第50話 伯爵
二十年ほど前のこと。
オーウェンが低湿地の開拓を始めたとき、最初に建てられたのは、水路でも倉庫でもなかった。
大人数を収容できる、細長い木造小屋である。
壁は薄く、窓には板が掛けられている。粗末な長机が何列か置かれ、正面には黒く塗られた大きな板が据えられていた。
鍬や鋤を手に集められた男たちは、その建物を見上げて首を傾げる。
「道具小屋ですか」
「学校です」
セバスチャンが答えた。
前職は教師。行き倒れていたところをアランに拾われ、やがてグレンウッド家の執事となった男である。
開拓団の中から、戸惑いを隠せない声が上がる。
「俺たちは、湿地を掘りに来たのですが」
「ええ。ですから学校が必要なのです」
「字を習えば、泥が勝手に掘れるのですか」
「いいえ。ですが、千人を口頭だけで動かすことはできません」
セバスチャンは黒板へ、白い石灰で大きく数字を書いた。
一、二、三。
「自分の班の番号。担当する水路。使った杭の本数。受け取った道具の数。まずは、それが読めれば結構です」
少し離れた場所で話を聞いていた若いオーウェンも、男たちと似た顔をしていた。
「セバスチャン。先に水路を一本掘ったほうが、みんなも納得するんじゃないかな」
「オーウェン様は、開拓団員全員へ毎朝直接指示を出すおつもりですか」
「それは無理だね」
「でしたら、指示を読める者を増やさなければなりません」
アランが横から口を挟んだ。
「俺も、こいつに拾われた頃は、ほとんど字が読めなかった」
「拾われたのは私でございます」
「細かいことはいい」
「拾った側と拾われた側は、かなり違うと思いますが」
男たちの間に、小さな笑いが起きた。
剣を持ち、領軍を率いるアランも、最初から文字を読めたわけではない。
その事実は、学校という言葉に身構えていた者たちを少し安心させた。
小屋では、朝の作業前や雨の日に、文字と数字が教えられるようになった。
自分の名前。
一から百までの数字。
第一水路、第二水路という区別。
麦袋が何袋届き、何袋を使い、いくつ残ったのか。
立派な文章を書く必要はない。
第三水路、杭二十本不足。
東区画、人員三十名。
その程度が書ければ、昨日の仕事を今日へ渡せる。
学校で学んだ者の中から班長が生まれ、水路番が生まれ、倉番や記録係が育っていった。
王都の役人の中には、水路より先に学校を建てたことを笑う者もいた。
数年後には、誰も笑わなくなる。
◇◇
王国から開発を委託された低湿地は、見渡す限り平らだった。
草の下に水があり、その下には柔らかい泥が続く。荷車を入れれば車輪が沈み、家を建てれば傾いてしまう。
農地には向かない。
少なくとも、王都から派遣された役人たちはそう考えた。
しかし、湿地の近くで暮らしてきた者たちは知っている。
水路を掘る。
掘り上げた土を横へ積む。
積み上げた土は、水面よりわずかに高い地面となる。乾けば道や畑になり、さらに盛れば家を建てられる。
遠くから大量の土を運ばなくても、低湿地の中から新しい土地を作れるのである。
オーウェンは、その方法を大人数で繰り返せる仕組みへ変えた。
開拓事業の最高責任者はオーウェンだが、千人近い開拓団を本人が直接動かすわけではない。
現場全体をまとめる開拓総監を置き、その下に区画長と班長を配置する。
水路、盛土、道路、橋、家屋、倉庫、運搬。
それぞれに責任者が必要だった。
オーウェンが、その年に開く場所と予算を決める。
開拓総監が人員と日程へ落とし込む。
区画長は班へ仕事を割り当て、班長が一人ひとりを現場へ連れていく。
オーウェンが千人分働くのではない。
千人が同じ方向へ働けるようにする。
それが、オーウェンの役割だった。
「旦那様、また自分で掘っておられますね」
現場へ来たセバスチャンが、呆れたように言う。
オーウェンは水路の中に立ち、鍬で底の泥を上げていた。
「少しくらいなら早いよ」
「オーウェン様が一日に掘れる距離は、数メートルです」
「ずいぶん厳しい評価だね」
