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第47-2話 離反 下

第47-2話 離反 下


 ノルディカ王都の会議室で、国境三領への調査が命じられていた頃、ハルデン領のある村では、冬前の水路さらいが続いていた。


 王都でどれほど政治的な言葉が飛び交おうとも、畑は待ってくれない。


 水路は、放っておくとすぐに詰まる。秋の雨で流れ込んだ泥、枯れ草、崩れた畦の土。春になってから直すのでは大変になる。雪解けの水が増えてくるからだ。流す場所を整備しておかなければ、畑はぬかるみ、種を蒔く時期を逃す。


 村の男たちは、鍬と木の鋤で泥を上げていた。年寄りは石を選び、若者はそれを水路の底へ敷く。子どもたちは、小さな籠で枯れ草を運んでいた。


 その水路の脇で、マルタ・ベルナールが腕を組んで立っている。


 グレンウッドから来た農政役人である。


 表向きには、クロイツ商会に買収され、グレンウッドの農政技術を流した裏切り者ということになっている。


 だが、彼女の顔には、裏切り者らしい後ろ暗さはまったくなかった。


 マルタは、泥のはねた裾を気にすることもなく、水路の縁にしゃがみ込んだ。指先で底に敷かれた石を一つ動かし、水の流れる向きを確かめる。冷たい泥が爪の間に入ったが、顔色ひとつ変えない。


 彼女にとって、それは恥ではなかった。


 畑を残すための泥である。


「その曲がり角は広げてください。去年もそこで詰まったのでしょう」


 三領の若い役人が、帳面を見ながら慌てて答えた。


「はい。記録では、春の二度目の雨であふれています」


「でしたら、記録を読んだ時点ですぐに広げる工事をしてください。水路は掘ったら終わりではありません。詰まらないようにするところまでが水路です」


「はい」


「はい、ではありません。どこの村でも詰まりやすいところが確認できるよう、印を残してください。人が替わってもすぐ治せるようにします」


 若い役人は、必死に頷き、帳面へ書き込んだ。


 マルタは、その書き方を横から覗き込み、ほんの少し眉を寄せた。


「村の名前だけでは足りません。水路のどの曲がり角か分かるようにしてください。来年、別の人が見ても同じ場所に行けなければ、記録ではありません」


「す、すみません」


「謝る時間があるなら、書き直してください」


 厳しい声だった。


 だが、若い役人を責めているのではない。彼女はただ、甘い記録を許さないだけだった。


 マルタの指摘は細かい。


 水路の幅。底の石。畦の高さ。倉の床板。袋の置き方。種籾の封印。配給札の色。村ごとの労働力の数えかた。


 どれも一つだけ見れば、小さなことだった。


 だが、その小さなことの積み重ねで、今年の満量納入は成立した。


 村外れの倉では、若い役人が袋を数えていた。


「これは納入分ではありません。春の種です。印を赤にしてください」


 倉番の農民が頷く。


「赤印は開けられない。領主様と、村長と、記録役の三人の印がいるんだな」


「はい。誰か一人が腹を空かせても、勝手に開けられないようにします」


「面倒だな」


 倉番は苦笑した。


 その手元にある台帳には、赤、黒、青の印が整然と並んでいる。


 赤は種籾。


 黒は中央への納入分。


 青は村の冬越し分。


 以前なら、倉に入った穀物はまとめて扱われていた。必要になれば開け、足りなくなればまた別の倉を開ける。誰も悪気はなかった。だが、悪気がなくても種は減る。冬越し分も減る。気がつけば、春に蒔くものがない。


 だから、最初に分ける。


 分けたら、勝手に扱わせない。


 扱わないように、印を付ける。


 印を守るために、責任者を複数にする。


 ただそれだけのことが、飢えた村では難しかった。


 マルタは、赤印の袋が倉の奥に積まれていくのを見ていた。


 誰かが空腹に負ければ、あの袋は開けられてしまうかもしれない。だからこそ、腹が減った人を責めなくても済むように、最初から開けにくくしておく。



 ◇◇



 倉の外では、エレナ・クロイツが荷車の手配を確認していた。


 農業商会クロイツ商会の女性番頭である。


 もともと三領とは、麦、豆、飼い葉、種、農具などの取引で深い関係があった。どの村が毎年どれだけ種を買い、どの倉で麦が湿気るか。領主よりも細かく知っていることさえある。


