職人は、二枚の型紙をクラリスの脇へ当て、わずかな違いをもう一度確かめた。
「ここは、妥協しちゃいけないような気がするのよね」
片方の型紙を外し、もう一方の角へ小さな印を付ける。
「ユウも、たぶんそう言うわ」
ひまわり商会の女性たちだけが、当然のように頷いた。
作業台の上へ、型紙の山ができた。
その山を前にして、エディが腕を組んだ。
本業の通信実験から呼ばれてきた彼は、しばらく形の違いを見比べていたが、やがて大きさの近い型紙を重ね始めた。
「そのユウさんなら、この型紙を全部、別々に作れと言うんですか?」
「身体のほうを型紙へ合わせろとは、絶対に言わないでしょうね」
「なるほど」
エディは重ねた型紙を光へ透かした。輪郭は違っても、元になる大きさと比率が近いものはある。
「では、完成形には妥協しません。標準品を十種類くらい作りましょう」
「十種類では足りません」
女性職人が即座に言う。
「完成品を十種類にするのではありません」
エディは、一回り大きな型紙の上へ小さな型紙を載せた。
「十種類ほどの素になる小札を作ります。それ以上は、その標準品を削る、曲げる。最後だけ身体に合わせます」
「曲面も違いますよ」
「輪郭と曲がり方を、別々にします。同じ型紙でも、平らなもの、浅く曲げたもの、強く曲げたものが作れます。必要なら縁を削る」
エディは記録紙へ、形と曲がり方を分けて書いた。
「型紙は十種類。曲げは平、浅、中、深。完成品を四十種類用意するのではなく、十種類を四通りに仕上げられるようにするんです」
女性職人は紙の小札を手に取り、角を少し切り落としてから浅く曲げた。
「では、右脇には六番を深く。胸の下には同じ六番を浅く使えますね」
「はい。新しい木型はいりません」
教授が積み上がった型紙を見て、ようやく息を吐いた。
「人の身体を十種類に合わせるのではなく、小札のほうを人に合わせるのか」
「そうです」
エディは頷いた。
「人の身体を規格化するのは無理ですから」
標準小札には番号が付けられた。
六番、深、右脇。
八番、浅、胸部。
七番、平、腰外側。
仕上げる場所が違っても、元になる小札は同じでよい。工学系男子隊は十種類の素小札をまとめて作り、女性職人の指示に合わせて削り、木型へ押し当て、最後に焼き固めた。薄い鉄板も同じ輪郭へ切り、表側へ貼る。重なり部分には炭素の縁を残し、小札同士が触れて魔力の通り道が切れないようにした。
作っても作っても、小札は足りなかった。
「爬虫類の鱗のようだな」
セドリック教授が、クラリスの脇腹に並び始めた黒い小札を眺めた。
「ええ。ただし、見えているのは一枚の半分ほどです」
女性職人が、小札の端を指で持ち上げた。その下には、隣の小札が深く潜り込んでいる。
「身体を曲げても隙間が開かないよう、互いに重ねて縫い留めています。ですから、見た目のおよそ倍の小札を使っていますよ」
「倍……」
エディは、作業台に積まれた未加工の小札を見た。
「どうりで、作っても作っても終わらないはずです」
重なりは無駄ではなかった。
身体を曲げれば、小札同士が滑る。それでも下の板が残るため、隙間は開かない。矢尻や槍先が継ぎ目へ入ろうとしても、次の小札の鉄板に当たる。そして重なった炭素板も、身体の近くで魔力を伝えていた。
エミリアが測ると、小札へ分けたあとのほうが、最初の大きな曲面板より針の動きが安定していた。
「見えないところの炭素板も、働いています」
「見えるかどうかは関係ないのですね」
「はい。身体の近くにあればよいですから」
女性職人は少しだけ誇らしそうに、並んだ鱗を撫でた。
「では、美しく沿わせたぶんだけ、性能も上がるのですね」
◇◇
試作を重ねるにつれて、作業室の使い方が変わった。
最初の黒い箱を作っていた頃は、全員が同じ部屋にいた。クラリスも服の上から大きな板を当てていただけなので、エミリアも教授も、鎧職人も工学系男子隊も、好きな場所から寸法を測れた。
小札が細かくなり、身体へ近づくと、部屋の中央へ衝立が立った。