「ですが、判断を間違えれば千人が一日止まります」
オーウェンは鍬を止めた。
「つまり、掘るなと」
「考えることに専念してください」
「見ているだけというのは落ち着かないんだけど」
「落ち着かなくても構いません」
仕方なく、オーウェンは水路から上がった。
ただし、現場を見なくなったわけではない。
流れがおかしければ水路へ入り、土を握る。畦が沈めば靴を汚して確かめ、実際に鍬を持つ者から話を聞いた。
現場へ入ることと、自分一人で現場を動かそうとすることは違う。
オーウェンも、少しずつそれを学んでいった。
◇◇
開拓団は、繁忙期には千人近くまで膨らんだ。
土地を相続できない農家の次男や三男。
王都や町で職を得られなかった者。
店を畳んだ職人。
軍を退いた兵。
夫を亡くし、子どもを連れて働き口を求める女性。
事情はさまざまだった。
だが、このままでは自分の土地を持てないという点は共通している。
開拓団へ入れば、賃金と食事が出る。
水路や畦の作り方を覚え、麦や米の育て方を学ぶ。数年働き、適性を認められれば、新しくできた農地へ入植できた。
完成した農地には、小さな集落が点在することになる。
農家を一つの大きな村へ集めれば、遠い農地では毎日の畑仕事に通うだけで時間を取られる。
農具を担ぎ、ぬかるむ道を歩き、収穫物を運ぶのは容易ではない。
そこで、それぞれの農地の近く、水路沿いの盛土地に十五から二十五世帯ほどをまとめた。
共同の倉。
井戸。
家畜小屋。
小さな舟着き場。
増水時に逃げ込める高台。
そして、学校を兼ねた集会所。
大きな町が一つ作られたわけではない。
水路と道に沿い、小さな集落が点々と増えていく。数集落に一つ、鍛冶場や粉挽き小屋、大倉庫を備えた中心村も置かれた。
毎年、開拓団員の一部が完成地へ移り住む。
空いた場所には、また新しく職を求める者が入った。
前年まで泥を掘っていた者が、翌年には新入りへ水路の作り方を教える。学校で数字を覚えた男が班長となり、重労働の難しい者は記録係や食事の用意に回る。
開拓団は、農地を作る組織だった。
同時に、農家を育てる学校であり、職を持たない者へ次の生活を与える場所でもあった。
◇◇
開拓は、一年におよそ百ヘクタールずつ進んだ。
一年目に百。
二年目には二百。
三年目には三百。
水路が延び、道が通り、集落の屋根が低湿地の中に浮かび始める。
最初の数年は、王国からの支出のほうが大きかった。
道具を買う。
食料を配る。
家を建てる。
水路を掘っても、翌日に麦が取れるわけではない。
王都の役人からは、何度も同じ質問が届いた。
「いつ利益が出るのですか」
「五年ほどはかかると思います」
「五年も?」
「農地ですからね」
オーウェンは淡々と答えた。
「掘った翌日に穂が出るなら、私も助かるのですが」
五年目を過ぎる頃、収穫が支出を上回り始める。
その功績によって、オーウェンには子爵位が授けられた。
本人の生活は、あまり変わらない。
「子爵になられたのですから、もう少しお喜びになっては」
セバスチャンに言われ、オーウェンは倉の帳面から顔を上げた。
「喜んでいるよ」
「そうは見えません」
「爵位は麦袋を運んでくれないからね」
「人と予算は動かしやすくなります」
「それは、とても助かる」
オーウェンにとって爵位とは、褒美というより、仕事へ使える道具だった。
◇◇
グレンウッド邸の書庫には、ひどく分厚い農業書があった。
革表紙は擦れ、背は何度も修理されている。畑へ持ち出されたことも多く、頁の隅には土や麦粉の染みが残っていた。
オーウェンが、初めて自分で育てた穀物を売った金で買った本である。
麦。
豆。
根菜。
果樹。
家畜。
水路。
堆肥。
地域ごとの播種時期。
さまざまな知識が詰め込まれていたが、正しいことばかりではない。
月の満ち欠けに合わせて種を播けという話もあれば、祈りによって害虫を追い払えるという記述まである。
オーウェンは、本を信じるのではなく、試すために使った。