 だから三領は、グレンウッドとの連絡役を彼女に頼んだ。


 そして彼女は、その役を引き受けた。


 商売になるからでもある。国境が荒れれば、商会の道も潰れるからでもある。だが、それだけではなかった。


 彼女は飢えた村を見てしまっていた。


 食べ物を探して、種籾の袋に手を伸ばす母親を見てしまっていた。


 その母親は泣き叫んでいなかった。ただ、黙って袋へ手を伸ばしていた。怒りでもなく、悪意でもない。腹を空かせた子を見ているうちに、秋のことを考える力が削れてしまっていた人の手だった。


 エレナは、その手を忘れられなかった。


 だから、商人として、そして人として、この仕事を受けた。


「エレナさん」


 村の役人が、小走りで近づいてきた。


「次の荷車ですが、ライゼン領へ回す分が足りません」


 エレナは、帳簿に挟んでいた細い木札を抜いた。木札には、各領へ向かう荷車の数、馬の戻り予定、袋の積み替え先が小さな字で書かれている。


 彼女は素早く目を走らせたが、すぐには答えなかった。


 足りない。


 その言葉には、いくつも意味がある。馬が足りなければ袋が動かない。袋が動かなければ、村の配給が遅れる。配給が遅れれば、誰かが種籾に手を伸ばす。


 エレナは唇の端を少し噛んでから、いつもの商人の声に戻った。


「足りないのは荷車ですか、馬ですか、袋ですか」


「馬です」


「なら、ヴォルフラム領から戻る空荷を待ってください。袋を積み替えます。空で戻す余裕はありません」


「分かりました」


「それと、中央へ納める黒印の袋には、クロイツ商会の封印も重ねてください。途中で勝手に開けられたら、どの村の分が減ったのか分からなくなります」


「はい」


 エレナは帳簿を閉じ、ふっと息を吐いた。


 冷たい空気で指先が赤くなっている。彼女は両手を軽くこすり合わせたが、すぐにまた帳簿を開いた。温める時間より、荷車を回す時間の方が惜しかった。


 その顔を見て、近くにいた農民が笑った。


「エレナ様は、グレンウッドの農法を命がけで盗んできたそうですね」


 エレナは、少しだけ目を細めた。


「ええ。そういうことになっています」


 声は軽かった。


 だが、胸の奥には小さな苦味があった。盗んだことにする。その方が通りやすい。それは分かっている。けれど、本当は、泥だらけになって水路を見ているマルタも、穀物を出したグレンウッドも、盗まれた間抜けな被害者ではない。