さらに胸から脇、腰へ直接合わせる段階になると、男性たちは同じ部屋からご遠慮いただくことになった。
「では、次は胸部と脇の小札を合わせます」
ひまわり商会の女性職人が言った。
エディは新しい小札の束を抱えたまま、作業台へ近づこうとした。
「エディ様は、隣室でお待ちください」
「でも、曲げ方を確認しないと」
「こちらで確認して、必要な寸法をお伝えします」
「鎧としての重なりも見なければならん」
鎧職人も口を挟んだ。
「それも、隣室でお待ちください」
「私は?」
教授が自分を指した。
「ご一緒に」
セドリック教授とエディと鎧職人、それに工学系男子隊が、そろって隣の部屋へ移された。
残ったのは、クラリス、エミリア、ひまわり商会の女性たちだった。
そこから先は、閉じた扉を挟んで作業が進んだ。
「右脇、六番を三枚。深く曲げたものを二枚と、浅いものを一枚。上の角を指一本分だけ削ってください」
「六番、深二枚、浅一枚!」
扉の向こうでエディが復唱する。
すぐに金槌とやすりの音が始まり、しばらくすると扉がわずかに開いた。男性側から小札を持った手だけが伸びてくる。
女性職人がそれを受け取り、扉はまた閉じた。
「クラリス様、腕を上げてください」
黒い小札を留め、腕を上げる。胸から脇の小札が滑り、二枚が少しだけ浮いた。
「六番を、もう少し深く」
女性職人が扉越しに伝える。
「さっきより深くしたのに?」
「クラリス様が腕を上げると、胸の形が変わるのです」
壁の向こうで、男たちが黙った。
「……六番の深型を、もう一段詰めよう」
鎧職人の声がした。
クラリスは腕を上げたまま、閉じた扉を見た。
「ずいぶん秘密の多い鎧になったわね」
「魔法技術上の秘密ではありませんけど」
エミリアが答える。
ひまわり商会の女性職人は、何も言わずにクラリスの腰へ次の小札を当てた。
男性たちは、完成品を作っているのに完成形を見られなくなっていた。
しかも、指示は細かくなっていった。
右肩八番、浅。一枚。
左脇六番、深。角を半指削る。
腹部五番、平。下端だけわずかに内側へ。
女性職人が動作を見て伝え、鎧職人が重なり方を考え、エディたちが加工する。エミリアは衝立の内側で魔力測定器の針を読み、小札が浮くたび、その位置を記録した。
飛び出していた肩の板が、一枚ずつ小さくなる。
浮いていた脇が収まり、腹の小札が前屈に合わせて滑る。腰から腿へ続く小札は、騎乗姿勢を取ると左右へ分かれ、立ち上がればまた元の位置へ戻った。
黒い実験器具は、少しずつ鎧になった。
そして鎧は、少しずつ一着の服になった。
◇◇
最後の試着で、クラリスは姿見の前に立った。
黒い小札が、胸から腰へ途切れずに流れている。外側に貼られた薄い鉄板は鈍い光を返すだけで、派手な装飾はない。だが、小札の大きさと曲がり方が場所ごとに変えられているため、以前のような角張った飛び出しはどこにもなかった。
肩を回す。
小札がわずかに滑り、元へ戻る。
前へ屈み、身体をひねり、片足を高く上げる。腹も腰も引っかからない。脇の下へ杖を挟み、先端を前へ向ける。右胸から脇の黒い鱗がわずかに動き、杖の接触面へぴたりとつながった。
「動きに支障はありません」
クラリスが言った。
エミリアは魔力測定器を確認する。
「伝達量も安定しています。腕を上げたときも、ほとんど落ちません」
防具としての試験も済んでいた。
人形に鎧を着せて槍や矢を当ててみる。
矢を受けた鉄板はへこみ、炭素板には細い亀裂が入ったが、矢尻は下地まで届かなかった。槍を強く突き込めば一枚は壊れたが、その下に重なった小札が先端を受け止めた。強い一撃を何事もなく防ぐ鎧ではない。それでも、致命傷を避ける可能性は十分に上がる。
壊れた小札は、糸を切れば一枚だけ交換できた。
鎧職人は試験結果を聞き、隣室から満足そうな声を返した。
「それなら、軽装鎧として使える」
「魔法道具としても完成です」
エミリアも頷いた。
クラリスだけが、姿見の中の自分を見たまま黙っていた。