余白には、細かな字がびっしり書き込まれている。
低湿地では根が腐った。
排水後なら育つ。
麦の後作には遅すぎる。
東区画では収量が多い。
葉は馬が食べるが、茎は残す。
最初の穀物の稼ぎを、オーウェンは知識へ変えた。
その知識が次の穀物を生み、次の稼ぎが新しい道具や種へ変わる。
作れるものは、何でも作る。
ただし、本に書いてあるからといって、いきなり広い土地へ播くことはない。
まず小さく試す。
その土地で本当に育つか確かめる。
育て方を記録する。
失敗すれば、理由を考えてもう一度試す。
グレンウッドの農業は、その繰り返しで種類を増やしていった。
◇◇
元低湿地の農地は、一年に一度しか使われないわけではない。
秋に麦を播く。
初夏に麦を刈る。
その頃には、別の苗代で稲の苗が育っている。
麦を刈り終えた区画から土を浅く起こし、水路の板を閉じて水を入れ、稲を植えた。
水の少ない場所では、豆、粟、黍、蕎麦などを作る。
秋に二度目の収穫を終えると排水し、再び麦を播いた。
麦を刈る班。
運ぶ班。
畑を起こす班。
水を入れる班。
苗を植える班。
一つでも遅れれば、次の作付け時期を逃す。
二毛作は、農家がそれぞれ頑張るだけでは成立しない。
水路、苗代、収穫、運搬、倉、種。
地域全体を一つの年間予定として動かす必要があった。
そこで問題になるのが計算である。
作るものが麦だけなら、まだよい。
麦、米、蕎麦、粟、黍、豆、蕪、飼料作物。
作物ごとに播く時期も、水の量も、収穫までの日数も違う。
さらに、収穫物は食べる分、売る分、種にする分、備蓄へ回す分、粉にする分、家畜へ与える分に分かれる。
豊作になるほど、帳場は混乱した。
その混乱を整理するために、セバスチャンは計算班を育てた。
区画ごとの収穫。
村ごとの人口。
倉ごとの在庫。
水路ごとの使用日。
それらを木札と数盤へ置き、領地全体の数字へまとめる。
農地が増えたから、計算班が必要になった。
計算班ができたから、さらに多くの作物を作れるようになった。
どちらが先だったのか、やがて誰にも分からなくなる。
◇◇
オーウェンが開拓を始めてから、王都は飢えを忘れかけていた。
グレンウッド領と委託開墾地から、毎年ほぼ一定量の穀物が届く。
それは、王都で消費される食料のおよそ四分の一に達していた。
王都は以前より多くの人を養えるようになり、人口も増える。
市場には麦が並び、パン屋が増え、穀物価格も以前ほど激しく変動しなくなった。
だが、それはオーウェン以後の話である。
それ以前のアヴァロン王国は、ノルディカより少しましな程度でしかなかった。
平年なら足りる。
少し不作なら値が上がる。
複数の領が同時に不作となれば、種籾や翌年分へ手をつける。
それでも足りなければ、兵を出し、隣国の土地や倉を奪う。
王の世代までは、食料を求める略奪戦争を知っていた。
アンリ王太子やセリーヌ王女の世代は、もう知らない。
彼らにとって戦争とは、国を豊かにするものではなく、兵と馬と食料を失うものだった。
それは、彼らが特別に立派だったからだけではない。
飢えを知らずに育つことができたからである。
◇◇
開拓開始から十年ほどが過ぎた年。
雨が降らなくなった。
春の雨が少ない年はある。
遅れて降ることもある。
最初のうち、人々はそう考えていた。
しかし雲は来ても、水を落とさない。
畑の表面は白く乾き、踏むたびに土埃が舞う。川の水位は下がり、浅い井戸では底の泥が見え始めた。
各領から、収穫見込みの報告が王宮へ届く。
例年の八割。
七割。
六割。
悪い地域では半分以下。
麦の穂が十分に育つ前に枯れてしまった畑も多い。
王宮の会議室で凶作の報告が読み上げられたとき、王の世代は無意識に槍を見ていた。
麦が足りなくなる。
値が上がる。
買えない者が増える。
倉の前に人が集まり、やがて門を叩く。
止めるには兵を置かなければならない。
兵を置けば、最後には槍を構えることになる。
飢饉とは、そういうものだった。
だが、アンリやセリーヌは、その先を知らない。