 それでも、彼女は笑った。


「敵の技術を盗むなんて、さすがです」


「褒めるなら、畑が実ってからにしてください」


 エレナは、軽く返した。


 農民たちは笑い、再び泥にまみれて鍬を振るった。


 彼らにとって、それはアヴァロンへの屈服ではなかった。


 敵から奪った、生き残るための武器だった。


 そして、その武器は剣ではない。


 水路であり、倉であり、印であり、台帳であり、種籾だった。


 夕方、作業を終えた村人たちが水路脇に腰を下ろした。泥のついた手を雪解け水で洗い、硬いパンをかじる。


 若い農夫が、ぽつりと言った。


「中央に麦を出したのに、まだ倉に残ってるんだな」


 隣の年寄りが、笑った。


「残したんだよ」


「同じじゃないのか」


「違う。残ったんじゃない。残すように数えたんだ」


 若い農夫は、少し考えてから頷いた。


「じゃあ、来年も蒔けるな」


「蒔ける。だから今日、泥を上げた」


 年寄りは、水路の方を見た。


「水が通れば、麦が立つ。麦が立てば、人が残る。人が残れば、兵も出せる。そういうもんだ」


「戦より面倒だな」


「戦は一日で勝った気になれる。畑は一年ごとにしか答えをくれん」


 年寄りは、乾いた手で膝の泥を払った。


「だが、畑は裏切らん。手を抜けば減る。手を入れれば、少しは返す」


 その言葉を、マルタは少し離れた場所で聞いていた。


 彼女は何も言わなかった。


 ただ、帳面の端に小さく印を付けた。


 この村は、来年も蒔ける。


 それだけで、今日の作業には意味があった。



◇◇



 少し離れたところで、女たちが大鍋を囲んでいた。


 今日の水路さらいに出た者へ配る、薄い麦粥だった。濃い食事ではない。具も多くない。けれど、去年までのこの村なら、その鍋を見ただけで空気が変わった。誰に多くよそうか、どこを削るか、明日の分を残せるか。そんな計算が、食べる前から人の顔を険しくしていた。


 今年は、少しだけ違った。


 鍋の横を、小さな子どもが覗き込んでいる。母親がその肩を引き寄せた。


「熱いから、まだだめよ」


 そう言いながら、女は倉の方をちらりと見た。


 赤印の袋は、まだ奥に積まれている。


 去年の冬、その手は一度、あの袋へ伸びかけた。泣いたわけではない。ただ、腹を空かせた子の顔を見ているうちに、春のことを考える力が削れていっただけだ。あのとき止めてくれたのが誰だったのか、もう顔までは思い出せない。ただ、開けずに済んだことだけは覚えている。


 今年は、自分から目を逸らさなかった。


 赤印は春の種。


 黒印は中央へ出す分。


 青印は村の冬越し分。


 最初に分けて、分けたまま守る。そう決めてから、腹の減り方まで少し変わった気がした。今日食べるぶんと、春まで残すぶんが、頭の中で混ざらなくなったからだ。


 女は木椀を受け取り、子どもに渡した。


 湯気の向こうで、子どもが目を輝かせる。


「おかあさん、これ、たべていいやつ?」


 女は、一瞬だけ目を閉じてから頷いた。


「ええ。これは食べていいやつよ」


 子どもは安心したように匙を入れた。熱さに少し顔をしかめ、それでも夢中で口へ運ぶ。女も自分の椀を受け取り、ゆっくり息を吐いた。


 豪勢な食事ではない。


 だが、春に蒔く袋へ手を伸ばさずに食べられる一椀だった。


 その湯気を見ながら、エレナは帳簿を閉じた。


 目の前の母子は、あの日に見た母子とは少し違う。腹が満ちたからではない。今日の食事と、春の種が、きちんと別のものとして守られている。その違いが、人の顔を変えるのだと分かった。