「何か問題がございますか?」
女性職人が尋ねる。
「……身体の線が、出すぎていない?」
黒い鱗は、胸から腰、腰から腿へ、隙間なく身体へ沿っていた。露出している場所はない。それなのに、まるでクラリス自身の肌が黒い鱗へ変わったかのように、身体の形がそのまま分かる。
「身体へ近いほど、魔力をよく伝えますから」
エミリアが答えた。
「性能の話はしていないわ」
「余分な板をなくした結果です」
女性職人は平然としている。
「最初より、ずいぶん細く見えますね」
「私の寸法は変わっていないわよ」
「はい。細くなったのは鎧です」
女性職人は、胸から腰へ連なる小札の線を指先で整えた。
「これだけ美しく沿えば、魔力の伝達にも無駄がないのでしょう?」
「はい」
「なら、仕方がないわね」
クラリスはそう答えたが、姿見の前で少しだけ肩を引いた。
◇◇
軍で使うときは、黒い小札鎧の上から、一回り大きく仕立てた軍服を着ることになった。
枝や泥から小札の留め糸を守り、鉄板の鈍い反射を隠す。敵から新しい装備の構造を見えにくくする意味もある。
そして何より、味方の男性兵士の目の毒にならない。
クラリスが袖へ腕を通すと、着付けのために同行したひまわり商会の女性職人が、肩と脇の布を整えた。小札が滑る余裕を残しながら、外側の軍服が引きつらないように作られている。むしろこちらの仕立てのほうがひまわり商会の本業である。
最後に前を留める。
胸から腰へ流れていた黒い鱗の線は、厚手の軍服の下へすっかり隠れた。襟元と袖口から、黒い小札がわずかに見えるだけである。
「騎乗姿勢をお願いします」
クラリスは室内に置かれた鞍へ跨がり、杖を構えた。鎧の肩も脇も引っかからない。
「問題ないわ」
エミリアも測定器を見た。
「魔力の伝達量も変わりません」
その日の午後、訓練場でも試した。
クラリスは、最初と同じように五枚の試射板を炎で薙いだ。間を置いてもう一度。さらにもう一度。軍服の下では黒い小札を魔力が走り、胸と背中から右脇へ集まり、杖へ流れ込んでいる。
最後の炎が消えてから、クラリスは杖を外した。
「温かくはなっているわ」
以前と同じように接触部へ指を当てる。今度は、すぐには離さなかった。
「でも、熱くはない」
エミリアは軍服の上から、胸、背中、脇腹へ順に手を当てた。どこもわずかに温度が上がっている。脇の一点へ集中していた熱が、鎧の広い面へ散っていた。
魔力は減っていない。通り道だけが広くなっている。
研究室へ戻ると、そこでようやく隣室の男性たちが呼ばれた。
セドリック教授、鎧職人、エディ、工学系男子隊が、ぞろぞろと入ってくる。
クラリスは見慣れた軍服姿で立っていた。
エディは、その姿を上から下まで見てから首を傾げた。
「……鎧は?」
「この下よ」
「見せてもらえますか?」
「駄目」
「僕たちが作ったのに……」
「あなたたちが作ったのは小札でしょう」
ひまわり商会の女性職人が、容赦なく言った。
「完成させたのは、私どもです」
「その完成品を確認したいのですが」
「魔力伝達量と動作試験の記録なら、エミリア様から受け取ってください」
「そういう確認ではなくて……」
「どういう確認ですか?」
エディは黙った。
教授と鎧職人は、最初から何も言わなかった。こういうときは黙るに限ると、二人とも知っている。
「……記録をください」
エディが言うと、エミリアは素直に記録紙を差し出した。
クラリスは軍服の襟を整え、杖を脇へ挟んだ。外から見れば、いつもの騎馬魔法士の姿とほとんど変わらない。
ひまわり商会の女性職人は、何度も作り直した胸元も、美しく収めた腰の線も見えなくなった軍服を眺めた。
「……残念」
「あなたは見たでしょう」
クラリスが振り向く。
「私だけで見るには、惜しい出来ですよ」
「戦場へ見せに行くものではないわ」
クラリスは平然と答え、研究室の扉へ向かった。
大きめの軍服の下で、黒い小札が小さく擦れた。
誰にも見えないまま、炭素の鱗は、身体から杖へ魔力を伝えていた。