セリーヌはまだ十二歳である。
会議で読み上げられる数字を、すべて理解できないわけではない。
同年代の子供と比べれば、はるかに多くの本を読み、大人たちの話にもついていける。
五万人という王都の人口も知っている。
畑から作物が取れ、倉へ納められ、それがパンになることも分かっていた。
自分は、物事の分かる子供だ。
その程度の自負はあった。
王族として教育を受けているのだから、普通の子供とは違う。
大人たちの話も、少し説明されれば理解できる。
それは、まったく根拠のない自信ではない。
ただし、知識として知っていることと、その大きさを想像できることは同じではなかった。
王宮の台所でさえ、小麦粉の使用量が減り始める。
ある日の夕食で、セリーヌは自分の前に置かれた白いパンを見つめた。
「このパンが、なくなる人もいるのね」
小さく口にすると、自分の声が思ったより震えていて、セリーヌは少し驚いた。
その頃、王宮では、セリーヌを親戚の侯爵家へ疎開させる案も出ていた。
「王都で混乱が起きた場合に備えるべきです」
「王女殿下に政治的役割はまだありません。危険な場所へ置く理由もないでしょう」
「しかし、王族が先に王都を離れれば、民へ不安を与えます」
「暴動が起きてからでは遅い」
大人たちの意見は分かれる。
セリーヌ自身には、どうするのが正しいのか分からない。
「侯爵家へ行けば、食べ物があるのですか?」
最初に尋ねたのは、それだった。
王都には食べ物が足りない。
地方には畑がある。
ならば、食料の足りない人々も地方へ行けばよいのではないか。
畑で作物が取れるという理屈は分かっている。
間違った考えだとは、セリーヌには思えなかった。
「ある程度はございます」
侍従は慎重に答えた。
「では、王都の人たちも、みんな地方へ行けばよいのではなくて?」
誰もすぐには答えなかった。
やがて、侍従が口を開く。
「王都には、およそ五万人が暮らしております」
「それは知っていますわ」
セリーヌは少しだけ胸を張った。
「地方の小さな村には、百人ほどしか住んでいないところもございます」
「では、王都の人を百人ずつに分ければ……」
指を折りかけ、セリーヌは途中で止まった。
「五百の村が必要になります」
「五百……」
五百という数字は読める。
百が五つで五百になることも分かる。
だが、五百の村が実際にどれほど広い土地へ散らばっているのか、セリーヌには想像できなかった。
「しかも、村の畑は、その村の者たちが食べるためのものでございます。収穫前の作物は、まだ食料ではありません。倉にある麦にも、冬を越す分と、次に播く種が含まれております」
「王都の人たちが行けば、それを一緒に食べることになるのね」
「はい。ですが、何万人もが一度に押し寄せれば、一緒に食べるという程度では済みません。短い間に食べ尽くしてしまいます」
セリーヌは、目の前の白いパンを見つめた。
畑があれば作物が取れる。
その理屈は分かる。
けれど、一枚の畑が何人を養えるのか。
一つの村の倉が何日もつのか。
五万人という数字が、どれほど多くの食料を必要とするのか。
そこまでは、考えたことがなかった。
「畑があるだけでは、足りないのね」
「はい」
「畑の広さと、食べる人の数を、両方知らなければならないのね」
侍従は、わずかに目を見開いたあと、深く頭を下げた。
「そのとおりでございます」
セリーヌは少しだけ満足した。
一度の説明で、きちんと本質へたどり着けた。
やはり自分は、物分かりのよい子供なのだ。
そう思った。
だが、まだ見えていないものがあった。
◇◇
同じ頃、グレンウッド邸の大広間には、領内各村の村長たちが集まっていた。
普段なら祝い事や客人を迎える場所である。
その日は長机の上に、料理ではなく地図と木札が並んでいた。
村ごとの名前。
畑の広さ。
残っている水量。
麦の収穫量。
苗代で育っている稲苗。
蕎麦、粟、黍、豆、蕪の種。
どれも、今後三か月を決める数字である。