 エレナは、胸の奥に溜まっていた硬いものが、ほんの少しだけ解けるのを感じた。


「……これなら、冬を越せるかもしれませんね」


 誰に言うでもなく漏れた言葉に、そばで帳面を抱えていたマルタが短く答えた。


「越せます。そのために、やったのですから」


 いつもの厳しい口調だった。


 けれど、その声は少しだけ柔らかかった。


 水路脇では、さっきまで泥を上げていた男たちが、黙って椀をすすっていた。誰も赤印の倉を見なかった。それだけで、今年は去年よりましだった。


◇◇


 ノルディカ国境三領が、中央に対して「グレンウッド式農業を盗んだ」と説明したという報告は、数日遅れてアヴァロン王宮にも届いた。


 報告書を読んだアンリ王太子は、しばらく黙ってから、紙面を机に置いた。


「……盗んだことにしたか」


 その声には、怒りよりも呆れが混じっていた。


 セリーヌ王女は、報告書の文面を目で追いながら、小さく息を吐いた。


「敵国に教えを請うたとは言えませんもの。あちらの立場では、盗んだことにする方が通りやすいのでしょう」


 リュシア公女が、静かに頷いた。


「密通ではなく、敵国の優位を奪った謀略。そう言い換えれば、ノルディカ中央の古い貴族たちにも飲み込みやすくなります」


「実際には、こちらも承知で渡しているのだがな」


 アンリが言うと、セリーヌは少しだけ苦笑した。


「そこは、言わない方がよろしいですわ。せっかく向こうが、飲み込める形に整えたのですから」


 国王は、地図の上に視線を落としていた。


 グレンウッド領の向こうに、ハルデン、ライゼン、ヴォルフラムの三領がある。


 その三領が、満量の穀物を納めた。


 その理由を、ノルディカ中央は疑っている。


 そして三領は、敵国から農業技術を盗んだのだと言い張っている。


 国王は、低く言った。


「ならば、盗まれたことにしておけ」


 その場の全員が、王を見た。


「三領がそう言わねば立たぬなら、それでよい。こちらが『支援した』とわざわざ言う必要はない」


 アンリが、慎重に口を開いた。


「父上。よろしいのですか」


「よい」


 国王は地図から目を離さなかった。


「国境が荒れれば、また兵と食糧を失う。三領がノルディカのまま立ち、畑を守り、中央へ納めるなら、それは我らにとっても悪くない」


 リュシアが、少しだけ目を細める。


「国境の向こうで、国境が静かになるのですものね」


「そうだ」


 国王は頷いた。


「剣を抜いて勝つばかりが勝ちではない」


 セリーヌは、その言葉を聞いて、ほんのわずかに肩の力を抜いた。


 戦争のあとで得るべきものが、焼けた村でも、奪った倉でもなく、次の春へつながる静けさだと、王が分かっている。それだけで、彼女には十分だった。


 ただ、それでも口元には小さな皮肉が浮かぶ。


「盗まれたことにしておけ、ですか。なかなか上品ではありませんわね」


 国王はようやく顔を上げ、娘を見た。


「お前が言うか」


「わたくしは、もっと上品にやりますもの」


 アンリが思わず苦笑し、リュシアも口元を押さえた。


 重い話のはずなのに、その一瞬だけ部屋の空気がほどける。


 だが、すぐにセリーヌは真顔へ戻った。


「三領は、まだノルディカの領主です。旗も替えていません。王にも背いていません。ですから、こちらもその形を崩してはいけませんわ」


「分かっている」


 国王が答える。


「こちらは何も言わぬ。ただ、国境安定のために必要な範囲で、今後も見ておく」


「はい」


 セリーヌは静かに頭を下げた。


 盗まれたことにする。


 ただそれだけの建前が、国境の向こうで畑を守り、国境のこちらで次の戦を遠ざける。


 剣を抜かない戦いとは、こういうものなのだろうだと、セリーヌ王女は思った。



◇◇



 かつてこの国において、国力とは戦力そのものだった。


 兵の数であり、剣の数であり、敵から奪える倉庫の数だった。戦争に勝てば豊かになる。古い世代はそう信じて疑わなかった。


 だが、アヴァロンではすでに、オーウェン・グレンウッドが二十年をかけて、別の扉を開いていた。


 兵を集めることが国力だった時代から、兵を食わせ続けることが国力になる時代へ。


 奪う力ではなく、作り続ける力こそが国を強くするのだと、アヴァロンの若い世代はすでに知っていた。


 アンリ王太子も、セリーヌ王女も、エミリアたちグレンウッドの子どもたちも、その時代の中で育った。


 だから彼らには、戦争で国力が増えるという古い感覚が、もう分かりにくくなっていた。


 戦争は、国力を増やすものではない。国力を削るものだ。


 そして今、ノルディカの国境三領もまた、誰にも宣言しないまま、その扉の前に立ち始めていた。


 彼らはまだ、王に背いてはいない。


 旗を替えたわけでもなく、敵国への助力を公言したわけでもない。


 むしろ彼らは、敵から盗んだのだと言い張っている。


 だが、畑の水を管理し、倉の残量を数えた。種籾を別に分けた。来年の麦を、今年の戦の後始末から守ろうとした。


 それを離反と呼ぶ者は、まだいなかった。


 けれど、国の中心が見ている方向とは、少し違う方向を見始めていた。


 王都の命令ではなく、畑の都合を。


 軍の名誉ではなく、春の種を。


 今年の戦果ではなく、来年の収穫を。


 それはまだ、小さなずれにすぎない。


 だが、国家というものは、ときにその小さなずれから変わっていく。


 離反とは、必ずしも剣を向けることではない。


 国の中心とは別の理屈で土地を守り始めること。


 その瞬間にこそ、静かに始まるものなのかもしれなかった。



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