オーウェンの前には、例の分厚い農業書も開かれていた。余白の書き込みを見ながら、農事担当者と作物を選んでいる。
「東村は、予定どおり米へ回せます」
ひとりの村長が言った。
「上流の水門を二日に一度開けていただければ、低い区画まで水が届きます。ただし、高い畑は無理でしょう」
「高い畑には何を作れますか」
オーウェンが尋ねる。
「蕎麦なら間に合います。豆も少し。ただ、両方を播くほど種がありません」
記録係が木札を動かした。
別の村長が手を上げる。
「西村は、稲作を諦めます」
広間の何人かが彼を見た。
「水は残っているのでしょう」
「残っています。ただ、そこまで回せば下流の二村が持ちません。うちは粟と蕪へ変えます」
下流の村長が、深く頭を下げた。
「助かります」
「礼は収穫してからにしてくれ」
西村の村長は苦く笑った。
水は、声の大きい村から取るわけにはいかない。
どの水路へ何日流すか。
どの畑を米に残し、どこを乾燥に強い作物へ変えるのか。
ひとつの村だけを考えれば、すべての水を自分たちの畑へ入れたい。
だが、それをすれば下流の畑が枯れる。
オーウェンは地図の上へ指を置いた。
「米を残すのは、東村の低地と中央村の南区画。西村は粟、豆、蕪へ変更します。北の乾いた畑は蕎麦にしましょう」
「種は足りますか」
「足りません」
農事担当者が答える。
「食用に回す予定だった分から、少し播種へ戻します。ただし、全部ではありません。当然ですが、食料を削りすぎれば働けなくなります」
種にすれば、今は食べられない。
食べれば、三か月後の収穫が消える。
会議は夜まで続いた。
第一水路は東村を優先。
第二水路は中央村と下流二村が交互に使う。
西村は稲作を縮小。
北村は蕎麦と豆。
水をどこへ流すのか。
次に何を作るのか。
どの村が米を諦め、どの村が種を増やすのか。
決まった内容は、その場で記録された。
「これで、全部の村が助かりますか」
若い村長が尋ねる。
オーウェンは、すぐには答えなかった。
「分かりません」
広間の空気が張りつめる。
「ですが、全部の村が自分だけ助かろうとするより、助かる人数は増えます」
誰も反論しなかった。
王宮では、飢饉の報告を聞いて槍を見ていた。
グレンウッド邸では、地図と水路を見ていた。
◇◇
数日後、グレンウッドから王宮へ最初の報告が届いた。
グレンウッド領および委託開墾地は、平年と同量の穀物納入を継続可能。
会議室に、しばらく声がなかった。
「平年と同じ量だと?」
「はい。王都の通常消費量のおよそ四分の一に当たります」
王都では、配給を平時の七割まで落とす方針が決まりつつあった。
その状況で、グレンウッドだけが平時と同じ二十五を出す。
七十まで減った王都配給のうち、三分の一以上をグレンウッドが支える計算になる。
そこへ、二つ目の報告が届く。
必要となった場合、領内備蓄の一部を追加放出する用意あり。
ただし、種籾および領民の最低必要量は保持する。
さらに、三つ目。
麦収穫後の農地へ、蕎麦、粟、黍、豆、蕪などを播種済み。
水量のある区画では稲作を継続。
早い作物は、およそ三か月後から収穫見込み。
王は報告書を読み終えると、長く息を吐いた。
「今ある食料を出すだけではないのか」
「はい」
財務官が答える。
「平時の納入を維持し、不足時には備蓄を出し、その間に次の収穫を作る。三段構えです」
十四歳のアンリ王子と、十二歳のセリーヌ王女は、部屋の端でその話を聞いていた。
セリーヌは、数字の全部を理解できたわけではない。
ただ一つだけ分かる。
グレンウッドでは、今食べるものだけでなく、その次の食べ物まで作り始めている。
「では、王都の人たちは飢えないの?」
思わず声を出すと、会議室の視線が集まった。
セリーヌは少し恥ずかしそうに肩を縮める。
王は娘を叱らなかった。
「食事は減る。苦しい暮らしにもなるだろう」
王は静かに答えた。
「だが、すぐに食べるものがなくなる状況ではなくなった」
「侯爵家へ行かなくてもいいの?」
「今すぐ行く必要はない」
その言葉を聞いても、セリーヌの恐怖が完全に消えたわけではない。
ただ、冷たく固まっていた指先が、少しだけ温かくなった。
◇◇
グレンウッドから王都へ続く街道には、王国軍の兵が立つようになった。
荷車の前後に騎兵が付くだけではない。
橋のたもと。
森へ入る分かれ道。
坂を上りきった見晴らしのよい場所。
荷車が休む宿場。
王都へ入る門の外。
一定の間隔で歩哨が置かれ、穀物輸送の道そのものが守られていた。
ある日、セリーヌは王宮近くの高台から、その光景を見た。
街道の向こうから、グレンウッドの荷車が列を作って近づいてくる。
幌のかかった荷台。
疲れた馬。
泥のついた車輪。
穀物が大切なことは、セリーヌにも分かっていた。
荷台に積まれた麦がパンになり、粥になり、王都の人々へ配られる。
大事な荷なのだから、護衛が付くのは当然だと思っていた。
だが、実際の光景は、セリーヌの想像よりずっと大がかりだった。
荷車の横に兵がいるだけではない。
橋にも兵がいる。
分かれ道にもいる。
森の出口にも、王都の門にもいる。
「ここまで守るのですか?」
セリーヌが尋ねる。
「はい」
侍従は短く答えた。
「荷車のそばだけでは、いけないの?」
「橋を塞がれれば通れません。道の先で人が集まっていても進めません。荷車が無事でも、王都へ着かなければ同じことでございます」
「盗賊が出るの?」
「盗賊だけではございません。飢えた者が集まることもあります。高値で買おうとする商人が荷を止めることもあるでしょう。一本の橋が使えなくなるだけでも、到着は遅れます」
セリーヌは街道を見つめた。
畑で育てる者。
収穫する者。
倉で数える者。
袋へ詰める者。
荷車へ積む者。
馬を引く者。
壊れた車輪を直す者。
そして、道を守る兵。
これほど多くの人間が動かなければ、穀物は王都へ届かない。
「一台の荷車を守っているのではないのね」
セリーヌがゆっくり言った。
「はい」
「王都まで続く道を守っているのね」
「そのとおりでございます」
自分で本質へたどり着けた。
だが、セリーヌの胸には、先ほどのような満足感がなかった。
むしろ、小さな違和感が残る。
「この荷車が来なかったら、どうなるの?」
侍従は、すぐには答えなかった。
「次の配給が減ります」
「それだけ?」
「減ると分かれば、買い占める者が出ます。倉へ押しかける者も出るでしょう。王宮が食料を隠しているという噂も広がります」
「でも、その次に届けば――」
「一度、届かないかもしれないと思わせれば、人は次も届かないと考えます」
セリーヌは、槍を持つ兵を見た。
その槍は、敵国へ向けられているのではない。
王都の中で、人々が争わないようにするための槍だった。
穀物が大事だということは分かっていた。
だが、自分が思っていたよりも、ずっと事態は重大だった。
一台の荷車が遅れる。
一つの橋が塞がる。
一度、配給が途切れる。
それだけで、人々は明日の食事だけでなく、王宮そのものを信じられなくなる。
食料とは、食べるためだけのものではない。
届き続けるという見通しが、人々を落ち着かせる。
道が守られているという事実が、国の秩序を支えている。
「食べ物を運んでいるだけではないのね」
セリーヌが呟いた。
「はい」
「王都が、まだ大丈夫だということも運んでいるのね」
侍従は静かに頭を下げる。
かつて兵は、食料を奪うために街道を進んだ。
今は、食料を届かせるために街道へ立っている。
その間を、グレンウッドの荷車がゆっくりと進んでいった。
セリーヌは、それまで自分を物分かりのよい子供だと思っていた。
実際、同じ年頃の者より多くの本を読み、大人たちの話も理解できる。少し説明されれば、その先まで考えられるつもりでいた。
畑で作物が取れることも知っていた。
王都には五万人が暮らしていることも知っていた。
穀物が重要であることも知っていた。
だが、知っていることと、見えていることは違う。
数字を覚えていることと、その数字が占める広さを理解することも違う。
五万人が食べるということ。
道一本を守るということ。
配給が一度止まるということ。
それらが現実の世界でどれほど大きな意味を持つのか、セリーヌは想像できていなかった。
自分の頭の中より、王国はずっと広い。
そこには、自分がまだ知らない現実がある。
分かっているつもりだった。
その自信が、少しだけ揺らいだ。
恥ずかしくもあり、悔しくもあった。
だが、その悔しさは、セリーヌの中から消えなかった。
分からないものがあるなら、自分で見なければならない。
数字だけでは分からないなら、現場へ行かなければならない。
このとき胸に残った小さな挫折が、後にセリーヌを何度も王宮の外へ向かわせることになる。
◇◇
王都の配給は、平時の七割ほどまで減らされた。
白い小麦パンは少なくなり、大麦や豆を混ぜた黒いパンが増える。菓子や酒は姿を消し、王宮の食卓も品数を減らした。
七割あれば、すぐに人が倒れるわけではない。
しかし、不満や恐怖が消える量でもなかった。
明日の配給はあるのか。
王宮は食料を隠しているのではないか。
貴族や商人だけが多く持っているのではないか。
噂が広がれば、七割の配給でも暴動は起こり得る。
王宮は、毎週の入荷予定を公表した。
王家の倉に何日分あるのか。
グレンウッドから何台の荷車が来るのか。
次の救荒作物がいつ取れる見込みなのか。
それでも、グレンウッドからの荷車は途切れなかった。
今週も来る。
来週も来る。
その次の週も、街道の向こうから荷車の列が現れる。
大量の食料が一度に届くわけではない。
だが、決められた量が、決められた日に届いた。
王都の人々は、その列を目で確かめる。
街道には王国軍の歩哨が立ち、橋と分かれ道を守っていた。
王宮の発表は嘘ではない。
来週の配給も本当にある。
食料が少ないこと以上に、人を不安にさせるのは、次がいつ来るか分からないことである。
途切れない荷車は、麦だけでなく、見通しを運んでいた。
◇◇
アンリ王子は、毎週の輸送報告を読むようになった。
荷車の台数。
壊れた車輪。
病気になった馬。
雨で遅れた時間。
橋へ配置した兵の数。
宿場で消費した飼料。
英雄の名前は書かれていない。
数字と原因と、次の対策だけが並んでいる。
「戦場の報告書とは違うな」
アンリが呟いた。
「何がですの?」
隣にいたセリーヌが尋ねる。
「誰が敵を倒したか、どこにも書いていない」
「敵兵はいませんもの」
「いるよ」
アンリは、窓の外の乾いた空を見る。
「ただ、剣で斬れないだけだ」
セリーヌは、街道で見た槍を思い出した。
その槍は敵を倒すためではなく、荷車を通すために立っていた。
国を守るという言葉にも、自分の知らない形がある。
◇◇
三か月後。
最初の蕎麦が刈られた。
続いて粟、豆、蕪。
水を残せた区画では、早い米も実り始める。
備蓄倉の底が見える前に、新しい収穫物が入ってきた。
蕎麦は、小麦のような白いパンにはならない。
粥にし、薄く焼き、豆や蕪と一緒に食べる。
味を選べる状況ではなかった。
それでも、新しい収穫には力がある。
去年の残りではない。
今年、もう一度取れた食料だった。
冬は厳しかった。
王都の人々は痩せ、食卓も寂しくなる。
それでも、大規模な餓死は起きなかった。
地方でも、余裕のある領から不足する領へ穀物が回され、最悪の事態は避けられた。
アヴァロン王国は、生き延びたのである。
◇◇
翌年、雨が戻った。
乾いていた水路に水が流れ、井戸の底が見えなくなる。
その春、オーウェンは王宮へ呼ばれた。
今度は報告のためではない。
正式な叙爵の儀式だった。
十年間にわたる低湿地開発。
千ヘクタールに達した新規農地。
開拓団から生まれた小集落と中心村。
平時における王都への食料供給。
備蓄制度。
大旱魃時の納入維持。
救荒作物への素早い切り替え。
委託されていた開墾地は、正式にグレンウッド家の領地として認められた。
オーウェン・グレンウッドには伯爵位が授けられる。
「オーウェン・グレンウッド」
王が名を呼んだ。
「そなたの功績は、一度の働きではない」
「はい」
「十年の働きである」
オーウェンは頭を下げたまま答える。
「私一人の働きではございません」
「分かっている」
王は静かに続けた。
「水路を掘った者。文字を覚えた者。村を作った者。種を残した者。倉を守った者。荷を運んだ者。道を守った者。その者たちが、そなたの指示がなくとも働ける形を作った」
オーウェンは黙っている。
「一人で千人分働いたのではない。千人が働き、さらに次の千人を育てられる仕組みを作った。それが、そなたの功績である」
オーウェンは、ようやく顔を上げた。
「伯爵位は褒美であると同時に、命令でもある」
王の声が広間に響く。
「今後も、この国の食を支えよ」
「承知いたしました」
爵位を与えられたときより、仕事を命じられたときのほうが、オーウェンの表情は引き締まった。
褒められることには慣れていない。
仕事なら分かる。
その様子を、アンリとセリーヌが見つめていた。
強い魔法を放つ者なら、誰にでも見える。
敵将を討ち取った者なら、名が残る。
だが、十年前に建てた学校や、毎年少しずつ積んだ麦袋は、危機が来るまで目立たない。
目に見えないものを見つけ、その価値を認める。
それも王族の仕事なのだと、二人は知った。
王都の食料の四分の一。
それを一つの領が担うことの頼もしさと、恐ろしさもまた、王族なら理解しなければならない。
グレンウッド家が忠実だから、問題にならない。
オーウェンが力を誇示しないから、脅威に見えない。
だが、王都の五人に一人を超える人々が、その土地から届く食料に支えられている。
王家は、その重さを忘れてはならなかった。
オーウェンの力を削ぐのではない。
同じ仕組みを、王国全体へ広げる。
それが、オーウェンへ爵位を与えた王家の次の仕事になる。
◇◇
グレンウッド邸へ戻ったオーウェンを、十歳のエミリアが玄関で待っていた。
新しい礼装を着た父を見上げ、首を傾げる。
「お父様、伯爵になったの?」
「なったらしいね」
「何が変わるの?」
オーウェンは少し考えた。
「開拓した土地が、正式にうちの領地になった」
「今までも、お父様のお仕事だったよ」
「そうだね」
「じゃあ、同じ?」
「だいたい同じかな」
オーウェンは笑った。
「ただ、失敗したときに、もっとたくさんの人へ謝らなければならなくなった」
エミリアの目が丸くなる。
「偉くなったのに?」
「偉くなるというのは、失敗したときに責任を取る範囲が広くなることなんだよ」
十歳のエミリアには、まだよく分からない。
それでも、父が立派な物をもらって帰ってきたのではなく、新しい仕事を背負って帰ってきたらしいことだけは理解できた。
「お父様は、王都の人を助けたの?」
「皆でね」
「魔法で?」
「魔法は使っていないよ」
「戦ったの?」
「戦ってもいない」
エミリアは、ますます不思議そうな顔になる。
オーウェンは娘の頭へ手を置いた。
「畑を作って、倉に食べ物を積んで、必要なところへ運んだ。それだけだよ」
「それだけ?」
「それだけ」
だが、その「それだけ」を十年続ける者は多くない。
水は、行き先があれば流れる。
穀物もまた、畑から倉へ、倉から荷車へ、荷車から人の口へと、道がなければ届かない。
オーウェンが十年をかけて作ったものは、千ヘクタールの農地だけではなかった。
人が飢えないところまで、食べ物が流れていく道である。
その道の始まりには、水路より先に建てられた、小さな学校があった。
王宮から見れば、オーウェンは王都の四分の一を握る男だった。
戦わずに、王都を止められる力を持つ男。
しかし、その力を一度も脅しに使わず、毎年同じように荷車を送り続けた男。
本人は礼装より泥のついた靴のほうが似合う、目立たないただの中年男にしか見えない。
それでも、この国で誰が最も強いのか。
分かる者には、分かっていた。
そしてその日、オーウェン・グレンウッドは伯爵になった。




